急襲

 宴に向けて場所が整えられ、王宮内は帰還する王を迎えるための準備が着々と進められていく。その中心に立ってぐるりと見渡してみたら、いつもより華やかさを持つ周りの雰囲気に胸が躍った。

 先程せっせと動き回る女官の手伝いをしようと動いていたら、メジットに止められて手を持て余してしまっていた。


「葡萄酒もたくさん用意しておいてね」

「畏まりました」


 小走り状態で宴の席を作ってくれている女官に頼んでおく。いつもなら数量を制限させるところだが、今日くらいは大目に見てたくさん揃えて、仕事を終えてきた彼に好きなだけ飲んでもらいたい。


「肉料理も忘れないで」

「承知致しました」


 肉料理も彼の好物だ。勿論野菜や果物も忘れずにたっぷり用意する。


「そうだわ、イパ」


 また一つ思いついて女官の手伝いをしていた幼い側近を呼んだ。


「踊り子と楽師もたくさん手配してくれる?」

「お安い御用です。今を時めく名人たちを揃えますね」


 にこりと頷くといつもと同様パピルスとペンを両脇に抱えて向こうへと駆けて行った。

 到着は夕方になるという知らせだった。それまでにもっと何か出来ることはないかと考えを巡らせていると一つの足音がこちらにやってきた。


「いちいち命じなくとも女官たちは最初からそうするつもりでいるぞ。あいつらだって素人じゃない」


 こんな嫌味たっぷりな声音の持ち主は一人しかいない。


「どれだけわくわく気分なんだ、お前は子供か」


 声が掛かった方向を見れば、茶色がかった赤毛を搔きあげる人がいる。先程まで外に出ていたせいで髪は普段より乱れていた。


「二か月ぶりに会えるのだもの、当然よ。ラムセスだってそうでしょう?」

「俺が?」

「ほら、いつもより顔が笑ってる。嬉しそうだわ」


 指摘をしたらその人は慌てて自分の口元を片手で抑えた。その仕草がおかしくてつい笑ってしまう。

 いつもならへの字に曲がっている口端も今日に限っては上に上がっているのを私は見逃さなかった。帰還するという知らせの後、声には出さないにしても嬉しさを滲ませていたあの顔は何と言われても忘れられない。


「お前のおもりがこれで終わりだと思うと嬉しくて仕方がなかったんだ」


 この人の内面は、なんだかんだ言って私と似ているところがあるのだと思う。


「ねえ、ラムセスも一緒に考えて。彼を驚かせたいのよ」

「誰が!俺は俺でファラオが喜ばれるようなものを色々と進めている。お前とはやらない、絶対に」


 叫ぶように断られた挙句、指まで突き付けられる。せっかくのめでたい日に怒鳴ることもないのに。


「こらこら、ラムセス、王妃様にそういう失礼な口を利くものではないぞ」


 唐突に背中から聞こえてきた声に、ラムセスの顔が一気にげっそりと歪んだ。


「ああ、我らの麗しき王妃よ!」


 わざとらしい抑揚をつけた声を響かせ、下エジプト将軍ホルエムヘブはラムセスを押しやって私の前に跪いた。

 この人はどうにか彼に気に入られようと私にまでこんな大げさな態度を取ってくるが、初対面の時以来変なトラウマが私の中に残ってしまっていて今でも苦手意識は消えていない。


「どうか私の部下の失態をその小さき御胸にとどめ、お許しください」


 小さき御胸って。どうせ、あなたの愛しのネフェルティティと比べれば雲泥の差なのでしょうよ。

 自覚しているだけに腹が立つというか、心がべこりと凹んだ。


「おやおや、どうしてそのような冴えないお顔を!」

「そんなことないわ」


 笑顔を無理に作ったのが悪かったか、ものすごく変な顔になっているらしく、ラムセスの顔がぎょっとした顏で私を二度見した。笑顔と顰め面が絶妙に合さった酷い顔なのだろう。それでもこれ以上笑顔に近づけることは無理だと妥協する。


「なんと酷いお顔をしていらっしゃるのですか!ああ、我が部下の失言にお怒りなのですね!!心中お察し申し上げます!ご安心ください、上司である私がちゃーんと言い聞かせておきますので!」


 この将軍の中ではもうすでに、すべて部下のせいとなっているようだ。ちらと垣間見た部下である隊長はもうすっかり呆れ果てたような表情で頭を抱えている。


「それと先程までファラオに献上するため、獣どもを狩ってまいりました!さあ、王妃様にご覧いただくのだ!」


 ホルエムヘブの声に従って入ってきたのはライオンやら鳥やら鰐やらを抱えた兵士たちだ。槍と剣が刺さって血まみれのそれらについたじろいでしまう。


「いかがでしょう!ファラオはお喜びになりますよね!お気に召しますよね!!」

「え、ええ……きっと」


 苦笑気味に答えてみたらホルエムへブは「そうでしょう、そうでしょう」と何度も太い眉を上下に動かす。

 それにしてもすごい量だ。1日でこれだけ狩っていては、エジプトから動物がいなくならないかと心配になるほどだった。


「ではこれで宴の時間まで失礼させていただきます。いやあ、ファラオのご帰還が待ち遠しいですなあ!ラムセス行くぞ」


 一礼した二人が獲物と共に去っていく背中を見送った。ほっと息をついて外に目を向ければ、陽が傾きかけて橙に光の色を変えている様子が目に入る。

 夕暮れまであと少しだ。もう間もなく、彼が私のもとに帰って来る。そう思うだけで、その瞬間が待ち遠しくて堪らなくなる。


「王妃様」


 頭を少し下げてメジットが私の方へと他の侍女たちと共に現れた。


「そろそろお召替えを。ファラオが驚かれて腰を抜かしてしまわれるくらい美しく着飾りましょうね」


 優しく微笑んでくれる女官たちに私もそうねと微笑み返して着替えに向かった。





 準備を整え、あとは彼を待つだけになってからどれくらい時間が経ったのだろう。

 あの時傾きかけたと思っていた太陽はすでに地平線へと姿を消し、宴の席から流れてくる炎の灯りだけがそわそわし始める私たちの影を伸ばしていた。

 2か月前、手を振って彼と別れた場所で、彼の現れるはずの方向を見つめ、部屋で酔いつぶれているホルエムヘブを除く皆で今か今かと待っているのに、エジプトの王が率いる行列は一向に現れない。メンネフェルの門に到着したという知らせも来ない。

 時間が進むにつれて嫌な緊張があたりに淀みはじめ、私にまで不安を植え付ける。身体の前に組んだ手の、指と指の間に気持ち悪い汗を這わせていた。


「何かあったのか……」


 私の黒い淀みを煽るかのように隣に立つナルメルが険しい表情で髭を撫で、細めた目を遠くに投げてそう零した。

 今までこんなに到着が遅れたことはなかった。遅れる時は前もっていつも連絡をくれる。彼はそういう人だ。


「宰相殿、いかがいたしましょう。俺がお迎えに出た方がよろしいですか」


 落ち着かない様子のラムセスが尋ねるけれど、宰相はいやと否定した。


「今回お傍にはセテムもついている。先程迎えも遣わした。何か起こっていれば知らせが来よう。もうしばらく様子を見た上で、それでも知らせがなかった場合はお前を行かせよう」


 何か起これば。

 一段と胸が苦しくなって、門の方向をただ見つめる。

 道中に何かあったのだろうか。風邪をひいたか、襲われたか。

 そこまで考えて思考を振り払った。これ以上巡らせていたら自分を抑えきれなくなってしまう。自分を保って。落ち着いて。

 セテムもついている。周りも数百の兵で固めている。それにラムセスが彼は素晴らしい武術の持ち主だと言っていた。

 健康という言葉の代名詞のような人だ。強い人だ。だから、大丈夫。


「馬だ!」


 並んでいた一人の大臣の声に弾かれて顔を上げると、エジプト兵を乗せた馬が一頭、私たちの方へ走り込んできた。馬は興奮しているのか兵士が降りたと同時に小さな鳴き声の余韻を残して王宮の庭の奥へと消えていく。


「急襲に御座います!」


 息を切らした兵士は階段の前、私の正面に跪き、肩を揺らしながら第一声を発した。


「我が兵の中に謀反者あり!」


 穏やかだったナルメルの眼差しが鋭く光り、誰もが息を呑む音一色にあたりが染まる。

 謀反者。何を言われたか上手く飲み込めず、何度も頭の中でその言葉を繰り返す。同じように息を飲んだメジットが私を落ち着かせるように私の肩に手を添えた。


「兵の中に我らの王家を裏切る者が潜んでいた様子!テーベよりご帰還なされる道中にてファラオは怪我を負われ、今夜は道中にありましたオアシスで念のため休息を取られるとの知らせです!」


 怪我を負った。彼が。

 血の気が引いて、どうしたらいいか分からなくなる。


「お命に別状は」


 ナルメルが杖を握りしめ、低めた声で兵士に問う。杖が成した音は周りを囲む人々の正気を取り戻させるほど鮮明だった。


「案の上、腕を掠った程度。お命に別状はないと聞き及んでおります。ただ今回は同伴していた侍医殿により休息を取った方がいいとのことでした」


 休息を取らなければならないほどに、出血は酷いのだろうか。どれくらいの深さの傷を負ったのだろうか。

 出てくるのは疑問ばかりなのに、小刻みに震える唇から出て来てくれなかった。


「して、その謀反者は何者だ」


 腕を組み、ラムセスが一歩前に出て脅すかのように低めた声で尋ねた。その姿は今にも飛びかかりそうな狼を連想させた。


「首謀者は捕えたのか」


 ファラオという存在に剣を向けた裏切り者の正体が分からない限り、彼がどういう目的で狙われたかが不明になる。次がないとも言い切れない。

 沢山の目が一人に集中する世界で、その兵は表情を苦しげに歪ませ、地面に額を押し付けるように頭を下げた。


「それが……あまりに突然のことで取り逃がしてしまい……申し訳ありませぬ!!」

「一体兵どもは何をしていた!!」


 ラムセスが怒声を張り上げた。


「ファラオのお傍についていながら兵の中に裏切り者がいたと何故気づかなかった、愚かな!!ファラオの御身に何かあった場合、どう責任を取るつもりだったのか!」

「も、申し訳ありませぬ!!」


 今までに目にしたことのない怒り様のはずだったのに、私は茫然としたまま動くことが出来ないでいる。


「ラムセス、そう騒ぎ立てるでない。ファラオはご無事だったのだ」


 緑眼を見開き、眉を吊り上げている隊長を宰相が諭すように止めた。穏やかな声は私の思考から真紅を取り除いてくれる。


「まずは皆でその裏切り者を探し出すのが先決というもの、ただ怒鳴り散らすくらいならば後からでも十分に出来る」

「……分かっています。ただ、我が部下が裏切り者を取り逃がしたことが情けなかったというだけ」


 茫然として崩れそうな足をどうにか支えている私とは対照的に、ラムセスは階段を一段降り、指示を待つ兵たちを見渡した。


「衛兵!」


 ラムセスは右手を前に水平に掲げ、あたりに声を散らす。


「これよりすぐに馬に乗り怪しげな者の散策を行え!疑える者は直ちに捕え連れてこい!我らの王に刃を向けた不届きものは神の名の下に決して許しはせぬ!エジプト兵の誇りを賭け、洗いざらい探し出せ!!」


 辺りを囲んでいた兵士たちが大きな声をあげて走り出した。


「宰相」


 兵たちを見届けてからラムセスはナルメルに身体を向ける。


「ファラオの御身、この兵士と共にお迎えにあがろうと思います。セテムだけでは不安です」

「分かった。我らの王の御身、託したぞ」


 宰相の言葉にこくりと頷きで返答し、素早く身を翻して階段を駆け下りた。


「残りの兵は共に来い!ファラオをお迎えに上がる!」

「待って!」


 咄嗟に叫んだ。


「待って、ラムセス!」


 ナルメルが私を止める声をを振り切り、階段を降りる途中振り返った隊長に追いつく。

 彼のもとへ行くと言うのなら私も行きたい。一刻も早く傍に行きたい。心配でどうにかなってしまいそうだ。もし万が一、これが彼の命に繋がる事件だったら。歴史に刻まれる一行が今現実になろうとしているのだとしたら。


「お願い、私も」

「駄目だ」


 何を言われるか分かっていたのか、私の言葉は言い終わる前に断ち切られる。


「王妃は動くな」


 それだけを念を押すように言われ、ラムセスは後ろから私を追いかけてきたメジットに私を押しやると、用意された馬に乗りこみ、数人の兵を連れて素早く門の方角、その闇の中に駆けて行った。


「王妃様」


 乱れ始める息に上下する私の肩を、メジットが優しく包むように擦ってくれた。


「王が狙われた、ということは王妃も狙われる可能性がある。それを感じているからラムセスはあのように申し上げたのです。どうかお許しください」


 私なんかが行っても足手まといになるということくらいは分かっている。それでもこの闇のずっと向こうであの人が刃を向けられたのだと思ったら、居てもたってもいられなくなって泣き出しそうにさえなるのだ。


「でもメジット……」

「ご心配になられるお気持ちも分かります。しかし、畏れ多くもファラオを狙った不届き者があなた様を狙って潜んでいるやもしれませぬ。この王宮内も安全とは言えません。どうか最も確実に私どもがお守りできるお部屋の方に戻り、今日はお休みください」


 強く説得され、やりきれない思いを抱いたまま、私は王宮の奥へよろよろと数人の侍女たちに引かれて行った。振り返り際に見えた空は、途方もなく綺麗で一点の曇りのないものだった。


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