知らせ

* * * * *


 ヒッタイトとは、エジプトの北、地中海と黒海に挟まれた将来トルコと呼ばれるようになる帝国。首都ハットゥシャは赤い河の意味のクズルウルマック付近に構えられている。

 この辺りは世界四大文明の一つ、メソポタミアがあったはずだが、名前が見えないということは滅亡した後だろうか。うろ覚えの知識と目の前の情報を照らし合わせながら次のパピルスを手に取って開く。


 ヒッタイトという国を大帝国にしたのは、今も尚、王として君臨するシュッピルリウマ大王。その父はトゥドハリヤ2世。兄はトゥドハリヤ3世。北方のカシュカ族の支配者ピヤピリや東方のハヤサの支配者カランニと戦い、旧都ハットゥシャにヒッタイトの王宮を復すことに成功した。更に有能な将軍として頭角を現し、兄が王位を継いだ直後に陰謀を企ててこれを殺害し、自ら王に即位。国内の政治的混乱を治めると共に、周辺に遠征を繰り返して弱体化していたヒッタイトの復興を図った。


 実の兄を殺害して王位に上がった──そんなやり方でいいのかと思うところがあっても、今は大王として国を治め、強大化させたのだから相当実力のある人物なのだろう。

 王子や王女も沢山いるようだ。王妃はダドゥヘパ、マルニガル、ヒンティの3人。この様子だと側室も両手では収まりきらないほどいる気がする。


 この辺りを全部頭に叩き込んでから、パピルスを閉じてやりきったと背伸びした。

 外から差し込む陽の光がさっき見えた時よりも若干角度を変えているのを見て数時間経ったことが分かる。私にしてはかなりの集中力だ。自分の根性も捨てたものではないと自画自賛する。


「王妃、まだ残っておりますよ」


 隣にいたナルメルが、私の前に大量のパピルスを侍女たちに命じて次々と置かせた。


「……まだこんなにあるのね」

「王妃として覚えていただかなければならないことはまだまだ御座いますぞ。知りたいと最初に仰ったのは何を隠そう、あなた様です」

「仰る通りです……」


 テーベに遷都した直後に開かれる婚儀において、諸外国の王族や使者たちが集結する。それに備え、王妃として相応の知識を身に付けなければと、ナルメルに指導を頼んだのは彼がテーベへ発った翌日のことだ。

 最近はずっと机の上にへばりつき、王家の重要な情報であるパピルスを並べての勉強が一日の大半を占めている。分からない地名がわんさかで地図を広げながらの作業はかなりしんどかった。


「北方の国はヒッタイトで最後です。ヒッタイトは我がエジプトと長年敵対してきた国。最も知らなければならない国でもありますので、資料は最も多いかと」


 なるほど、と肩を竦めながら気を取り直し、前に積まれたパピルスの一つに再び目を通し始める。


「これはヒッタイトとの問題点を集めたものね」

「左様です。アクエンアテン様のご治世、我が国が宗教改革などの内政重視の姿勢を取っていたためにエジプトの支配下であったアムル王国を横領し、ヒッタイト領土にしたというのが今の大王です。この問題も未だファラオと大王の間で審議が続いております」


 つまりは領土問題だ。彼の父王アクエンアテンはこの国の改革で手一杯だったということは想像に難くない。その間に、この大王が力づくで我が物にしてしまったというのだから、随分思い切ったことをする人だ。ヒッタイトにだけは隙を見せてはいけないということは飲み込んだ。


「また、互いの国を見張るために密偵を置いているのも暗黙の了解となっております」


 さらりと言われたことに驚いてしまう。そんな私とは裏腹に、ナルメルは当たり前のことだと言うように至って冷静だ。


「何を驚かれます。我が国はヒッタイトだけではなく、アッシリア、バビロニア、リビア、ミタンニ等の多くの国々に派遣しているのですぞ」


 密偵。スパイ。けれどそれが普通のことで、互いに疑って密かに見張りを送り込んでいないと国を守れないということ。同盟を結んでいても上辺だけの笑顔でしかない。寂しい関係だ。私が思っている以上に、綺麗ごとばかりで国を守るのは難しいことなのだ。


「戦争がない今でもヒッタイトとは問題が絶えないのね」

「ええ。今は友好を保っているとは言え、いつ敵国に回るか分からない大国、それがヒッタイトです」


 知らないからと言って王妃が外国情勢に目を向けない訳にはいかない。

 テーベに正式に都が遷れば他国の王族が出席する宴は勿論執り行われる。それまでに多くの知識を頭に詰め込んで周りへの対応を考えられるようにならなければならない。


「では私は一度席を離れますので、何かご不明な点がありましたらお呼びください」

「ええ、ありがとう」


 姿勢を正した私に笑みを向け、宰相は背を向けて行って部屋を出て行った。

 数人の侍女以外残らない部屋で、また黙々と……と思っても山積みのパピルスを横目でちらと見やったらため息しか出てこなかった。ついさっき手に取ったパピルスの資料をざっと読み終えてから、一度椅子の背もたれに寄り掛かった。さすがの私の根性ももう尽き果てた。


 ふと、目についた重要資料とは別に置いてある、書簡用パピルスに手を伸ばした。5日前に届いた彼からの手紙だった。その黒い文字を撫でてもう一度読み返す。

 彼がテーベ行ってしまってから予定の1か月など優に過ぎ、あと数日で2か月を迎えようとしていた。それでも定期的に、テーベの商人から買い付けた豪華で美しい装飾品と一緒に近状を知らせる書簡は欠かさず送ってくれていたから、遠くにいる彼の無事を確かめることが出来ていた。


 内容は「元気にしているか」とか、「きちんと勉強しているか」とか。「困ったことがあったら遠慮なく言え」とか。「ヒロコの肌が恋しい」やら、「ヒロコも私の唇が恋しいのではないか」とか。一向に良樹が見つかったという知らせや、帰る目途の話はないけれど、その代わりに私をがっかりさせないようにとこんな内容の手紙をよこしてくれているのだろう。彼が口元に意地悪な笑みを浮かべてパピルスに書いている姿を想像したらくすりと自然に肩が揺れた。


 それでも、その都度不安になる。いつ帰ってきてくれるのかと返事をしてしまいたくなる。政治に関わっているのだから帰還の予定が遅れて未定になったことに対して、私が文句を言える立場にいないことは承知の上だ。だからいつも私が返すのは会いたいだとか、早く帰るよう促すようなものではなく、取り止めのない返事ばかりの手紙だった。「こちらはみんな元気です、海から民族が攻めてくる気配はありません」等、すべて事務的なもの。


 手紙を丸めて膝に置いた。軽いパピルスの皺の寄る音が耳に届く。

 本当に私は、彼が無事であることを祈ることしか出来ないでいる。

 このままでは息が詰まってしまいそうで、まだ山積みのパピルスを横にずらして、その直ぐ傍に彼からの手紙を置いて椅子から立ち上がり、明るい陽射しが差し込む庭の方に歩を進めた。

 気晴らしも大事だと自分に言い訳をする。


 柱に手を添える視界の向こうには、緑に浮かぶ木や花が揺れている。仄かな花の蜜の甘さが香る。空を仰げば薄い白さを乗せた雲と青が私を覆い、涼しげな風が流れて髪を掻き乱し、耳の円形の装飾品を揺らしていく。

 顔を外に出して少し行ったところにあるナイルの池の方を見やると、数人の女官たちがそこに咲いているハスを積んでいく姿があった。

 夏に向けてハスがどんどん精気を帯びているのが遠くからでも分かる。長閑で、穏やかで心が和ぐ緑の都。その中で柱の傍に座り込んで目を閉じる。


 頭から離れないのは彼の事だけではなかった。現代から連れて来てしまった二人のこと。メアリーとはあれからずっと会わせてもらえていなくとも、手紙を定期的にメジットを通して届けてもらっていた。

 古代のこと、今は帰る方法がないということ、誰がどういう人であるか、どうにかここに馴染めるよう手紙を綴り、世話をしてくれているというメジットにもメアリーの性格や嫌いなものや好きなものなど事細かに伝えてきた。

 返事はないものの、ママと繰り返し呼んで泣いていた彼女は、最近随分落ち着いてきて侍女として立派になってきたと報告もある。

 彼は時間が経ったら会わせてくれると言った。ならばあと少し。次に会った時はこちらも感情的にならず、すべてを伝えよう。全部分かってくれるとは思っていない。伝えて、この選択をしたことに対して彼女に謝り、帰る方法が分かるまで、この宮殿で一緒に暮らし、然るべき時が来たらもとの時代に帰すことができればいい。

 あとは良樹だ。良樹に関してはこの時代にいるのかさえ分からない状態だった。エジプトにいるとしても、ただでさえ広い国だ。見つかる可能性はおそらく低い。

 どんな時も冷静沈着で正しい判断を下す、私よりエジプト史に詳しい良樹なら、この時代にうまく適応してどうにか生き延びていてほしいと、ただ無事を願うことしか出来なかった。


「何故、また浮かない顔をしている」


 考えを巡らせていると、ぶっきらぼうな声が掛けられた。振り返ればラムセスが緑の目を細めた顰め面をこちらに向けている。


「浮かない顔をしているかしら」


 首を傾げたら隊長は無愛想に頷く。

 私の世話係を彼から仰せつかっているラムセスは、上司ホルエムヘブと海岸沿いの警備を強化させながら何度も私の様子を見に帰って来る。


「どうせ、またファラオの御身の心配でもうじうじとしていたのだろう。どれだけ心配性なんだか」


 呆れた、と隊長は冷笑した。


「心配よ」


 テーベへと繋がっているだろう虚空を見上げてそう言葉を落とす。それでも、心配しない方がおかしいとは言えなかった。ラムセスは歴史に記されているあの残酷な文章を知らない。その事実を伝えても信じて貰えるはずがない。


「彼だって人間だもの。いつ何があるかなんて誰にも分からない」


 私の呟く声に、ラムセスの眉間の皺はますます深く刻まれる。考え込むようなしばらくの沈黙の後、固く結ばれた唇が開いた。


「我が君は誰よりも勇猛果敢で強きお方。誰にも負けぬ王の中の王だ。何故テーベで過ごしていらっしゃるだけのあの方をそれほどびーびー言って心配しているのか……俺にはさっぱり理解できない」


 本当に笑ってしまうくらい相変わらずだ。理解できない、認めないと一点張り。言葉づかいが変わるどころか頭を下げてくれたこともない。いつか認めてくれるだろうと彼は言っていたけれど、それはずっと何十年後の話ではないだろうか。今の私としては一生訪れることない話のような気もしてくる。


「びーびーなんて言ってません」


 面白半分に反抗してみれば。


「いや、言ってる。俺には聞こえる。離れてても聞こえる」


 即座に否定された。それほど口に出して言ってないと思うのだけど。


「お前の場合、顔がそう言っているんだ。空を見ていたり花を愛でている時の顔なんて見ていられないほど上の空だろ」


 言われてみればそんなこともあるような、ないような。

 そんなに酷い顔をしているのかしら、とつい頬に手を当ててしまった。


「いいか」


 脅すように上から私を見下ろして、ラムセスは人差し指を私に突き付けた。


「王家の者だと言うのなら、下の者に対して心配させるような素振りはするな」


 一緒にいるようになって気づいたのは、ラムセスもラムセスなりに私を気遣ってくれているのだということだった。文句を言うように指を突き付けて並べる言葉でも、それ一つ一つが今の私に欠けている王妃の素質なのだ。

 はっと気づかされることもある。さすが彼のことを傍で見ていただけのことはある。


「何があろうとも堂々としていろ。それでこそあのお方の妃としての威厳が生まれる」


 ぺらぺらと紡ぎだされるアドバイスをどうにか拾い集めながら頷く私に、ラムセスはまた一歩踏み出した。


「お前は我が君が王妃とした女。それがどれだけ名誉であり、名の重みが増すものか……大体その認識が低すぎる。それにお前は」

「なんて口利いてるの!!」


 突如、美しすぎる飛び蹴りが、目の前の人を直撃した。


「何度言ったら分かるの、この阿呆!」


 気付いた時には、メジットがラムセスがいた所に凛々しく立っていた。私の中でもこの光景が日常のものとなってきた所為か、最初の頃ほど驚かなくなっている。


「ってえ……何すんだよ、畜生」


 庭に放り出され、打ち付けた頭を擦るラムセスは、上半身を起こすや否や地面に座ったまま私の隣のメジットを睨みつけた。


「てめえ、メジット」

「ファラオがあんたの王妃への態度をご覧になられたらどう思われるか!これは私からの警告よ!」

「俺はなあ、ただ王妃に王妃としての自覚を教えていただけで」

「お黙りなさい!まずそっちが王家に雇われている人間だと言う自覚をお持ち!」


 両目の間に突き出された彼女の人差し指に緑の瞳が寄り目になって、唾を飲みこんだのか喉仏が上下に大きく動いたのを見た。

 口ではいつも決まってメジットが勝利を収める。彼女の威圧は凄い。これはやはり血縁はなくとも王家という名の下に生まれた所以のものなのだろうか。


「本当にあんたはいつになったら口調を変えるの!永遠にずっとそのつもり!?」

「な、何度も言った!俺はあの方のような真の王族にしか忠誠を誓わない!頭も下げない!王家の血でもない、アンケセナーメン様に顔しか似ていない王妃とも思えないような女などに誰が……」


 そこまで言ってふんとそっぽを向いてしまうラムセスに、メジットはまた眉を吊り上げた。


「あんたという人は!!」

「大丈夫よ、メジット」


 これでは切りがないからと手を伸ばして今にも飛びかかりそうな彼女を止めると、納得いかなそうな瞳が私を振り返った。


「しかし!王妃様」

「いつか必ず認めてもらうくらいの存在になる」


 ラムセスの言う通りで私はまだまだ王妃らしくない。自分でもそう思えてしまうから悔しい。王妃という大きな名に、埋もれたくない。負けたくない。その名こそが相応しいと思われる人間になりたいという気持ちはある。


「あなたも認めるようなエジプトの王妃に必ずなるわ」


 この大きな豊かな国を守れるくらい、彼のファラオという名の横に胸を張れる存在に。絶対に、彼に見合う人に。

 決意を言いきって笑って見せたらまたぷいと緑の瞳に避けられてしまった。この人と素直に笑い合える日は思ったよりも遠そうだと苦笑してしまう。


「王妃様がこう仰ってくださっているのにお礼も口にしないなんて……まったく」

「黙れ女官長。お前、うっさい」


 呆れ声を出すメジットと、身体についた汚れを払い立ち上がるや否や悪態をつくラムセスの二人の光景が微笑ましい。ここにイパもいるともっと賑やかになる。

 二人の会話を傍に聞きながら空を仰いだ。彼や良樹、メアリーが思い浮かぶ。この三人がここにいてくれたなら、それ以上に望むことはない。今、私が一番会いたい人たちだ。いつになったら、会えるだろうか。


「王妃様!」


 明るい呼び声に振り返ると、イパイが一つのパピルスを手に走ってきていた。


「お待ちかね!ファラオからの書簡が届きました!」


 彼から。

 嬉しさがどこからともなく飛び出して、顔が紅潮するぐらい感情が高まって立ち上がる。


「ついさっき届いたんです」


 たった今届いたものだと言っても2日くらい前に書かれたものだろう。手紙は書いて届けるのにも時間がかかる。

 現代にある電話やメールがとても画期的な発明で、遠くにいる人々の距離をどれだけ縮めてくれているかがこの文通をしていて痛感した。けれど、それも失われたものの上に成り立っていることを知ったのも事実。一文字一文字、丁寧に想いを込めることや、その人が書いてくれたと言う黒いインクの滲みがどれだけ愛おしいかということ。

 発明によって時代と共に失われたそれらは、とても大きくて凄く大切なものだったのではないだろうか。


「ありがとう、イパ」


 子供らしい赤い頬に笑窪を浮かべ、小さな側近は嬉しそうにいいえと頷く。手渡される植物製独特のざらざらとした表面がほんのりぬくもりを帯びているような気がした。

 それがイパが握っていたからのものなのか、それとも私が勝手にそう感じてしまっているものなのかは分からない。それでも、この淡黄色のものを、私が手にしているものを、あの長い指も触れていたのだと思うとどうしようもなく心が喜々の声をあげる。


「おい、何て書いてあるんだ」


 手紙に巻き付けられた紐を解く私を、ラムセスが隣から急かした。


「無粋なこと聞かないの!」


 私が笑って待ってと返すと同時に、メジットが透かさず隊長の腕をつついて止める。ラムセスも私と同じ気持ちなのだろう。何が書いてあるのだろうと早く知りたくてパピルスを持つ手が少しばかり焦ってもつれた。

 巻物の折り目がついてしまっているパピルスを開いたら、彼の筆跡が顔を出す。綺麗な絵のような象形文字。まだたどたどしい読み方しか出来ないけれど、可能な限りの速さで内容を頭に入れていく。

 いつもの「元気か」という問いかけに、とりとめない話を綴る文章。そして最後の一文に流れていた私の目がぴたりと止まった。


 ああ、まさか。


 それが読み間違いではないか、夢ではないのかと何度も読み返して確かめる。ときめいてしまうような言葉は今までの手紙からいくつも読んできたけれど、これほどまでに胸が高まる知らせはなかった。

 もう一度、もう一度。その文だけを、その象形文字を全部覚えてしまうくらい反復させる。

 間違いじゃない。嘘じゃない。


「彼が」

「ファラオが?どうかしたのか」


 つい出てきた私の言葉に、ラムセスは何事かと身を乗り出した。それとは対照的にイパとメジットが興味津々な表情を私に向けてくる。

 王妃になると言い切ったばかりなのに、あまりにも嬉しくて言葉を崩して周りの三人を見つめ返した。

 最後の一文の内容を。3日後にこの緑の都にやってくる、喜ばしい知らせを。


「彼が、メンネフェルに帰ってくるわ」


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