科学の誤差

 日干し煉瓦の家並みを行くと、牛やロバに乗ってゆらゆらと進む商人や駆けていく賑やかな少年たち、花を腕いっぱいに抱える少女の姿が俺の視界を横切っていく。

 じゃれ合う子犬や子猫、香ばしいパンの匂い。野菜や果物、壺を売り、交差していく人々の話し声。笑い声も泣き声もこれらの人々が生きているという何よりの証。この表情も、あの情景も、俺の生きる世界ではずっと遠い遠い、過去のもの。名前もその記録も残らない、未来人の知らない痕跡。

 過去に生きた人々と同じところに今自分が立って息をしているのだと考えると妙な気分になった。


「どうしたの?」


 ムトの妹ユラが、俯くようにして歩く俺の手をそっと握り返してきた。


「……ああ」


 ぼうっとしていたことに気づき、もう一度その子の手を繋ぎ直す。


「大丈夫、気にしなくていいよ」


 じんわりとした痛みが額を掠めるのを感じながら笑って返す。こんな小さな子供に心配されるようではこの先が思いやられる。


「早く、届けてやらないとな」


 手を繋ぐ子は、こくりと頷いてきゅっと結んだ口元を緩めてくれた。

 王宮付書記官になるのだと意気込んで早朝に家を飛び出したムトは、大事な昼飯──母親が用意してくれていたパンを忘れて行ってしまった。

 この兄弟の両親もナイル近くの小麦畑に出ており、この事態に気づいておろおろしていたこの子を見つけて声を掛けたら、一緒に届けようということになって今に至る。

 俺の手を取り、小さく独特な鼻歌を歌って小さな足を前へ前へと出すその姿にどうしようもない懐かしさが込み上げてくるのを感じていた。

 随分昔に弘子をこうやって連れて遊びに行ったのだ。そう、あの時の弘子は髪を2つに結んでもらっていた。近所のよく吠える犬を一番怖がっていて、前を通るたび泣きべそをかいて、俺の背中に隠れていた。

 空を仰ぎ、戻りもしない十年以上過去の記憶を思い出しては、それに縋ろうとする自分が惨めで、つい苦笑してしまう。


「ここ」


 辿りついた王宮近くの白い四角の建物をユラは指さした。


「ここが、学校?」

「後ろに死者の家があるの」


 死者の家──ミイラを作る場所のことだ。

 エジプトは諸外国と比べ、宗教上行われるミイラ作りのおかげで解剖学を極めていた。つまりは、あの大きな建物内で、古代の医術が繰り広げられているということになる。3000年前、世界最高峰と言われた医学とはどれほどのものなのか。

 湧き出た好奇心のままに足を進めようとしたら、ユラが俺の手を引いて止めた。


「ダメ」


 慌てたように首を数回横に振る。


「そっちは行っちゃダメなんだよ。選ばれた偉い人だけしか行けないの」


 特別な者だけが入ることを許された場所、ということなのだろう。ミイラという死後の魂の器となるものを作っている訳だから分からなくもない。死者の家などと幽霊屋敷のような名がついてはいるが、人々にとっては信仰の対象に値するのだ。


「ヨシキはこっち」


 引かれるままに入った建物内には象形文字が綴られた大きな粘土板がどんと置いてあり、その前には懸命に文字を掘っている15、16の少年たちが20人ほど胡坐をかいて座っていた。本当に学校というものが存在していたのだと、少し驚く。集中しているのか、それとも無視しているのか、誰一人として覗き込んでいる俺たちに目を向ける者はいなかった。

 ムトはまた別の部屋らしいということが分かってどうしたものかと悩んでいると奥から誰かがこちらへやってきた。


「こんにちは」


 頭巾をかぶった仏のように穏やかな顔をした男性だった。どうやら教師のようだ。


「カネフェル先生」


 会釈した俺の手を離したユラが相手に駆け寄った。カネフェルと呼ばれた教師は少女の頭をよしよしと撫でる。


「ムトの妹じゃないか、大きくなったね。……さ、御用はあちらで承ります。どうぞ」


 教師は俺たちを奥の方へ促した。弁当を渡すだけなのだが、好奇心が勝って言われるままについていくことにした。

 この大きな建物にはいくつかの部屋があるらしい。よく知った現代の学校のように大きな部屋が5つほどあり、その中で年齢別あるいは能力別に生徒が詰め込まれて勉強していた。身分別でもあるのだろうか、部屋ごとに生徒の身なりが少々違う気もする。更にその奥に小さな部屋がいくつか存在しており、その中の一つの小部屋に俺たちを招き入れて扉代わりの幕を下ろすと、眉を八の字にしたカネフェルの顔が俺に向いた。


「すみませんね、今度書記官の試験がありまして、生徒たちは皆気が立っているのです。あそこで話してしまうと彼らの気が散ってしまいますから」


 なるほど、彼らは古代の受験生なのだ。それを知ってやっとあの異様な雰囲気の理由が分かった。王宮の書記官となれば相当倍率が高いはずだ。

 彼らの受ける試験内容はどんなものなのか。自分の受験時代が思い出されて、彼らの学んでいるものを覗いてみたくもなる。


「先生、これお兄ちゃんに」


 ユラが俺の抱えていた包を指差した。


「お兄ちゃん、お昼忘れて行っちゃったの」

「すみません、先生。お手数ですが、これをムトに渡していただけますか」


 これではまるでどこかの保護者だ。子供もいないのにまさか忘れていかれた弁当を届けに行くことになろうとは。


「おやおや、それは大変だ。頭を使った後は極端に空腹になりますからね。渡しておきましょう」


 俺の手からその包を受け取った時、カネフェルの顔がふと顰められたのに気付いた。

 包を渡すために上を仰いだ、俺のてのひら。身体の裏側で日光に当たりにくいそこは、唯一黄色人種の名残を残していた。

 何か無礼なことでもしてしまったのだろうか。こちらの礼儀というものを俺は知らない。子供の頭を撫でることは禁忌で、それをしただけで殺される文化の国もある。国によってそれだけ違うとなれば、時代を3000年近く越えればもっと違ってくるだろう。


「あの」


 まだ俺の掌に釘付けの相手に恐る恐る声をかけると、彼の視線が上がり、俺の目とかち合った。驚きに満ちた、何かを読み取ろうとしているかのような目だと思った。


「あなたは……神から甦りを許された方ですか?」


 突然の思いもしなかった言葉に目を見張る。この前も「王妃は甦った人間だ」と聞いた。“甦り”が流行っているのだろうか。


「違うよ」


 固まった空気を打ち破ったのは、小さな子供の声だった。ユラは俺の手を取り、カネフェルを見上げる。


「ヨシキはね、ナイルに倒れていたの。異国の人。今うちにいるの」


 ユラの説明に、そうですかとカネフェルの顔に仏のような和やかさが戻った。


「……異国の方だと、そのような肌の方もいるのですね」


 釈然としなかった。どうして肌の色で甦りかどうかを判断されるのか。顔を顰めていたら、先生が申し訳ないと言って補足してくれる。


「甦られた王妃様も同じ肌をしております故、他にも甦られた方もいたのかと思いまして」


 この人物は、復活したという王妃を見たことがあるのか。その王妃が、俺と同じ肌の色をしているのか。


「王妃様は肌の色が違うのですか?お会いになられたことが?」


 俺と同じ肌。金髪の白人や黒人がいても、この国でまだモンゴロイドは見たことがない。俺の属する人種は、遠いアジア、ここでは非常に珍しく少ない人種のはずだ。

 ならば、このカネフェルという教師が見たというもう一人のモンゴロイドは──弘子。


「ええ、もう一年ほど前になりますが、アケトアテンにいた際にお目にかかりました。肌の色が甦る前と違っていらっしゃいましたが、甦られたせいだと仰せでした」


 甦って肌が変わるか否かの話を無視すれば、俺と同じ色を持った人間が一人見つかったことになる。それもこの国の王妃アンケセナーメン。


「先生はね、昔、ファラオの先生もやってたんだよ」


 ユラが俺の手を握って教えてくれる。だが、俺には徐々に速度を増す自分の鼓動の音しか聞こえていなかった。それが他の音を、声を、遮蔽してしまっていた。

 弘子が王妃。いや、まさか。

 やっと浮かんできた一つの可能性にしがみ付いて無理に出したような答えだ。信憑性の欠片もない。今まで何も手掛かりを見つけられていないせいで焦っただけだ。もっと慎重に考察しなければ。

 自分を見失ったら確実に足元を掬うことになる。まずはその王妃がいつ甦ったのか、そしてどんな容姿なのかだ。

 動悸のする胸に酸素を詰め込み、確認するべく口を開き欠けた時、仕切りであった幕が遠慮がちに開けられた。


「先生、よろしいですか」


 生徒と思われる青年がひょっこりと顔を出した。教師を呼びに来たらしいことは一目瞭然だった。


「ああ、今戻ろう。……これはムトにちゃんと渡しておきますね」


 話が切られて、すぐそこまで出ていた言葉たちが咽頭の奥へと落ちて行った。


「よろしく、お願いします」


 この人も忙しい人なのだろう。王家の家庭教師までやっていたという肩書があるならば、この人はきっと現代で言う有名な予備校講師というところだろうか。

 今日は引き下がろう。もう少し周りから情報を集めて何か可能性があってから尋ねればいい。


「お忙しい中、ありがとうございました」


 礼を言って、俺たちは古代の学校を後にした。








 家路に向かってまたユラの手を引いていると、道端にずらりと並ぶ人々の列が見えてきた。

 女たちはハスやら何やら色とりどりの花を腕いっぱいに抱き、今か今かとそわそわした様子で、男たちも何度も背伸びをしては王宮の方を見ようと躍起になっている。まるでパレードでも待っているかのような雰囲気だ。


「何かあるのかな?」


 手を繋ぐ少女は独り言のように囁く声で俺に問う。こんな人混みを見るのは初めてで、その列を成している一人の初老の男性の肩を叩いてみた。


「おう、どうした兄ちゃん」


 振り向く髭面の男は随分と上機嫌だ。酒でも飲んできたのかその褐色の肌は赤みが強く出ていた。


「今からここで何かあるんですか?こんなに人が集まって」

「ファラオがいらっしゃるとの話さ!」


 ファラオ──この国の王。悲劇を歩むはずのツタンカーメンが、ここを通るということか。

 また嫌な寒気が身体を横切った。


「兄ちゃんも拝んでいくといいぞ。滅多に無い機会だ」


 がやがやとどんどん大きくなっていく歓声の中、男は酒の匂う息を俺に吹きかけて笑った。むわっと漂ったアルコール臭に一瞬顔が歪む。


「アテンからアメンに戻してくださった偉大なお方さ、ほらこっち来いよ!」


 肩を掴まれて、あっと声をあげる間に列の中に引きこまれた。


「いや、俺は」


 俺が歴史上の人物に関わらない方がいいのは言わずと知れている。王族という存在であれば尚更。

 最近出稼ぎの建設場所を変えたのも、絶世の美女という名を後世に残すネフェルティティにこれ以上関わらないためだ。現代にいるはずの自分が過去にいる時点でタイムパラドックスがないとは限らないのだから。


「ヨシキ、見て行こうよ」


 離れようとする俺を、手を繋ぐ子が引き止めた。


「私、見たい」


 あまりに澄んだ、きらきらする目で頼まれたら断ることもできなくなる。気づかれないくらいの小さな息をつき、仕方なくユラに微笑んだ。


「一緒に見て帰ろう」

「うん」


 やや赤く染めた頬でこくりと頷くのを見てから、二人でその人混みの中に入った。

 ただ見るだけだ。あの少年王を。遠い未来、ハワード・カーターによって発見されるはずの少年を。歴史に関わる訳ではない。

 それからしばらくした頃だった。


「ファラオの率いる兵だ!!」

「いらっしゃったわ!!」


 そんな歓声を引き金に、わっと沸き立つ観衆。その勢いに後ずさりしてしまいながらも足を踏ん張り、爪先立ちで王宮側に視線を投げてみる。

 目の前には沢山の頭。息が詰まってしまいそうな人混み。ハスの花を振りかざしたり、声援を贈ったり、アテンからアメン信仰に神を移したたった一人の人間の人気が絶大なものだと知る。

 この改革は、幼すぎる王ではなく、その後見である神官が行ったとされているのを知らないのだろうか。本気で年が二桁に満たない子供が成したことだと信じているのだろうか。9歳そこそこの少年がそんな国全体を左右する判断など下せるはずがないのに。


「ヨシキ!見えない!」

「よし、おいで」


 腰をかがめて、興奮し始めたユラを肩に乗せ、肩車をしたまま立ち上がる。


「見えるか?」


 こくりと髪を揺らす子の視界の端に、兵士らしい男たちの馬が前を通って行く様子が映った。

 横に2列、それが15組ほど。ゆっくり、ゆっくり、自分たちは神なる王家に仕えていると言う誇りを露わにし、群衆の間の道を行く。大衆から見上げられる、圧迫感を俺たちの上に落とす王宮からの長蛇。それぞれが持つ銀の刃が鋭く切っ先を光らせ、視界を鈍らせる。

 次の瞬間、ハスの花が飛び交う世界で、俺は言葉を失った。白い花弁が俺の頬を掠め、今まで以上に轟く歓びの声たちが何もかもを埋め尽くす。

 列の真ん中に、その男は現れた。ぴんと伸ばされた背筋に、しっかりと前を見据えた切れ長の美しい瞳。所々に黄金を煌めかせ、自信に満ちた笑みをその顔に湛えている、俺とそう違わないだろう年の青年が。

 燦然とした光がその男だけを囲む光景に、彼が誰であるかを知らしめる。悟らざるを得なかった。それと同時に一斉にあたりが盛り上がり、ファラオと呼ぶ。


「ツタンカーメン様!!」


 その本名も。俺の知っている名も、民衆は口々に賛美する。馬の白い毛並が陽を弾き、銀色へと変貌を遂げ、その男の腕と首元、そして額を飾った黄金が俺たちの目を釘付けにする。


「……ツタンカーメン」


 ぽつりと落とした悲劇の代名詞は、俺の頭にだけ反響して歓声に溺れてなくなった。


 あれが。あれが9歳か。そんなはずないだろう。

 ならば、死ぬとされる19か。いや、違う。どこをどう見ても20歳は越えている。


 焦げ茶の髪を風に揺らし、歓声を上げ続ける民に対して見せる薄い唇の上品な綻び。細められた瞼に見え隠れするのは、欧米人に多いとされる淡褐色。褐色の肌を伝うように陽の金色は滑り、蒼空にかざす指先に揺れる。黄金が良く似合う、王という名のために生まれたような威厳を放つ男。それがあのミイラの正体。少年王の生ける姿。


 去っていく兵たちの背中を茫然と見送りながら考える。『歴史が違う』と。

 音も、抱き上げているユラの重みも、俺の中から消え失せていた。


 ツタンカーメンのミイラは徹底的な科学調査が行われているはずだ。それで19歳までの寿命だったとされている。

 調べて読んだ本の記憶を引き摺り出す。杖を突いていたとされる病弱な青年。未来では存在すら忘れ去られ、カーターが現れるまで墓を探そうという者さえいなかった悲劇の王。異端者とされた父を持つため、生まれながらにして異端児とされた王子。

 だというのに20歳を越えた容姿であれほどぴんと生きている。後見役の神官らしき姿はどこにもなく、民からの歓声を一身に受け、勇ましさを湛えた微笑を向けていたあの男。

 21世紀の現在進行形でその精密さを高めている科学技術がこれほどの誤差を引き起こすものなのか。


「ヨシキ?」


 王家の列が去り、人混みもまばらになったその場所で少女の声はかすかに聞こえてきた。

 年齢が違う。異端児ではなく、神を戻した英雄。どうしてこれほどまでに歴史が違う。


「ヨシキ、どうしたの?下ろしていいよ?」


 曖昧な返事をし、その子を地面に下ろしても巡る思考は止まらなかった。

 ミイラの年代測定に用いられるのは、主に炭素14の放射性年代測定器。自然界に極微量含まれる放射性同位体の炭素14が放射線を出しながら、一定の速度で減少していく性質を利用して、生物が死滅してからの経過時間を測定するもの。だが、放射線も正確な訳ではない。一定と言いつつも、どこかに綻びが生じるのは避けることの出来ない事実であるだろう。ならばと、頭に浮かぶ放射能の減衰式を思考に並べて計算してみる。

 炭素14の半減期は5730年。現代からこの時代までの経過時間は約3300年。ややこしいはずの計算が脳裏で打ち出せるほどに一点に意識が集中していた。そして出てくる一つの数字。


「5年……」


 出た。科学の誤差。プラマイ5年。

 そうなれば納得がいく。全部プラス5年すればいい。19歳ならば24歳。24になるまでに、もしくは24という歳に、あの男は死ぬ。確実に。科学で導き出された歴史はやはり正確だった。


「ヨシキ?」

「ああ……ごめんな」


 覗いてくる少女に笑いかける。


「少し、考え事をしてたんだ。大丈夫だよ」


 前髪を掻き上げ、差し出された手を取って若き王とは反対の、ハスが落ちた道を歩き出す。

 誰も知らない未来を手に取るように予言する自分が、少し気味が悪くて身震いした。それと同時に神にでもなったような、未来を知る唯一の人間であるという優越感が自分に宿る。


 ツタンカーメン。哀れなものだ。

 今は英雄だろうとも、あれほど精気に満ちていようとも、あと数年の内に、未来で異端児と名前を消され、悲劇の王と、病弱の王と呼ばれる原因となる何かがその身に起きる。その自信に満ちた笑みが消える時が必ず来る。殺人か、病死か、事故死か。歴史は決められた道を歩む。


 誤差があろうと科学は真実。

 真実を、物語っているのだから。


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