現れし美女
「へえ、ヨシキは東の生まれか」
最近一緒に作業をする男に出身を聞かれた。
相手の名前は知らない。どうせすぐに別れる人々だからと、尋ねることをしなかった。
「なんて言う国だっけ?」
「日本」
「ニ、ホン」
丸坊主の、同い年ほどの青年が気難しげに顎を引いて俺の言葉を繰り返す。
イシスの像に繋がれたロープを隣り合って引きながら母国の話をするが、日本の記憶は随分と遠い。何せ、アメリカ国籍になってからは祖父母に会いにいくのに正月と盆の年に2回帰国するだけで、その祖父母が他界してからは行く機会がめっきり減った。こんな目にあっている今はその国の響きも懐かしく感じる。
「変な名前だな、ニホンて。聞いたこともない」
旧名なら大和や倭の国だが、この時代にその名があったとして、この国まで伝わっているとも思えない。ならばと思って一番慣れ親しんでいる「ニホン」と教えた。
「意味は?」
「日の本……日の昇る根本」
多分そういう意味だ。日本。日出づる国。
「太陽の昇るとこ、ラーか!へえ、なんかいいな」
「それはどうも」
「お前の国にもラーがいるのか」
「ラーという訳じゃないな……でも太陽の神はいる」
じりじりと肌を焼く太陽にも次第に慣れ、最初は倒れていたりしたものの、今では平気に動けている。相性というものも、生命がかかれば何とでもなるらしい。汗の量だけは凄まじいために定期的に水分を補給しなければならないのは変わらないが、現代で弘子を探していた時ほどではなかった。
「そういや、ヨシキはこの神殿、どうして作ってるか知ってるか?」
突然そんなことを聞いてきた。この男は急に話題が飛ぶから忙しい。
自分の引いてきた像を眺めて、何故であるか考えた。あちらこちらに神殿と呼ばれるものが鮮やかに色づいて空高くそびえているのに、どうして次から次へとこんなに作っているのか。
「王妃様のためらしい」
俺の返答など待たず、にやっと頬を上げて俺に囁いた。
「王妃?」
「なんだ、知らないのかよ」
駄目だなあ、とわざとらしく首を横に振って相手は得意げに胸を張る。俺が何も知らないと言うことを知ってこういう態度をとる奴だ。その度俺のことを『無知のヨシキ』と呼んでくる。
「我らの気高きファラオが姉君アンケセナーメン様を王妃として正式にお迎えになられる」
アンケセナーメン。確か、ツタンカーメンの王妃の名だ。
その名から、俺がいるのは、第18王朝若き少年王の治世ということになる。それも王妃を迎える前。であれば、少年王はまだ即位年齢であるはずの9歳から十代前半だ。
畏れ多いためか誰一人としてファラオとしか口にせず、聞いてはいけないものなのかと、王の名を知らずにここまで来たが、今初めて王が誰であるかを知った。
歴史上の人物が今自分と同じ時間を生きている事実に、自分は過去の中に放り込まれているのだと改めて愕然とした。夢だと言い逃れが出来ないくらいにありありと古代という時間は自分の目の前にあるのだ。
このまま弘子もメアリーも見つからなかったらどうする。俺は、こんな何もない所で一生を終えて、ミイラにでもなるのか。
──駄目だ。
途中まで考えて目をぐっと閉じた。諦めたら何もかもが終わってしまう。額から流れた汗が顎先から落ちるのを見つつ、何度もそう言い聞かせる。正気を保つ。
「とても仲睦まじくいらっしゃるらしい。それで今回の婚儀を記念にと、その愛しの王妃様のためにファラオ自らが建設を取り決めたのが俺たちの作ってるこの神殿ってわけだ。……さすが王族はやることが違う。俺も好きな女に神殿作ってやるよ、とか言ってみたいもんだ」
内側の不安を悟られないよう、簡単な相槌を打った。
ツタンカーメンの時代かどうかなど俺には関係ない。揺らいではならない。崩れたら終わりだ。無理矢理理由をつけて自分を納得させる。
弘子とメアリーさえ見つかれば帰れる。この世界から離れられる。
「それも王妃様は一度甦られているからなあ。もう愛だよ愛。絶対そうだって」
「……甦った?」
非現実な言葉に思わず聞き返した。
「これも知らないのかよ!だっめだなあ」
げははと下品な笑い声と共に突っ込まれた。
「お前本当何も知らないんだなあ。しょうがない、俺が教えてやるよ」
言い方が腹立つが、何も言わない。言えばもっと突っかかってくるのは分かっていたし、俺が無知なのも事実だ。
「王妃様は一度ご病気で亡くなられてる。ところがどっこい!ある日突然、ファラオの上から落ちてきたんだと」
全く以て変な話だ。死んだ人間が、ある日突然上から生きて落ちてくるなど。
「なっ!?凄いだろう!?……ってあれ、何だ、その顔。信じてないだろ!!」
あり得ない出来事に、俺は無意識にため息をついてしまっていた。
「死んだ人間がどうやって上から落ちてくるんだ」
こういう時くらい空気を読んで驚いてやってもいいのに、今の俺にはそれができる余裕がなかった。占いも馬鹿馬鹿しいし、変な迷信も嫌いだ。タイムスリップという時空間移動なんてものも嫌いだ。大嫌いだ。反吐が出る。
「人が生き返るなんてあるはずがない。どうして人間が……」
そこまで言ったら、相手は「はあっ!?」と般若のように歪んだ顔を俺に突き付けてきた。
「オシリス神が甦ることを許したからに決まってるだろ!?何言ってんだよ」
この時代、何でも神に結び付ければ解決する。科学を解明できていない人間の典型的な台詞だ。
「ヨシキさあ、お前ってなんなの、神様冒涜してるわけ?それともアテン派か?アテンなんて言っとくが糞くらえだからな!」
相手の声が興奮してどんどん上擦っていく。
「あんな神、誰が信じるかっての。アクエンアテンは異端の王、そう思ってるだろ?なんたって俺たちの神はアメン・ラーを先頭に……」
大声で力説し始めたために、周囲の作業員が何事かと視線を向け始めるのに気付いた。
「おい、お前もうちょっと静かに……」
注意を喚起しようと相手の肩を掴んだ時。
「こらっ!!」
いきなり背中に振ってきた怒鳴り声に身体がびくりと跳ねた。
「王妃様のためのイシス像の前で何を大声を立てている!無礼千万!!」
現場の監督官、それも一番恐れられている鬼男。こういう時は素直に謝るのが一番だと言うのに、相手の男はずいと前に身を乗り出した。
「監督官!だってね、聞いてくださいよ。ヨシキったら王妃様が甦られたことを信じてないんですよ」
この威圧感にひるまず訴え続けるこいつの図々しさには俺も度肝を抜かれる。現場での喧嘩はご法度だ。喧嘩ではないものの、騒いだ罰として鞭で打たれたら一体どうしてくれるのだろうと身構えた。
「まあ、ヨシキが来たのは甦られたずっと後だったからな……仕方ないだろう」
監督官は思いの外俺に同情的だった。漂流外国人というのは同情を買えるほど悲しいものなのか。
「だが、王妃様は甦られたことは疑いようのない事実。私はこの目でしかとその御姿を拝見した。生前と変わらぬ美しさと威厳を持っていらっしゃった」
「俺もその御姿を拝みたいものです」
隣の男は監督官の話にうっとりと頷いている。
「何でも黄金の光の中から出てこられたらしいな」
「それはさぞや綺麗だったんでしょうねえ」
黄金の光──その言葉に背筋が騒めくのは、KV62で弘子が吸い込まれたのも、この前俺たちを巻き込んだのも同じ黄金だったからだろう。
だが、あんな黄金の光などそう簡単に出るものではない。もしや、王妃は弘子かメアリーで王妃の甦りと無理に縛り付けられていたら。
まさかとは思ったが、すぐに否定する。そんなはずはない。どちらも王妃という器ではないだろうし、そもそもこれほど規律の整った国家の王家が湧いて出てきたくらいの女を妃とはしないだろう。
考え過ぎだ。馬鹿な思いつきに一瞬でも怯えた自分に、小さく嘲笑してしまった。
「ネフェルティティ様だ!!」
どこからともなく、現場にざわめきが立った。
「いらっしゃられた!」
波が押し寄せるかのように大きくなる騒めきに、周りの男たちも、さっきまで話していた鬼監督官も息を呑み、ある一方向に目を向ける。
異常なまでに空気が固まった。誰もが目を向ける方へ俺も視線を送ると、4人の男に担がせたベッド状の輿に一人の女がくつろいだ格好で運ばれてくるのが見えた。その横と後ろには召使のような女たちが5人ほど侍って歩いている。逆光で黒い影にしか見えないが、気品というものが後光のごとく放たれ、輿の所々に金を塗しているのか、陽を反射して眩しかった。
「おい!ヨシキ、何やってんだよ!!」
下から手を引かれて我に返る。周りを見れば皆が地面に平伏していた。ぽかんとして佇んでいるのは自分一人だ。
「早く頭下げろ!!」
あまりにも血相を変えて言われるものだから、徐に地に膝をついた。地面に額を付け、腰を曲げて遠くからじりじりと近づいてくる4人の足音に耳を傾ける。妙な緊張を乗せた空気は頭髪の間の汗をより滲ませ、俺の額へと流していく。
作業を止めてでも皆が頭を下げなければならないほどにそ偉い女なのか。しんと静まり返った現場は、まるで別世界のように感じられた。
近づいている。こちらに。厳かに行く足音が。
そして、俺たちの前に止まった。
「──監督官」
艶めかしい女の声が頭上から降り注ぐ。優雅に、それでもはっきりと色気を乗せて俺の隣の監督官に女性は話しかけていた。
「頭を上げよ」
「はっ」
監督官は鼓膜が痛むほど大きな返答を発した。一瞬俺まで頭を上げそうになって、慌てて身体を戻した。
「王妃への神殿建設の進みようはどうなっている?この私に話して聞かせよ」
偉そうな物言いだが、その声には一番相応しい口調だろう。王妃かと思わせるほどの威厳を、発する言葉ひとつひとつに湛えていた。この神殿を「王妃への神殿」と言っている時点で王妃ではないのだろうが。
「予定通り順調に進んでおります。ファラオと王妃様が我らのテーベにご到着になる際にはお見せできるかと」
「そうか。ではそのように進めよ、ファラオにも私から伝えておこう」
女は軽く笑った。顔を見ずとも妖艶さがこれでもかと伝わってくる。
「ネフェルティティ様、今日どのようなご用件で……」
「少し見て回らせてもらう。作業は普段通り進めてもらって構わぬ」
そう言って、再び足音が動き始める。音が遠くになってから俺たちはやっとのことで頭を上げた。
向こうへと遠ざかった、滑らかな曲線を描く後ろ姿を、周りの男たちは立ち上がるなりぼんやりとした眼差しでしばらく眺めていた。これもまた奇妙な空気だ。
「ああ……いいなあ」
「何が」
夢見心地の今にもとろけてしまいそうな声の仲間に尋ねれば、目をあちらに向けたままくにゃりと曲がった口を開いてくれる。
「あたりの建設場にも顔を出してるっていうからそろそろだとは思ってたけどさあ……ありゃ噂通り相当な美人だなあ」
「後ろ姿しか見えなかった」
「後ろ姿だけで十分分かるだろ!もうなんなの、あの後ろ姿!俺もう骨抜き!あとあの声もさ、最高だと思うわ」
そう言われて小さくなったその麗しい姿を改めて見てみるが、もう点になっていてよく分からない。
「なんでこんな所にそんな美女が?随分と貴き身分みたいだってのに」
「何でも男を探してるらしい」
人探し、だろうか。
「気に入った男を自分の宮殿に誘ってんだってさあ」
興奮気味に肘をつついてくる。
「いいなあ!一夜でいいからお伴したいものだよ」
そういう意味かと、目を見張った。あれだけ気高そうな女性が、それも王族がそこらの男を連れ込もうとしているのか。人は見かけによらないものだと彼女が去った方向を見つめた。
今日の分の作業を終え、まだ他の部署にいるのだろうムトの帰りを待っていた。
作りかけの名も知らない神象が作る長い影の中に立ち、遠くに視線を投げる。宮殿から離れたここはナイルとも離れているせいか、周りは乾いた大地に包まれていた。
一つの影が、俺の足のから長く東へと伸びている。自分の影だ。それしかない。孤独と認識した瞬間から、一気に恐怖に似た感情がまた湧き上がって襲ってくる。ムトの一家に拾われ、目を覚ましたその日のように小さく蹲り、頭を抱えて、「嘘だ、触るな、近寄るな」と叫びたい衝動が駆け上がってくる。
ムトが俺を一人にしようとしないのも、そんな俺の混乱を見せつけられたからなのだろう。生意気だが、こうして一緒に帰ろうと待ち合わせ場所まで決めてくれるのだから面倒見のいい子だと思う。さすがは四兄弟の長男だ。迷い込んできたぼろぼろの俺を、弟のように思っているのかもしれない。
ため息をついて地面を見ると、地面にある影が俺の他に一人分増えているのに気付いた。
「ねえ、あなた」
欠かさず声が背中から聞こえてくる。影の形も、声色も、もちろんムトではない。誰だと驚いて反射的に振り返った。
「珍しい顔立ちね……異国の人かしら」
名のしれない花の香りと共に、俺の頬に手が伸びてきた。柔らかい女の手だ。
「鼻が少し、低いのねえ」
言葉に沿うように指が鼻筋をさらりと辿っていく。いきなりのことで身が固まってしまっていた。
シャープな輪郭に、くっきりとした切れ長の薄い茶色の瞳。すっと通った鼻筋。硬質な美貌の中、薔薇色を彩る唇だけがふっくらと潤みを帯び、そのアンバランスさが色気を倍増させている。小さな頭に背の半ばまで美しいウェーブを織り成した髪は太陽に当たって光の波を見せつけ、八頭身と思わせる肢体には形の良い胸がぽってりと乗り、白い麻の衣に覆われていている。思わず二度見してしまうほど大きいのだが、体のバランスにうまく納まっていた。
「あら、私に見惚れてる?」
くすくすと喉を転がし、俺の頬に手を滑らして声を奪うのは、あまりの美女だった。
「可愛い人」
両腕を俺の両肩に懸け、その美女は俺に顔を近づける。年は同じ位か、少し上か。
欲情を掻き立てるような目元を踊る緑のアイラインが、年齢を上げているのかも知れない。
「たくましいのね。いい身体付をしている」
柔らかい手が嫌らしく俺の肩を撫で上げる。恐ろしく大胆だった。
「まっすぐな目……いいわ、すごく好きよ」
やっと目を逸らせるくらい余裕が出来て、気づかれないくらいの小さい呼吸をし、その女の後ろに目をやる。4人の男が地面に置いた輿の横に数人の召使らしき女たちと共に跪いていた。見覚えのある光景だった。浮かれていた気持ちが、手元に戻る。
この女は現場を中断してまで皆で迎え入れた、あの高貴な女性だ。監督官との会話での口調と違うからすぐには気づかなかったが、声は間違いなくそれだった。
「私と」
背伸びをし、こちらの耳に言葉を吹きかける。
「おいでなさいな」
肩からゆっくりと落とした手を、俺の肩甲骨あたりに回す。
「あなたに決めたわ」
周りの男たちが憧れていたのも分かる。鼻の下を伸ばしていたのも。
今、俺を誘うのは絶世の美女だった。世界指折りとも言えるような天女と見まがうばかりの女だ。
「さあ、ほら」
何も発しない俺の手を美女がそっと引いた。そんな目で見られて、そんな吐息交じりの色声を耳に吹きかけられたら誰でもころりとついて行くだろう。こんな状況でなければ、俺もついていったかもしれない。だが、今の俺にはそれほどの余裕もなかった。弘子たちを探して、一刻も早くもとの時代に帰ること以外考えられなかった。すべての時間が、惜しかった。
「残念ですが、他を当たって頂けませんか」
自分のするべきことを改めて考え、しなやかに巻きついた手を払う。
「あなたに見合うような男ではありません」
俺はそんな安い男ではない。毎夜毎夜同衾の相手を変える女にひょいひょいついていくほど、落ちぶれてはいない。ただ彼女が哀れだったから、そう答えた自分が悲しい笑みを浮かべていたことは鏡を見ずとも分かった。
すると、俺の言動に後ろの召使たちが驚きと怒りの、悲鳴に似た声を上げた。そんなに目を見開くほどいけないことなのか。それほど偉い女なのか。彼女がどんな身分で、どういう立ち位置の人物だかが判別できない俺には疑問しかなかった。
「あら、私を拒むの」
切れ長の瞳を丸くして彼女は俺を見上げて問うた。彼女の口元には俺とは違った、挑戦的な笑みがある。
「やらなければいけないことがあります」
向こうから悲鳴を聞いた。気づけば周りを民衆が囲んでいる。
そうだ。この場を利用して、もっと人を集めればいいのではないか。皆がお偉い女に抗うこの俺を噂すればいい。『あの方に逆らった異国の珍しい男がいる』と。
そうなればこっちのものだ。その噂が広まって届けばもっといい。どこかにいるはずの、弘子とメアリーのもとへ。
「面白い男ね」
怒るかと思いきや、美女は不敵に笑った。
「思い通りにならない男も好きよ」
彼女のどこか陰った笑みに俺の方が少し押された。手を伸ばし、こちらの髪をさらりと撫で行く。
「いいわ、今日はもう少し着飾るべきだと思っていたから。化粧のノリもいまいちだったの」
孔雀の羽か何かで作った扇を口元に当て、またくすりと笑った。その髪が揺れるたび、花の匂いがそこら中に舞い散った。美しさの中に鋭い棘がある。どれだけの男がそれの餌食になったのだろう。
「きっとまた会うことになる。あなたは、きっと私のもとに来ることになるのよ」
その美女の瞳は誇りが満ちている。誘われていると言うよりかは宣戦布告されている気分だった。
「帰るわ」
身を翻し、そのまま後ろに用意されたあのベッドに身を横たえ、4人の男たちに持ち上げられる。くつろぎながら美女は俺を見下ろした。
「あなた、名前は?」
「……良樹」
答えるつもりなどなかったのに、口が勝手に動いていた。何だかんだ言って、こんな美女に言い寄られたことに舞いあがっている自分がいるのかもしれない。
「ヨ、シキ」
片言の俺の名を、ふっくらとした唇で繰り返し彼女は頷いた。
「御機嫌よう、ヨシキ。またいつか」
妖艶で美しい笑顔をこちらに見せ、彼女は人混みが作った道を颯爽と去って行った。
「ヨシキ!!」
美女と入れ違いに走り寄ってきたのは野次馬の中にいたと思われるムトだった。近づくなり、ぐっと俺の衣を掴んだ。
「あんな無礼な口利くなよ!殺されちゃったらどうするんだよ!!」
近くで見たら、今にも泣き出しそうな顔だ。
「ムト、泣くな。どうした」
「泣いてない!!ヨシキが牢屋に入れられると思ったら可哀そうで涙が出ただけ!」
随分と身分の高そうな女だったから、逆らい過ぎたらどうなるか予想がつかなかったわけではない。すぐに拒絶したのは軽重だっただろうか。もっと丁寧に頭を下げるなりした方がよかっただろうか。
「あの方に誘われて断ったの、絶対ヨシキだけだよ!怒ってないみたいだからよかったけど……」
ごめんと笑って、俺を叱るムトの髪を撫でた。
「それで、あの人ってどこかの貴族の娘か何かなのか?」
飄々とした俺の言葉に、少年は目を丸くする。
「はあ!?ファラオの義理の母君、ネフェルティティ様!この世に稀に見る美女だよ!!外国にもその名は知れ渡ってる!ヨシキ、無知すぎ。何でそんなに何も知らなんだよ!!馬鹿!」
ネフェルティティ。名前を聞いて思い出した。ツタンカーメンの母親──アクエンアテンの妃だった女だ。
以前に本の中で名前を見たことがある。クレオパトラに並ぶ古代エジプト三大美女の一人。その美貌を体現した胸像はドイツのベルリン博物館に所蔵されている。さすが、後世に名が残るほどの美しさは並大抵ではない。
「どうしたの!?気分悪いの?」
「いや……」
本に載っていた古代人と話していたとは、また変な感覚で、ざわりと鳥肌が立っていた腕をつい強く擦ってしまっていた。
「本当馬鹿!あんな罰当たりなことしたからだよ!俺がどれだけ緊張して見てたか分かる!?」
「ごめん、ごめん。ほら、帰ろう。おばさんたちが待ってる」
珍しく差しだした俺の手をムトはぎゅっと握る。
「……ヨシキ、」
俯き歩く少年は俺を呼んだ。
「行かないよね?あの方についていかないよね?」
見上げてきたつぶらな瞳は、やはり子供の眼差しを湛えていた。安心させなければと思わせる何かがある。だから笑って、手を握り返した。
「行かないよ、大丈夫だ」
あれほどの美女にはさすがに劣るが、俺の中には一人しかいないのだ。
探さなければ。自分がこの時代に埋もれてしまう前に。
「そっか」
「ああ」
笑う少年を横目で見ながら、そのまま俺たちは並んで家に向かって進み出した。
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