浮浪者
「ラーが東の面を沿って昇り、西の面を沿って沈む。意を返せば生と死の輪廻。それがこの名の所以だ」
声を伴って彼の指が東の斜面をなぞり、頂点に達すると西の斜面を辿って降りていく。
いつものようにラムセスと兵を従えて、メンネフェルの王宮から馬で30分ほど走った頃、目の前に現れたものに、私は馬上で感嘆の声を漏らした。都を抜けた砂漠の地平線を貫くように、彼の言う「陽が昇り、陽が没する処」が聳え立っている。
「一般的には『昇る』という意味からムルやメルと呼ばれることの方が多い。転じて、『太陽へ昇る階段』と呼ぶ者たちもいる」
正体を知って納得した。「陽が昇り、陽が没する処」は一つの古代名だったのだ。未来でもその威光をこれでもかと放つ最も有名な遺跡。
「ピラミッド……」
東に向かう300メートルほどの白い大参道はピラミッドから小さな葬祭殿へと伸び、その先にあるカフラー王の顔を象った、やや褪せてはいるものの鮮やかな色を残すスフィンクスは僅かに欠けているだけで今にも動き出しそうな躍動感がある。
3つのピラミッドの他にも小さなピラミッドがいくつか辺りを囲み、河岸神殿もちらちらと視界に走る。振り返ればどこまでも広がる蒼と茶色の地平線。陽が降り注ぎ、砂漠の茶色を貫く白を放っている。
今見ているすべてのものは現代では崩れ、瓦礫と化して失われたものたちだ。真っ直ぐと途切れることなく続く地平線も現代の建物に切られ、この風景を目に映すことは叶わない。ビルや電線で、現代の人々はこの壮大な景色を失ってしまった。
「ぴらみっど?何だ、それは」
背後で手綱を握る彼が尋ねてきた。馬が止まり、足元の砂が舞い上がる。
現代では誰もが知るピラミッドという名前は、文明が滅びる紀元前7世紀頃、エジプトに訪れたギリシャの兵たちが名付けたものだ。
当時、ギリシャでは三角形のパンを「ピラムス」と呼んでいた。エジプトの三角形の建造物が三角形であったことから、ピラミッドと名づたのだという説が有力とされている。
エジプトの全盛期とも言えるこの時代に、ピラミッドの呼び名はまだ確立されていない。
「この建造物は私の時代にも残っていて、ピラミッドと呼ばれているの」
ギザの三大ピラミッドはエジプトと言われてまず連想するもので、あまりにも有名だ。
「なんだ、ヒロコはこれを知っていたのか」
私がこの存在を知っていると分かった彼は、少し落胆したように肩を落とした。
「もっと驚くと思っていたのだが……つまらぬ」
拗ねる素振りを見せながら馬から降りて、私が降りるのを待つ。
「知っていたけれど、とても驚いてるのよ。私の時代とでは全然違う」
砂の上で自分のサンダルを鳴らし、笑って返しても彼は口を尖らせたままだ。
「驚いているようには見えぬ」
ただ、驚きすぎて言葉が出ないだけだ。
ピラミッドの他にもこんなに建造物があり、その背後に真っ新な砂漠の大地が広がった場所だなんて想像だにしていなかった。
現代では見られない、数千年前のエジプトの姿を私は目の当たりにしている。じわじわとその感動が足元から頭へ伝ってくるようだった。
「まあ良い」
ぐるりと一周見回す私に笑って見せ、白い参道に彼は黄金のサンダルで降り立った。
「この私が案内してやろう」
底辺230メートル、高さ147メートル。4つの底辺の方位が東西南北を違うことなく向き、角度はほぼ90度。誤差はごく僅かだ。
「積み重なる石は260万個だと言われている」
壮大な建造物を眺めながら首が痛くなるのを感じながらも、私は彼の解説に頷き、時折質問を挟んでいた。
重機も精密機械もなかった時代にこれだけのものを作っていた技術の高さには驚きを隠せない。現代の職人でも機械なしに直角を作り出すのは難しいという話だったというのだから、数学が発達していた古代エジプトならではの技術があったのかもしれない。
白い石で覆われ、太陽の光を跳ね除け、黄金と白を混ぜて光り輝く。ピラミッドの表面を覆うのは大理石の一種のアラバスタ石で、つるつるした白斜面で光の帯を織り成していた。そして頂の、太陽に最も近い部分は黄金石のように輝く。
「どうやって作られたの?」
石と石の隙間は紙1枚入らないという高度な技術を持って作られたピラミッドは、人々を圧倒するファラオの偉大さを体現したものだと言われている。
多くの考古学者が解明に挑み、異論俗論は数えきれないほどなされているけれど今尚分かっていない。
ここで彼に教えてもらえたら現代人で唯一ピラミッド建設の秘密を知ることが出来る人物だと興奮し始めたのも束の間、彼は困ったように笑った。
「今から1300年も前のファラオたちが作ったものだ。残念だが今ではもう分からぬ。そもそも何のために作られたのかもはっきりしておらぬのだ」
この時代からでさえ、ピラミッドが作られたのは1300年前に当たるのか。私が生まれた時代からすれば更にプラス3300年で、合計4600年前になる。日本で邪馬台国が存在した弥生時代から3500年以上前に作られたものだという計算になる。
気が遠くなる思いがして、白を含む黄金の三角錐を仰いだ。
この時代でも古代の遺物だと言うのだから、どれだけの長い時間をこの建物はここに聳え立っていたのだろう。なんて計り知れない時間の長さ。現代で遠くから見ていたピラミッドは4500年間、人々を見下ろしてきたものだった。
「ここには崩れてしまっているものもあるが、約80のものがある。その中で最も王家の偉大さを現しているのはこの3つ。向こうに見えるは……」
「クフ王のものね」
彼の言葉を遮って、少し胸を張って発言してみたら、相手は驚いて私を見た。
「ヒロコは、古の王を知っているのか」
淡褐色が丸くなったのを見て、嬉しくなる。世界でも有名な文化遺産なら、エジプトをちょっとかじった人であれば誰でも知っている。
私だってこの文明について何も知らないという訳ではない。これでも6歳の頃からエジプトで生きてきた人間なのだ。
「目の前にあるのがカフラー王、一番小さいのがメンカウラー王のもの。そうよね?」
一つ一つ指差して確認して見せる。
「クフ王が祖父で、カフラーはその息子、メンカウラーはカフラーのまた息子。クフ王にとっての孫に当たる王」
「ああ、よく知っているな。皆我が偉大なる祖先たちだ」
彼も嬉しそうに頷いてくれる。
「神の名さえ知らぬというのに、それは知っているのか。何で学んだ」
「お父さんが教えてくれたの。エジプトが好きでよく色んなことを教えてくれたわ」
エジプトに最初に来た頃、アラビア語さえまともに話せなかった私の手を引いて、父も彼と同じように指で示し、顔を綻ばせて何度も何度も王の名を繰り返してくれていた。
「お父さんは誰よりもこの国の文明が好きだったわ」
このピラミッドよりずっと廃れて、崩れて、斜面さえなくなってしまったものだけれど、エジプトのことを楽しそうに話す父の横顔を思い出したらどうしようもなくなり、ピラミッドに向けていた目頭が熱を持った。
「未来ではどのように残っている?」
彼は静かに問う。
瞼を伏せ、胸に色濃く沁みついている記憶を脳裏に思い浮かべた。
左手に掴んだスカートに、砂の感触を感じた。あの時も、私はスカートに乗った砂を幼いながらも頑張って払おうとしていた気がする。
「あの白い石は全部剥がれてしまっていて……スフィンクスも崩れていて、あとはね……」
エジプト文明が意識され始めてから、このピラミッドの中に入ろうとした盗賊や探検家が多く存在した。
特に現代のメンカウラー王のピラミッドは、1835年イギリス軍の大佐ハワード・ヴァイスが「私こそが神からピラミッドの謎を解明するように命じられた人間なのだ」と主張して、入口が見つからないからとダイナマイトで爆破してしまい、大きな穴が開いていた。その穴も今はまだ無い。
目の前に広がる古の王たちの遺物は、厳かで美しい芸術品のようだ。
「頂上の石は落ちてしまって博物館に展示されていて今の面影はあまり残っていなくて寂しいけれど、偉大で……世界遺産、世界の宝として指定されているの。世界に知らない人なんていないくらい有名で、世界中に興味を持つ人がいるわ」
世界遺産だとか、博物館だとか言われても彼は分からないだろうし、そもそも自分たちが築いてきたものがそんな展示品になっているなんて、おかしな感覚だろう。説明をしてあげなければと分かっていても、感情に埋もれて補う言葉が滞った。
彼はそんな私を見て、何も言わず静かに金字塔を仰いだ。私もつられて隣で偉大なファラオの業績を眺めた。
現代の記憶が、どうしようもないほどに懐かしくなる。
毎日当たり前のように学校へ行って、遊んで笑って、漠然と見ているだけの光景だった。興味なんて一つもなかった。その中に息づいていた古代人の記憶にさえ、気に留めなかった。
だけど今は違う。これらが約5000年の時を越えて21世紀の地に残り、私たちと同じ空気の中に存在していたということが、どれだけ素晴らしいことか。
遺跡は古代に生きた人々の記憶だ。遥かな時を越えた、数千年の記憶だったのだ。
「我が国は、先の世でも生きているのだな」
呟かれた中、砂漠の風に焦げ茶が揺れる。後追うように私の髪も後ろに靡いていく。
時代に遺されたこれらは、現代でもいつも私の傍で息吹き、エジプトという国を見守っていた。文明が失われ、文字を読める人々が消え去っても、世界が戦争に狂い植民地になったとしても、輝いていた黄金の記憶を忘れ去られても、ここに吹く風を、繰り返される生命の輪廻を、ずっと見ていたのだろう。そしてこれからも、この地に生まれ、生きる人々を見守り続けていくのだろう。
「ヒロコ」
風の中に流れる時に思いを馳せていたら、彼が私を呼んだ。
「明後日にでも、テーベへ向かおうと思っている」
風は時に声をかき消してしまう音を立てているのに、何故かその声だけはすっと耳に入ってきた。
繰り返し呟いて初めて、私は遺跡から視線を逸らして相手を見た。彼は真っ直ぐ私を見つめていた。
「テーベ……」
不安を煽る都の名だ。何故彼が行くのかは、今朝イパがセテムからの書簡のためだろう。都の復興が進み、完成しつつあるから、見に来てほしいと。
「一月ほど、滞在するつもりだ」
一月は、想像していたよりも長期だ。
「それ以上になる可能性もある。大きな改革だからな」
彼が、神の都テーベへ行くのだ。ここから500キロはある、この人の運命の地となりうるアメンの都。
目の前にいるその人の穏やかな表情を見つめ返した。
「私は、行けないのね」
どうして彼がこんな物静かに、諭すかのように私に告げているのかは大体検討がつく。
「あなたと一緒にテーベへ行けないのでしょう」
テーベへ行くのだと分かって込み上げてくる不安をどうすることもできなかった。もし、誰かに狙われたら。事故にでもあったら。不安で前が見えなくなる。
「ヒロコのことは連れて行けぬ」
彼は、すまぬと緩い口元の綻びを私に向けた。謝罪の言葉をもう一度繰り返した小さな声が、砂に風と共に拭き流れていく。
やっぱり、その都へ共に行くことは出来ないのだ。すでに決まりきっていた答えに肩を落とした。
「王か王妃、どちらかは都に残らねばならぬ。王族が都を空けることがあってはならぬ」
テーベの都を復活させること。これは彼が何としてもやり遂げなければならない改革だ。そのために家族を犠牲にし、彼もすべてを懸けて成し遂げようとしている。
「我が妃として、しっかりとこの地を踏みしめていればよい。何かあればすぐに駆けつける」
そう言って私の髪を撫でた。大きな手が飾りのついた耳元を通り、肩へと落ちて最後に頬に達した。
「死んだりなどせぬ。案ずるな」
少し離れたところにいるラムセスに聞こえ無いよう、そっと囁く。
「歴史が指していた私の死期は確かテーベに都を遷した数年後だったはずだろう」
そうだ。彼が死ぬとされているのは、テーベへの遷都が終わり、改革が無事終わってから。
彼の頭には、私が読んだあの文章が一言一句逃すことなく詰まっているようだった。
「ヒロコを置いて死んだりはせぬ。今はこうして王としていることが楽しくて数百年、数千年生き続けられそうな気さえするのだからな」
寄せられた表情に微笑みが浮かぶのを見て、自然と私の口元も笑んだ。
「……信じるわ。でも、絶対に気を付けて。気を抜かないで」
歴史通りであるのであれば、まだ運命の時ではないはずだから。
「待ってる。この都で」
ああ、と深い、安心させてくれる声と睫毛の影が落とされた目元に私も頷き返す。右手首のウアジェトがあしらわれた黄金の腕輪を左に握り込んだ。
我儘は言っていられない。王妃となった以上、この人の妻になった以上、私が守るべきものは彼だけではなくなった。この大国にも命を懸けなければ。
「私はあなたの妻で、この国の王妃。あなたが留守の間、緑の都を守ります」
それでこそと。彼は私を抱き寄せて、いつもの力強い笑みを褐色の頬に浮かべた。
3つの巨大なピラミッドとその周辺の葬祭殿や王妃たちのピラミッドを見て回り、帰るために馬が並ぶ方へと兵を連れて引き返していた。
「あの建物は?」
ふと目に付いたピラミッドの横の小さな建物の列を指さして彼に尋ねる。崩れてしまってはいるが、長方体のそれは中に入れるらしい外見だった。住居のようにも見えた。
「職人小屋だな。おそらく1000年ほど前の」
彼は考えるようにして、すぐ後ろを歩いていたラムセスを振り返る。
「確かそうだったな、ラムセス」
彼の問いかけに、少し後ろを行く隊長はすかさず頭を下げた。
「左様に御座います。この誇り高き王墓を作った物たちが休憩所や住居として使用していたものと聞き及んでおります」
どうやらもう使われていない職人小屋らしい。ピラミッド建設に携わった労働者のためのものだろうか。
「覗いてみるか?」
せっかくだからと大きく頷いて、その大きいとは言えない建物の壁を沿って歩き始めた。
数千年後では触ることさえできないものを、この目で見て触れている自分に感動してしまう。嬉しそうだなと彼には呆れ気味に言われても気にしない。先の未来では形さえ失われているものを見て、それに触れている。この感動の意味を理解できるのはきっと私だけなのだろう。
先頭に立って、珍しく彼を後ろに従えて歩く。
入口はどこかと探していると、長い壁の先、建物の角を曲がり日陰に入った時、見えた黒い影に足が止まった。
「どうした」
「人が」
女性と思われる姿が、小屋跡の壁に寄りかかり膝を抱く体勢で蹲っていたのだ。汚れた黒い継ぎ接ぎのローブを羽織り、顔は立てた膝に埋めている。その波打つ長い髪がなかったら性別など分からなかっただろう。
「浮浪者か」
アテン信仰に変えてから国が乱れ、一定の住居や職を持たず、方々をうろつく、浮浪者が増えたと聞いていた。住む場所も儘ならない多くの浮浪者が助けを求めており、メンネフェルに来てからの彼は彼らのための支援を始めていた。
王家の改革のために住居を失い、苦しんだ人々は王家が今何よりも手を差し伸べなければならない存在だ。ただ、浮浪者を目にするのは、これが初めてだった。
「何たることか、このような神聖な場所に浮浪者など」
彼女に手を伸ばしかけた私の前に、ラムセスがさっと現れ、彼女の前に立ち憚った。
「衛兵、送り届けてやれ」
隊長の命令で2人の兵が彼女の前に進み出た。
「どこへ送り届けるの?」
咄嗟に彼に聞くと、彼は浮浪者を見据えたまま口を開いた。
「浮浪者を支援する、王宮管轄の施設を建てた。該当する者を見つけた場合はそこへ連れて行くことになっている」
安心して胸を撫で下ろす。彼の管轄下にあるその施設ならば、必要最低限の生活は約束されるだろう。
「ほら、立て。大丈夫か」
彼女は人形のように黒い陰の中から動こうとしない。無残に伸び放題になったような髪を垂らし、掴まれていない方の腕はだらりと枝垂れる。まるで、衛兵の呼びかけが聞こえていないかのようだった。
「立てるか?足でも痛むのか?」
優しく問われても答えようともしない彼女に、兵たちは仕方なく屈み、二人で支えながらやっとのことで立たせた。その拍子に、泥に汚れた蜘蛛の巣のように絡まった髪が揺れ、隠れていた顔が私の視界に露わになった。
瞬間、頭が真っ白になった。垣間見た死人のような表情に、脳裏が揺さぶれた。
「待って……」
息を呑む。まさかと。こんなことがあるのかと信じられない思いだった。
「お願い、待って!!」
彼女を連れて行こうとする兵に叫ぶと、戸惑いながら彼らが足を止めた。
止まった拍子に彼女は糸が解けるかのように兵たちの腕を通り抜け、地面にぺたりと座り込み、髪を下に流して天を見つめていた。そんな彼女に私は咄嗟に駆け寄って屈みこみ、支えた。
私達を覆う蒼空など彼女の目には入っていない。ただ、目に映しているだけ。
虚ろに黒に沈んだ瞳と、汚れてこけた顔。他人の空似かと思っても、黒い上着の狭間に覗く服が、その考えを覆す。
淡いピンクのスカート。金具がついた白いサンダル。細やかなレースがついたブラウス。この時代にはない素材とデザインは擦り切れ、汚れてしまっているが間違いない──現代の、私の時代のもの。浮浪者と呼ばれた彼女が身に着けていたのは、21世紀の洋服だった。
「ヒロコ、どうした」
私は、この浮浪者を知っている。
「いかがなされました、王妃」
彼の声もラムセスの声もどちらも風と同じように吹き流れ、私を通り抜け、消えてしまう。
「……メアリー」
そんな、まさか。
空を茫然と見上げたままの相手を覗き、彼女を呼んだ。
私の擦れた声に、空に向いていた彼女の目の焦点が動き出し、私に合った。僅かにぶれながらも確実に。そしてゆっくりと、光のない瞳を回して中を漂い、やがて私を映した。
「メアリーなの?」
嫌に生ぬるい空気が、私の頬にまとわりつく。鼓動だけが胸を打ち、すべての音を掻き消してしまう。私が手を伸ばした瞬間、彼女の瞳孔がいきなり収縮し、瞳の中の私を締め付けた。死人のようだった顔が、表情を取り戻し、大きく歪み出す。
「……あ、……あぁ」
眼差しを揺らし、見開いた丸い目に古代王家の衣装に身を包んだ私を大きく映し出した。
「ひ、ひろ……」
懐かしい響きだった。正しい発音だった。
「……弘、子」
彼女は呼んだ。彼しか呼ばない私の名を。現代ではなく、この古代の中で。
「弘子っ!!」
膝立ち、彼女は襲いかかるかのように私の腕に掴みかかった。記憶のものよりもずっと細くなり、10本の指が左右の腕に巻き付いて痛みを成す。
「無礼な!」
瞬間的に数本の槍が彼女に向けられた。
「王妃様に掴みかかるとは何たる所業か!!」
「やめて!下ろしなさい!!」
私の声に兵は戸惑いつつも槍を降ろしたが、一人だけは違った。緑の目の隊長だけは槍を下ろさなかった。
「逆賊か」
茶色サンダルを鳴らし、私とメアリーの傍まで歩み寄ったラムセスは腰の短剣に手を掛けた。
「そのような身分で王族に触れることは禁忌。逆賊ならばこの場で断ち切るのみ」
「駄目よ!」
ラムセスが問答無用で私から彼女を力づくで引き剥がし、腰の刃を抜いて光らせる。私の命令では止めてくれない。ラムセスは彼に危害が及び得るものは何でも排除しようとする。
「ラムセス!」
響き渡った彼の声が、隊長の刃を止めた。解放された彼女に駆け寄り、再び身を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。
「メアリー!」
槍と刃を目に映した彼女は、さっと恐怖の表情を浮かべ、頭を抱えた。
「ち、ちが……違うっ!」
私の手を振り払い、尻餅をついたままの彼女は私から後退する。
「弘子がいるのに……違う、私の時代じゃない……あなた、弘子じゃない」
違う、違う。違う。
そう繰り返しながら、震え出す指で髪を大きく引っ掻き回す。
砂がついた波打つ髪がたくさん細い束になって彼女の顔に降り注ぐ。
「弘子がいるのに違う!何で……どうして違うの、どうして!!ここは……わ、私は……!!あああっ!!!」
乾燥して切れた唇が悲鳴を上げた。パニックに陥っているのだと悟って、もう一度手を伸ばして抱き締めた。
「メアリー、落ち着いて。私よ、弘子よ」
そう言葉を掛ける私の頭の中も真っ白に変わりはなかった。
どうして彼女がここにいるのか。夢でも見ているのではないか。何も分からないのだ。
「寄らないで!!やだああああっ」
私の手を弾き返し、首を左右に振って親友は瞳孔を見開く。
「あ、うあああっ!!!」
私を見つめ、髪を何度も何度も掻き乱して、小さな悲鳴に似た声を上げ続ける。
「あああ──っ!!!」
限界まで張っていた糸が切れたかのように、彼女は目の前で崩れ落ち、砂漠の上に倒れ込んだ。
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