言えずに

 未だに信じられない現実を前に、疑問ばかりが頭の中をぐるぐると巡っていくのを感じながら、私は寝台に眠る親友の手を握り、撫でることを繰り返していた。


「まだ、目を覚まさぬのか」


 どれだけ経ってからか、サンダルの音を響かせて彼が傍にやってきた。


「ええ……でも、どうにか落ち着いたみたい」


 頷く私の声はくぐもった。先程まで、メアリーはずっと呻き続けていたのだ。

 少し痩せたことを除けば大きな怪我もなく、健康体だったことには安堵を覚えたものの、再会した時の彼女の様子を思い出すと心配でならなかった。


「周りにはヒロコの冥界での友人で話は通した。ヒロコが甦るのを追ってきた者だと……だが」


 彼は腕を組み、声音を低める。


「何故、ヒロコの時代の者がここにいる。私が呼んだのはヒロコだけだ。他の者を呼んだ覚えはない」


 視線を上げて彼を見やると、訝しさと戸惑いを混ぜた表情を浮かべ、淡褐色は眠るメアリーを見下ろしていた。分からないことに苛立っているような、何かに焦っているような、そんな雰囲気がある。


「ヒロコと同じ、時を越えた者ということか」


 私は彼女の手を包み、ある程度穏やかになった寝顔を覗いた。


「きっと私が、連れて来たんだわ」

「ヒロコがか」


 眉を顰め、眉間の皺をより深いものにする。


「ここに戻ってくる時、良樹とメアリーが私を追いかけて来てくれた。私を家に連れ戻そうとして」


 記憶を失っていた私が、彼の声に応えてアマルナへ行った際、メアリーは私がいないことに気付いた良樹と一緒に車で追いかけてきた。


「あなたが私を呼んで……あの黄金の光に引き込まれる前に二人は私の腕を掴んだの」


 片手で額を抑え、あの時の記憶を探っていく。

 黄金の光が眩しく目を瞑り、光に引き込まれる直前に二人の悲鳴らしきものを私は確かにこの耳で聞いたのだ。

 最初に時代を越えたKV62では、誰も私に触らなかった。だが前回は違う。良樹は行かせまいと私を抱き込み、メアリーも私の腕にしがみ付いていた。


「ヒロコの巻き添えでここに来たということか」


 遣る瀬無くなって俯き加減に頷くことしかできなかった。

 私が二人を巻き込んでしまった。それ以外に考えられない。


 私のすぐ傍にはメアリーが身に着けていた服が畳んで置いてある。所々擦り切れて、以前はとても綺麗だっただろうそれはもうほとんど面影がない。

 私が古代へ戻ってきてすでに4か月ほどの月日が経っていた。下手をしたら、彼女はその期間ずっとこの世界に一人でいたことになる。痩せ細った彼女の身体を見れば、食事もろくにできていなかったことは一目瞭然だ。

 自分もこの時代に投げ出された時は頭が割れんばかりの狂気に見舞われた。状況を受け入れられず、どうにか現代の風景を探そうと泣き続けて。それでも私には彼がいた。彼が支えてくれて、居場所を与えてくれたからこそ、古代で生きることを受け入れられた。王女アンケセナーメンの名を貰い、その名の下で私は生きる希望を見出すことが出来たのだ。

 だが、彼女には私が今手を握る親友には誰も傍にいなかった。孤独だった。それがどれだけ辛い事か。もしそうであったなら、彼女があんな虚ろな、魂を抜かれたような表情になっていたことにも頷ける。

 友人が感じていただろう孤独を思い浮かべたら、今まで彼女ことを探そうともせず、のうのうと過ごしていた自分が許せなくなり、彼女の手を強く握った。


「ヒロコ」


 彼がそっと呼びかけてくれた時、彼女の手が僅かに動き、眠る瞼が開き出した。

 はっとして彼を振り返る。メアリーが明らかに古代人の姿である彼を目にしたら、また大きく動揺してしまうかもしれない。


「お願い、二人だけにして」


 私の頼みを受けた彼の淡褐色が、すっと細まる。


「きっとあなたがいたらまた動転してしまう」


 メアリーを警戒している彼がこの申し出を快く思わないのは分かっている。それでも今、私が優先すべきなのは彼女だ。


「お願い」

「……分かった」


 彼は小さく息をついて承諾した。


「何かあったらすぐに呼べ」

「ありがとう」


 隣に繋がる部屋へと去って行く彼を見届け、私は腰を浮かせて彼女の手を握り返し、顔を覗き込んだ。


「メアリー」


 彼女の名を呼ぶことが、懐かしいと思った。

 漠然と瞬きを繰り返していただけの瞼は、自分の名前に反応してゆっくり開き、覗く瞳に夕陽に近い色を成した光が灯る。


「大丈夫?気分は?」


 彼女が頭を動かし、私を視界に捉えた。私が誰であるか認識した途端に見開かれる。わなわなと震え出してまた叫び出してしまうのかと心配になり、強く手を握り直した。


「弘、子……」


 彼女の目にみるみるうちに涙が溢れ、その目尻を濡らしていく。私を瞳に映したまま、彼女は静かに泣き始めた。


「……夢じゃ、ない」


 顔を泣き顔に歪め、もう一方の腕を私に伸ばす。


「夢じゃない、弘子よ。メアリー」


 その手を取って、もう一度名を呼び返すと、彼女は一層の涙を溢れさせた。


「弘子!」


 勢いよく飛び起きて、小刻みに震える腕で彼女はしっかりと私を抱き締めた。


「ひろ……弘子……」


 何度も私の名を呼んでは声を上げて泣く。嗚咽が零れ散って、空間に反響した。


「会いたかった!ずっと、ずっと会いたかった!探してた!」


 わっと涙を散らす彼女の震える身体を、力のない彼女の分まで強く抱き締め返した。


「本当に弘子なのね……間違いないのね」

「ええ、私よ。弘子よ」


 私の服を濡らす涙が落ち着き、腕の中の呼吸が一定のリズムを刻みだすまで、伸びきった髪を撫でて友の存在を感じていた。

 やがてメアリーは私から身体を離すと、涙を拭い、赤らんだ目元をこちらに向けた。


「……ここ」


 恐る恐る視線を動かしてあたりの様子を確かめている。


「ここはどこ?」

「王宮よ」


 返答に、メアリーの全身が強張る。


「王、宮?」


 現代のエジプトに遺跡以外に王宮は存在しない。王宮という一単語に彼女は何かを察したのか、膝にかかる麻を握りしめた。


「メアリー、落ち着いて聞いてね」


 そっと手を相手の両肩に乗せ、一言一言を確かめるように声を発す。

 伝えなければならない。ここがどこで、いつなのか。私たちの身に何が起こったのか。受け入れることで落ち着くものがあるはずだ。私がそうであったように。


「ここはね」

「古代なのね」


 続けられた相手の言葉に私は目を見張った。


「やっぱり……間違いじゃない」


 メアリーが自分でも信じられないというように頭を軽く横に振り、間を置いてから驚く私に少しずつ話し始めた。


「……私、あの時、」


 恐ろしい何かを見るように視線を漂わせながら、どうにか擦れた声を発していた。


「黄金に、引き込まれて……流されたの……とても不思議な金色の川に」


 ああ、と思った。あの黄金のナイルに、メアリーも流されていた。時代の大河に飲み込まれていたのだ。


「気づいたら、倒れてた……荒れ地に囲まれた、その遠くに小さくピラミッドが見えたから、私はギザに飛んできたのかと思ったの。でもそこは私の知っているギザじゃなかった……建物が、無かった」


 彼女が言っている建物とは、現代の建物のことだ。


「広い砂漠にぽつぽつと土でできた家のようなものがあった……そこに住んでいる人たちもいたけれど、服装が違った。太陽も、空気も、水も、ナイルも、砂漠も、何もかもが違ってた!エジプトなのに、私の知っているエジプトじゃなかった!」


 声に身体と同じ震えが混じり、悲鳴のような響きを生む。

 彼女の言っていることは以前の自分の身にも起きたことと同じ。ここは生まれ育った所と同じ地なのに、何もかもが澄んでいる透明な世界。同じであって、違うのだ。


「古代なんじゃないかとしばらく歩いて周りを見ているうちに思い至った……でもおかしい。こんなの、おかしい……そうでしょう?古代に自分がいるなんてあり得ない」


 そうね、と頷くだけの返事をする。


「訳が分からなくて、ピラミッドのある方向へ走った……知っている場所に行ったら、元の場所に戻れる気がしたの。でも行ったら、まったく違った!!茶色のあれが、白いのよ!?白く光っていて、上には黄金があって……スフィンクスも色があって……!!」


 次第に悲痛が滲む彼女の様子に耐えられなくなって、抱き寄せた。


「大丈夫。もう、大丈夫」


 その後、時折泣き出しながらもここに落ちてからの話をしてくれた。

 何か食べ物を買おうとしても持っていたお金では買えず、時計や帽子などを売ってお金代わりになる小麦を得ていたこと。それでも食糧は足りず、畑や庭にある葡萄などの果物を盗んだり、そこらにあった食べられそうなものを拾ったりして何とか食いつないでいたこと。行く当ても無く、そのままピラミッド付近で寝泊まりしていたということ。


「良樹は、知らない?」


 鎮まったのを見て、ずっと気になっていたことを尋ねてみる。


「メアリーと一緒にいなかったの?」


 メアリーがここにいるのなら、私を抱き込んでいた良樹もこの時代にいる可能性が高かった。でも彼女はふるふると首を横に振る。


「弘子と一緒だと思ってた」


 メアリーと一緒ではない。ならば、良樹は一体どこに。


「ねえ、弘子」


 手を握り返し、メアリーは私の全身を眺め、部屋を見渡した。


「どうしてこんな王宮にいるの?服装、王家の人みたい」

「ああ、これは……私が落ちたのがね、王宮だったの。それでファラオに居場所を与えてもらって、今はここで過ごしてるのよ」


 咄嗟に差支えの無い答えをした。

 自分が現代を捨てて彼を選び、この国の王妃として存在していることこそ、彼女に最も伝えるべきことではなかったか。自分の顔に浮かんでいるだろう作り笑いを引き剥がしたくなる。

 

「ああ、だから、そんな恰好なのね。弘子は運がいいね、まるで古代のお姫様みたい……すごい黄金。前ももしかして、古代にいたの?」


 恵まれた所に落ちたと言う私を僻みもせず、メアリーは笑窪を浮かべて私の膝に流れる衣装に触れていた。


「そう……古代にいたわ。現代に戻ったら全部忘れていたけれど」

「古代にいたなら、私とヨシキがいくら探しても見つかる訳がなかったよね。色々なことが信じられないままだよ」


 彼女は呟くように言いながら私の手首にある黄金を指でいじる。


「あのね、メアリー」


 話を切り出そうと試みたら、メアリーに首を横に振られてしまった。


「……何も言わないで」


 微笑んで私の頬を両手で包むように撫でる。


「いいの。だって、これで帰れるのよ?ここのことなんて何も知る必要なんてない。知りたくなんてない」


 涙を浮かべながら綻ぶ相手の笑顔は、自らが下した決意を伝えようとする意欲を私から奪った。


「弘子がいれば、帰れる。そうだよね?だって弘子は戻ったんだもの、私たちの時代に。弘子が戻らずこんな時代にいたのも、私と良樹を探してくれていたからでしょう?」


 透明な筋を残した褐色の頬を寄せるように、私の胸に縋り付く。


「懐かしい。弘子の匂いがする……」

「……メアリー」

「良樹を見つけたら、帰ろう?3人で一緒に。あの世界へ戻ろう」


 ぐっと抱き締められて、喉まで出かかっていた言葉が奥へと抑え込まれる。現代へ帰れると涙して身体を震わせる友にどうして真実を言えるだろう。


「夢みたいなことなんて知らない方がいい……帰って夢だったって思えばいいの。ううん、これ全部がきっと夢なんだわ。そうだよ、私たちは夢を見ているの」


 夢ではない。彼もこの国も、夢ではないのだ。

 しかし自分の胸元で呟く彼女の目は、まるで本当に夢を見ているかのようにどこか虚ろだ。


「早く目を覚まして、学校に行きたい。お母さんとお父さんに会いたい。おいしいものをたくさん食べたい。ケーキもクッキーも、あとはそうだなあ、紅茶もソーダも飲みたい」


 弘子と呼び、私の胸元に頬を寄せたまま彼女は笑った。

 こけてしまった頬を綻ばせ、記憶を失っていた私を見舞ってくれていた時と変わらず、彼女は私に笑って見せた。


 言えなかった。

 自分がここに残ると決め、元の時代を、両親を、友人を捨てて、悲劇の王の妃となったことを、その輝きを取り戻す瞳に、言わなければならないことを私は何一つ言えなかった。


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