9章 時を越えた者

陽が昇り、陽が没する処

 ナルメルがメンネフェルに到着したのは予定通り3日後のことだった。第一の側近イパイ、女官長ムトノメジット、将軍ホルエムヘブ、隊長ラムセス、諸々の神官たちが集い、これで下エジプトの主要人物が揃ったその瞬間から、宴の毎日で祝えや踊れの大騒ぎに荒れ狂った。

 こんなに贅沢三昧で大丈夫なのか、破産することはないのかと心配するのはどうやら私だけのようで、彼はお気に入りの葡萄酒を浴びるように飲み、料理も私たちを埋め尽くすほど次から次へと運ばれてくる。

 話を聞けば、毎晩のように目の前でアクロバティックに舞う腰巻だけの踊り子にも報酬が出ており、いつも音楽を流してくれる楽士には、貴族並みの裕福を約束されるとのこと。この二つの職業は王侯貴族から、宴の度に必要とされるため、休みが取れないくらいに忙しいのだとか。

 何でも、この時代の楽器はハープが主流で、楽譜という存在がない上に、音程は自分の音感次第であるために、余程の技術者でなければこの宴の席に呼ばれることはないと言う。


「私も一時期ハープを習っていた頃がありまして、それをきっかけに楽士を目指したこともありましたけれど、結局断念してしまいました」


 後ろに控えているメジットがあたりを珍しそうに見まわす私にそっと教えてくれる。ナルメルとテーベについての難しい話を交わしている彼の傍で、果物を頬張りながらぽつりと座っている私を楽しませようと、彼女は色んな話をしてくれていた。


「そんなに難しいのね」


 同じ年頃の女の子とこうして話すのは久しぶりで胸が弾む。

 上エジプトにも私くらいの女の子が侍女として仕えてくれていたが、主に言葉を交わすことが出来たのは女官長のネチェルだけだった。


「ええ。5本の弦であれだけの曲を奏でることは、そう簡単には出来ません。ですから、有名なハープ弾きだと一年中仕事が絶えないと聞いたことがあります。王宮だけではなく多くの貴族たちにも招かれますので」


 確かにハープの弦は少ないのに、様々な音色を響かせている。構造が単純なだけに、どうやってあれだけの音を出せているのか見当もつかなかった。


「私たちと変わらない大きさの頭に数えきれないほどの美しい音色が詰まっているのでしょう。こういう才を、きっと神からの賜り物と呼ぶのですわ」


 この時代に、音楽を演奏する際には必ず出てくる楽譜というものが無い。楽譜が初めて成立するのは、キリスト教が確立して聖歌が歌われるようになってからの話であり、音楽の言語ないこの時代は、自分で作った曲はすべて暗記ということになる。楽士とは、才能が問われる仕事のようだと頭の中で結論付いた。


「それより、王妃様」


 メジットが何かの肉料理を私に差し出してくれた。


「これをお召し上がりくださいな。果物ばかりでは勿体のう御座いますよ」


 香ばしい匂いが食欲をそそる。近くにあるパンや野菜果物ばかりだったから、こういうのも偶にはいいかもしれない。


「何のお肉?」

「我が国の将軍ホルエムヘブが狩ってきた獅子の肉を焼いたものになります。いつもならば食さないのですけれど、今回はせっかくだから焼いてみようということになりまして」


 つまりはライオンの肉だ。古代エジプトでは、ライオンを権威の象徴として狩ることが多いのは知っていたが、食べるとは思わなかった。

 彼女の言い分からすると、食することは少ないようであるのに、今この場でまさか食べる機会と出くわすなんて。


「この都にいらっしゃってから一口もお召し上がりになっていらっしゃらないのですもの。案外美味しいものに御座いますよ。さあ、どうぞ」


 正直、慣れないライオンを食べることには抵抗があるものの、後光が見るほどの笑顔で差し出されては、受け取らない訳にはいかなかった。

 皿に乗る初めての肉料理に向かってごくりと唾を飲む。一か八か。何事も経験だ。


「ヒロコ」


 不意に声がかかったと思ったら、さっきまでいたナルメルの姿は消え、肩に彼の腕が回って彼の重みが身体に軽く加わった。それと同時にメジットは頭を下げて元の位置へと戻っていく。


「食べぬのか」


 私のお皿にあったライオンの肉を素早く鷲掴み、自分の口に入れてしまう。突然伸びてきた腕に声を上げそうになりつつも、何が何でも食べたい訳でもなかったからそのままあげることにした。


「獅子は旨いとは言えぬな」


 もぐもぐと口元を動かす彼は少々首を傾げた。やはり、ライオンは食用には向いていないようだ。


「どうだ、楽しんでいるか」

「ええ、とても」


 周りの様子を見ていて楽しい。見るものすべてが私にとって新鮮なものばかりだった。


「なら良い」


 私に唇を寄せて、相手は満足げににこりと笑った。

 アルコールの匂いと共に、目の前に浮かぶ頬はお酒のせいかほんのりと紅潮していて、独特な色気を漂わせる。

 彼はいつもこうだ。お酒を飲むと声も、仕草も、表情もすべていつもと違うものに変えてしまう。こちらが恥ずかしくなるくらいの甘さがあるから困ったものだ。色香に固まる私には気づかず、彼はそのまま私を抱き寄せてお酒を口に含んだ。その様子を見ていたら、飲み過ぎではないかと心配になってくる。


「ねえ、アンク」


 お酒のことを指摘しようと口を開きかけた時、誰かが私たちの前に歩み寄り、跪いた。


「ファラオ、宴の席に呼んでいただき、恐悦至極に存じます」

「よく来たな、ホルエムヘブ」


 太い眉に、黒い肌。誰よりも勝る軍才を持つ下エジプト将軍だ。


「随分と、私への挨拶が遅れたようだが。私より優先するものがお前にあるのか?」


 彼は厭味ったらしい笑みに威圧を含ませている。

 宴の席では、始まる前に宴の主催者である彼に挨拶をするのが礼儀というもの。彼が言う通り、この将軍の挨拶は遅すぎた。


「も、申し訳ありませぬ!色々とありまして……しかし、我が部下、このラムセスを置いておきましたし、ファラオにはご迷惑をおかけすることはなかったかと」


 将軍の後ろに控えていたラムセスがぴくりと眉を上げたのを見たけれど、それは一瞬で何も言うことなく目を伏せた。文句があろうと安易に口出しはしないのだろう。


「まあその判断は正しかったな。ラムセスはよく働いてくれた」


 彼の褒め言葉に、赤毛の人の顔が誇らしげに綻んだ。


「ホルエムヘブ、せっかくの席だ、お前も宴を楽しむと良い。下がれ」

「あ、あの、恐れながらお聞きしたいことが御座います!」


 命令に従わず自ら口出しをした将軍に、欠かさず赤毛の隊長が前に踏み出した。


「ホルエムヘブ様、失礼に当たる言動は慎みください。ファラオが下がれと仰せになられたら下がるのが常識」

「構わぬ」


 彼は何を問われるか分かっているような表情を浮かべながら伸ばした長い足を組み直し、ラムセスを止めた。赤毛の忠犬は顎を引き、押し黙って一歩身を引く。


「申してみよ、ホルエムヘブ」


 ホルエムヘブもホルエムヘブで、部下に注意されたのが気に喰わなかったらしく一瞬表情を曇らせたが、言ってみろという彼の言葉にぱっと花を咲かせ、身を乗り出した。


「あの、ネフェルティティ様はいずこに!?」


 そういえば、ホルエムヘブはネフェルティティに想いを寄せている。

 ボンッキュッボンの三拍子を兼ね揃え、叶うならば隣に並んで立ちたくないほどの美しさを持つアイの娘はどこにいるのだろう。メンネフェルへ来てから彼女の姿は見ていない。


「ファラオと王妃がこちらにいらしてからずっと探しているのですがなかなか見つからず!!」


 きっと、ホルエムヘブは彼への挨拶の時間さえも惜しんで彼女を探していたに違いない。

 そわそわしながら辺りを再度見回す将軍に、彼は肩を揺らした。


「残念だな、あれは上エジプトに残っている。テーベにいち早く赴き、男を探すそうだぞ」

「お、男」

「テーベの方が好みの男がいるようだ。言っておくがあの者はお前に一つも興味はない。面と向かって言われる前に諦めるべきだと思うが」


 ホルエムヘブが彼女に好意を抱いていると知っていてそんなことを言うなんて、少しやり過ぎではないだろうか。


「左様ですか……」


 あからさまにがっくりと肩を落としたホルエムヘブはよろよろと立ち上がり、私たちの前からラムセスを連れて去っていった。


「何だか可哀想に見えてくるわ」


 去り際の背中が寂しそうで思わずそう零した私に、隣の彼は鼻を鳴らす。


「あれだけ言っておかなければあの者は調子に乗る。もっと言ってもいいくらいだ」


 確かに調子に乗る人種であるのは間違いない。


「でも、あれだけ言って恨まれたりなんてしたら」


 他人の何気ない一言を根に持つ人間もいる。ただでさえ殺人という可能性が消えた訳ではないのだから、恨みを買うようなことを無暗にしてほしくはなかった。


「案ずるな。あとはラムセスが何とかしてくれるはずだ。ホルエムヘブにそれとなく言葉をかけて動かすのが上手い。それがあの者の才だからな」


 彼は、それにと付け足す。


「私はあのような者に命をとられるほど落ちぶれてはおらぬぞ」


 彼の軽い笑いに、それもそうだと小さく頷いて息をついた。彼が簡単にやられてしまうような人間だったならば、今こうして私の隣にはいない。随分と前に命を落としている。


「ヒロコは色々と心配し過ぎなのだ」


 これくらいではないとやっていられないのだ。


 私が言い返す前に彼は立ち上がり、いつもと同様にその片腕を高々と掲げ、静寂を我が物とする。一つの仕草で誰もの視線を集める彼の生まれ持った素質にはいつもながら感服する。

 そして声高らかに発すのだ。


「歌え、踊れ!今まで葬られてきた神々のため、祝福を天に掲げよ!」


 それからはいつも同じ。私たちが部屋へと下がっても、彼が言った通り誰もが朝が来るまでそこで飲み、歌い、踊り明かす。その場で寝て、ラーが現れてからようやくそれぞれの家へ帰っていくのだ。








 陽が部屋の中に伸びて、瞼に遮られた私の瞳に届く。その眩しさに夢から引き出され、目を開ければ、いつもの太陽が部屋に零れて私の視界を横切っていった。

 耳を澄ませると、昨夜の賑やかさが幻に思えるほどの静けさがあたりに満ち、心地よい空気が私を包んでいた。


「朝……」


 視界を横切って垂れる自分の黒髪の線を払い、また閉じそうになる瞼をどうにか持ち堪え、背後に視線を送った。さほど視界を動かさなくとも、規則正しく肩を上下させる彼が見えた。

 こちらの身体に巻き付いたままの相手の腕をずらすと、二本の腕は私と彼の間の麻へと緩やかに滑り落ち、無雑作に沈んでいく。その様子を横目に見ながら身体を起こして朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。大きく背伸びをしていたら、下に落ちたはずの腕が突然私を絡め取って寝具の中に引き込んだ。

 驚きながらも、私の口からは咄嗟に笑い声が漏れる。今では慣れた驚きだ。私を抱き込む腕の主の方へ身体を向けて、髪を撫でながら「起きて」と囁きかけた。焦げ茶は普段より柔らかい。さらりと私の指をすり抜けていった。


「朝よ」


 呼びかけに眉が僅かに動いて瞼が開き、淡褐色がうっすらと覗く。彼は麻に髪を擦らせて頭を動かし、部屋に伸びている金色に目を細める。そこに小さく灯ったラーの黄金が好きだ。


「……眠い」


 吐息交じりの、甘さが見え隠れする声が囁かれたと思えば、私の首筋に顔を埋めて彼は再び眠りにつこうとする。


「朝議は無いの?」


 あるならば無理にでも起こさなければならない。ファラオがそれに遅れたら威厳も減ったくれもなくなってしまう。そう思って身体を離そうとするのに、絡む腕の力は増すばかりだ。


「無い」


 短い返事と共に強く抱き締められて、まるで抱き枕のような状態になる。それでもこのままでいる訳にもいかず、どうにか起こそうとその人の肩に手を回して軽く叩いた。


「儀式は?」


 アケトアテンの日常と何よりも大きく変わったと言えるのは儀式の回数だった。都を遷す前は、唯一神アテンしか奉っておらず、儀式は月に1回ある程度だったのに対し、アメンに戻ってからは多神教に戻ったこともあり、週に3回の頻度になっている。

 多くの神々がいるのにも関わらず、個別で儀式を行わなければならないからまた忙しい。そのたびに重い冠を被り、化粧を施して神殿に向かって長ったらしい神官たちの歌を聴く。

 私としては毎回面倒だと感じることがあっても、彼やこの時代の人々にとってはこの国の命運がかかっていると信じる大事なものである訳だから本音は言わずに胸の内に留めたままだ。

 アメン信仰が本格的に復活してからというもの、彼の父親であるアクエンアテンが一神教を唱えた気持ちが分かった気がした。

 私のように単純ではなかっただろうけれど、面倒だったのだと思う。実際、彼は何度もある儀式と政務に駆り立てられ、なかなか忙しい毎日を送っていた。


「ねえ、儀式があるなら着替えなくちゃ」


 いつ儀式を行うかは星の並びで決まるそうで、星なんて読めない私は彼やナルメルたちに聞かなければならない。いきなり儀式だと言われて慌てることもしばしば。ただでさえ私の着替えは時間がかかるため、彼より先に準備を始めつ必要があった。


「ねえ、アンク」


 小さく唸り、彼がやっと顔を上げた。やっぱり眠そうな顔は変わらない。昨日のお酒がまだ残っているのかもしれない。


「だから言っているだろう。今日は何も無い」

「そうなの?珍しい」


 近付いた相手の頬を無意識に撫でると、彼は気持ちよさそうに頬を摺り寄せてくる。こういう時ばかりは、人懐っこい動物のようだ。


「……故にヒロコを北へ連れて行こうかと思っていた」


 後ろに流れる私の髪を梳き、吐息を漏らす。


「北?」


 欠伸を零しながら彼は頷いた。


「狩りをしに?」

「いや」


 珍しい、と目が瞬く。

 私を連れていくと言えば毎回狩りで、チャリオットという馬備え付けの戦車で動物を追いかけることが多い。


「狩りだと私が獲物を狙うたび可哀想だ、必要以上狩るなとヒロコがうるさいからな。そもそもヒロコのためと思って狩ったというのに何故悲鳴を上げられなければならぬのか分からぬ」


 自分の前髪を掻き揚げる彼の唇から、大きなため息が漏れた。

 狩りに連れて行ってもらったのはいいものの、カバやら鰐やら、大きな動物ばかりを複数人で一斉に、それも見境なしに狙うものだから、そこまで無闇に狩るものではないと意見したのもつい最近のことだ。聞いたことのない痛々しい動物の悲鳴は、慣れない私には聞くに堪えない。

 それも意見するだけにとどまらず動物の血だらけの死体を目の前に持ってこられたのにも驚いて、思わず「いらない」と拒んでしまった。

 私の生まれた時代とは感覚が違うと理解していても、現代では保護対象の動物をばっさばっさ切り捨てたり、槍を突き立てたり、ブーメランで射落とす光景を目の前にするのは、あまりいい気分ではない。

 そんな私に対して、彼は困惑気味で、一緒に狩りをしていたラムセスも呆れ気味で意味が分からないと繰り返していた。


「早く見せたい」


 俯く私の輪郭に指がそろりと走り、それがくすぐったくて顔を上げると柔らかい表情がある。何度も目にしてきたのに、未だに見惚れることがある。


「きっと驚く」


 そんなに言われると気になって仕方なくなって、何を見せてくれるのだろうと期待ばかりが大きくなっていく。


「そんなに?」

「目玉が飛び出る」

「北に何があるの?」


 楽しげに口元に弧を描き、彼はまた私に顔を寄せた。

 私の前髪を掻き揚げて、額に唇を落とす。教えてくれと頼めば柔らかさを纏った笑みを浮かべて瞼を閉じる。


「まだ教えぬ」


 ほとんど息を吐くついでに出されたような言葉と共に、彼は私の肩口に顔を埋めるようにして再び寝息を立て始めた。こうなると何を言っても反応はしてくれない。

 このまま私も寝てしまおうかと考えるも、一旦目が覚めたら二度寝は難しい。儀式がないのなら、こんな自由な時間を過ごせる朝は滅多にない。やりたいことをやるならば今だ。


「ネチェル」


 どうにかこうにか彼の腕を退けて身体を起こし、隣の部屋に控えているであろう侍女を呼んだ。

 隣の部屋に聞こえるかどうか分からないくらいの声量で呼んだとしても、ネチェルと他の侍女たちは待ってましたと言わんばかりに素早く現れる。


「お目覚めですか」

「ええ。すぐに着替えたいの。あと問題なかったらナルメルも呼んでもらえる?」


 私の頼みに侍女たちがそれぞれに役割分担をしながら動き出した。あっという間に着替えは終わり、簡単な化粧を施す。そんな間も彼は爆睡したままだ。


「朝食は彼と一緒にとります。それまで寝かせておいてあげて。彼が起きたら教えてちょうだい」

「その様に致しましょう」


 儀式の時に身に纏うものとは違った普段着はとても身軽で気持ちがいい。朝にこんなに時間があるのは久々だ。


「王妃様、宰相殿がいらっしゃいました」


 侍女の一言に、ネチェルと共に部屋を出ると、ナルメルが微笑んで待っていた。


「おはようございます、王妃」


 相手の姿に忙しくなかっただろうかと心配になる。いくら朝で時間があっても、宰相にも色々と仕事があるだろうに。


「ナルメル、来てくれてありがとう。でも大丈夫だった?忙しくはない?」

「問題は御座いません」

「よかった、文字を教えてほしいの」

「喜んでお受けいたしましょう。さあ、こちらへ」


 笑顔で促してくれる宰相の隣について歩き、今日教えてほしいことをあれもこれもと並べて伝えていく。そんな私の要求にナルメルは嫌な顔一つせずに、順を追って教えてくれる。


 王妃になってまず最初に断然足りないと感じたのは、知識だった。王家のしきたりはおろか、ただでさえ歴史に興味を持ってこなかった私はこの時代や、世界についての知識があまりにもない。無知に等しかった。

 文字も読めなければ示しがつかない。王族として他国とやり取りをするのに言語が話せなければ意味がない。民がどのように生活を営み、どのような仕事をして家庭を支えているか。外国との関係はどうなっているのか。今の国の現状を理解し、王妃として少しでも王である彼の支えにならなければならなかった。


 そうして一通り今日の分を学び終えた頃に、侍女から彼が起きたとの知らせが来た。


「どこへ行っていたのだ」


 私がナルメルをつれて部屋に戻るなり、すでに起きて着替えを済ませていた彼は不機嫌そうに言った。


「ナルメルに文字を教えてもらっていたのよ。王妃になったのだもの、自分の国の文字も読めないなんて笑えないでしょう?あと、近隣諸国の言葉や国のことも勉強し始めたの。まだまだ知らないことが沢山あるわ」


 ネチェルからアラバスタ―制の白い香油壺を受け取りつつ、相手に歩み寄る。


「我が妃は夫を放り出してまで勉強熱心ときている。ナルメルも全部教えようとするな。私が教えるものがなくなってしまう」


 言われたナルメルは朗らかに笑った。


「そうですな。その様にいたしましょう」


 椅子に腰かける彼に腕輪を付け、香油を塗り始めた頃、イパイが部屋に「失礼いたします」と小さな足音を立ててやってきた。


「ファラオ、王妃様、おはようございます。今日もよいお天気ですね!」


 相変わらずこの年齢でしっかり仕事をこなしているのに感心しながら、おはようと返して彼の肩に香油を伸ばしていく。


「イパ、どこぞから書簡でも来たのか?」

「はい!ヒッタイトからの使者、およびテーベにいる兄より書簡が参りました」


 その子は右手に持っていたパピルスを持って彼の足元に跪いて答える。

 隣国ヒッタイトと、テーベに行っているセテムからの書簡。何が書かれているのだろうと気になって耳を澄ませた。


「ヒッタイトものから読め」


 はいと微笑み、幼い子は小さな手でパピルスを慣れた手つきで開く。


「ヒッタイト王シュッピルリウマ殿は、テーベの婚儀に御自らいらっしゃるようです」


 テーベを都とした際に、正式に私たちは夫婦になる。各国の王族を招待し、これが王と王妃だと示すという意義もあると言う。


「あの老いぼれ、自ら来るか」


 ほう、と珍しく彼は少々驚き気味だった。好奇心が先だって、目がらんらんと輝き出している。

 ヒッタイトのシュッピルリウマ王。ヒッタイトという国をエジプトを脅かすほどの大国とした大王と呼ばれる人だというのは以前に書物で読んだ。その大王の話をするたび彼は老いぼれと言うけれど、そんなに年老いた方なのだろうか。


「皇太子が来るかと思っていたのだがな。まさか自ら赴くとは思い切ったことをしてくれる」

「はい、国王自ら祝いたいと仰せになっているらしく」


 彼が頷いたのを機に、私は手を止めた。


「王自身が来るってそんなに珍しいことなの?」


 てっきり来賓は王自らが来るのが普通だと思っていたから、彼の反応が意外だった。


「本来ならば王子や大臣、宰相などの使者を遣わす。王が自ら出かけて、国や王自身に何かあればただでは済まぬからな。王自身が来ることは、ある意味安心して任せるという信頼の証でもある。ヒッタイトとは何とも言えぬ絶妙な関係で繋がっている故、余計意外なのだ。まあ、あの老いぼれならやりそうだが」


 私も彼と同じように、ほう、と頷いた。

 あちらは無防備で敵の中に入ってくるようなものだから、それを気にせず来ると言うヒッタイトは「エジプトを信頼しているぞ」と念を押しているのと同じなのだ。裏切るまいな、という無言の圧力が掛けられているようにも感じた。


「でもファラオ」


 イパのきらきらとした声が彼を呼んだ。


「我が国の素晴らしさを見せる良い機会です!国王が来るとなればヒッタイト人も多くこの国に足を踏み入れましょう。盛大に儀を執り行って、我が国の素晴らしさをヒッタイトに見せつけてやりましょう!」


 イパは興奮気味で腕をぶんぶん振って熱弁を始める。


「あちらの文献にエジプトの素晴らしさを書かざるを得なくしてやるんです!」

「言われなくともそのつもりだ。案ずるな、イパ」


 彼は得意げに笑って頷き、肘掛けに肘を立てる。


「我がナイル、赤き砂漠をあの眼に焼き付けさせなければならぬな。テーベでの祝賀は何よりも素晴らしいものとしよう。返事はお前からしておけ。心よりお待ちしていると」


 香油が塗り終わって、侍女から渡された首飾りを私が彼の首元に付け始めると、イパはもう一つのパピルスを開いた。


「で、セテムは何と言ってきている」


 長めのパピルスを開き、そのくるりとした目をざっと素早く動かし始めた。すぐに内容を把握して、にっこりと微笑み、小さな側近は口を開く。


「先代と先々代の王墓の修復が終わったとのことに御座います」


 反アテン派の人々に荒らされた王墓の修復が終わった。改革のために犠牲となり、アメンを没し他の神を崇めていたということで、民から『異端者』と呼ばれている彼の父と兄。今回の改革の中で、彼が最も苦しんだ一件でもある。


「仰せになられた通り、事は進められたようです」


 彼は表情一つ変えることなく、うむと頷くだけだった。

 覚悟していたのだ。父と兄のお墓を荒らした相手を憎まず、定めだったと受け入れるこの人の強さをひしひしと感じた。

 二人の遺体は身元を隠され、密やかに眠り続けることになるのだろう。


「他は」

「テーベのご報告です。そろそろ王宮神殿等の建設も進んだため、一度ファラオに来て見ていただきたいとのことです」


 足を組み、悩むように顎に手をやってから、彼はまだ幼い側近を見やった。


「修復の詳細はあるか」

「民の手を借り、今のところ予定通り進んでいるとの知らせです。もしかすれば早まるかもしれませんね」


 メンネフェルに来てかれこれ3か月が経つ。ここを都とするのは予定では半年の間だから、予定通りいけばあと数ヶ月でこの緑の都を離れることになる。


「書簡の内容は以上です。これについての議会はいつにいたしましょう?」


 まだ小学生の年齢のはずなのに、口から出てくる言葉はセテムにそっくりだ。

 ただ、語尾に可愛らしく首を傾げる姿は似ても似つかないというか、逆にセテムがやったら奇妙なくらいだ。セテムが同じ仕草をする想像したら噴き出してしまいそうになった。


「今日の外出から戻ってからでも間に合うだろう。ナルメル、そのように計らえ」

「仰せのままに」


 答えたナルメルを遮るように、イパは輝かんばかりの表情を向けてきた。


「もしかして、王妃様とどこかへ行かれるんですか?楽しいところ?僕も行きたいなあ」


 どこへ行くのと、せがむように尋ねるイパの頭を撫で、彼は椅子から立ち上がる。自信に満ちた笑顔を口元に浮かべた表情を私にずいと見せてきた。


「北へ行く」


 私から受け取るのは、侍女から渡された外出用の上着だ。


「陽が昇り、陽が没する処へ」


 その大きな手で自ら羽織ると、一歩を大きく踏み出した。


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