アマルナの地
* * * * *
夕暮れさえ終わりそうな夜の闇を纏い始めた空と、茶色がかった燃える広大な砂漠が向こうの地平線で合わさって、幻想的な世界を創り出していた。昼間はあれだけ暑いのに、陽が落ち始めた今では肌寒く感じられる。
──ここだ。
ルクソールよりもカイロよりも、寂しさを湛えるこの場所に。王家の谷と似た雰囲気を持つ、過去の繁栄が消え失せた砂埃舞うこの地に、何かを感じる。
「お嬢ちゃん、アマルナのどこに行きたいんだい?」
結局3時間以上車を走らせてくれていたタクシーの運転手は、アマルナの地をフロントガラス越しにきょろきょろと見回して私に尋ねた。
「アマルナは広いからなあ。巡回できる有料バスもこの時間じゃ終わってるだろうし、行きたいところを言ってくれさえすればそこまで乗せて行ってやるよ」
タクシー備え付けの時計はすでに17時過ぎを指していた。観光客どころか人っ子一人見当たらないこの時間帯では、確かにバスなんてもう終わってしまっている。
「いやあ、俺も久しぶりに来たよ、異端の地。異端だからこそ人々が寄り付かなくて皮肉にもこれだけの遺跡が残ったって言われてるが……」
「どんな遺跡があるんですか」
助手席のシートに手をやって身を乗り出した。
アマルナはあまり来たことがないから詳しいことは分からないが、所々に見える石が積みあがった神殿跡らしきものや、欠けた像の保存状態はかなり良いと思える。
「そうだなあ」
男性は眉間に皺を寄せ、髭をいじりながら首を傾げた。
「人気なのはアクエンアテン王墓かな。でも今は多分閉まってるよ」
違う。そこじゃない。
「一番保存状態が良くて次に人気なのは北の宮殿、その南にある大宮殿、南北の岩窟墳墓群……もっと行けばアクエンアテンの時代の高級神官とか大司祭とか、警察長官の墓があるはずだが」
違う。どれも違う。どこに行けばいい。
微かに聞こえる声に耳を澄ませる。
私を呼ぶあなたはどこにいるの。どこで、私を呼んでいるの。
自分を抱きしめるように、腕を回して羽織ったパーカーを握りしめた。苦しくて、身を屈めた状態で頭を巡らす。
私の呼ぶ声の、主のいる場所。おそらくそこが、私の行きたい場所なのだ。
「お嬢ちゃん?顔色が悪いぞ、大丈夫か」
巡らす中に私を心配する声が入ってくる。
ここに来るまで、何度その声色で呼び掛けられたか分からない。
「今日はもう遅いから散策やめて病院に行った方がいい。このまま連れて行ってやろうか」
「……大神殿」
突然思い出したように私の口が呟いた。
「え?」
頭に浮かんだ単語を抱き、私は運転手の方に顔を上げる。相手の顔は、心配と当惑が混じって揺れていた。
「大神殿は……どこに、ありますか」
大神殿なんて、そんなものの存在さえ、私は知らないはずなのに。胸が騒ぎ出す。怖いくらいに。
「あ……ああ、あるよ。他よりは保存状態が悪いが結構近い場所に」
「そこへ、大神殿跡へ、お願いします」
男性は私の様子に戸惑いながらも、再びアクセルを踏み、私を乗せたタクシーはタイヤで地面から粉塵を巻き上げて走り出した。
タクシーを降りた頃には、闇が砂漠を侵し始めていた。
燃える赤い大地が夜の闇に埋もれ、群青に染まっていく。瓦礫に埋もれた大神殿跡では、四角の中くらいの黄土色の石たちが積み重なっては、夕方の風に吹かれていた。そこに一人、私は佇んでいる。
誰もいない。本来なら管理人たちが警備に回っているはずなのに、誰も。
聞こえるのは風と砂の音。砂漠の粒が足元を舞う。舞ってはまた落ちて、流れていく。風と砂のうねりの向こう側に響くノイズ。耳を澄まし、その音を拾おうと必死になる。
『──コ』
ああ、呼んでいる。私を呼び続けている。この瓦礫と化した大神殿の廃墟のどこかで。
「どこに……」
声の主の姿を求めて、不安定な足を動かす。その足取りが砂漠の風に埋もれていく。私の影が、幻想的に伸びていき、瓦礫のいくつかにかかって長い闇を作り出す。
「どこに、いるの」
何度あたりを見渡しても、何度尋ねても、遺跡の影が静かに濃さを増していくだけ。太陽が砂漠の地平線に消えていき、赤い大地から黒い大地へと世界が変わっていく。
誰も、いない。この寂しい世界に、私だけ。
「誰……」
辛い。苦しい。
「あなたは誰!」
唯一形が残された階段に足を乗せて、声の主に声を荒げて問い掛ける。
どこにいるの。どこで私を呼んでいるの。私では、あなたを見つけられない。それがあまりにも苦しい。
泣き出しそうになりながら、大神殿の片隅の廃れた柱まで歩んだ。
一辺20メートルはある大きな四角の空間。昔は屋根を支えていたであろう、柱の残骸の波打つ文様に手を置いて、再度当たりを見回した。昔は聳え立っていたと思われる壁はなくなり、今はその名残である土台しかない。吹き抜ける砂を混ぜた風が、乱れた私の髪を巻き込んでは行方を眩ます。
『──ヒ、……コ 』
聞こえるのに姿が無い。近くにいるはずなのに、何か大きな壁で遮られてしまっているよう。深い霧にでも隠されてしまっているようだ。
「どこにいるの!!」
こだまするのは自分の声だけ。聞こえていた声は、さっきよりもずっと弱くなってもう言葉になっていない。微かに耳になる程度で、今にも風と共に消えてしまいそう。
嫌だ。お願い、消えないで。もし消えてしまえば、私はどうすればいいのか分からない。心が引き裂かれてしまいそう。泣き喚いてしまいそう。
『――ヒロコ』
祈りにも似た声音に、俯きかけた顔を上げた。
神殿の中心。誰もいない、砂埃が舞う遺跡の上。私の足はよろよろとそこに向かって歩き出す。
私を呼ぶあなたはそこにいるのだろうか。何もない神殿の中心に、腕が急いで身体の前に伸びる。
答えてほしい。返事を聞かせて。
「弘子っ!!!」
声が私の背中を叩いて弾けた途端、神殿の方に伸ばしかけた左腕が、ぐいと後ろに引かれた。声を上げる間もなく反動で足がふらつき、視界がぶれて、目指した場所が消えてしまう。
「何やってんだ、馬鹿!!」
身が怯むほどの怒声と共に私の視界を満たしたのは、夕陽のせいで陰った、良く見知った人の顔だった。
「……良、樹」
風に靡く黒い短髪に、顰められた形の良い眉。見慣れた顔に浮かぶ焦りの表情に、その人の名が口を突いて出てきた。息を切らして、くっきりとした二重の黒目に私を映している。
「弘子!!」
メアリーも後ろから髪を乱して追いついてきた。
「何でアマルナになんて一人で来たの!心配かけないでよ!!」
今にも泣きそうに顔を歪め、唇を噛んで空いた私の右腕を掴み、離すまいと縋り付く。
一体何が起こって、どうしてこの2人がここにいるのか理解できず、足先から伸びる、黒い影が3つになって揺れているのを、私は呆然と見つめていた。両側の二人の荒い呼吸だけが私の聴覚を支配する。
「……どう、して」
「お前がタクシーに乗るのを見て、慌てて追いかけてきたんだ」
私の肩に腕を回して力を込めながら良樹が答えると、メアリーも私の方に身を乗り出してきた。
「あのね、ヨシキがずっと車を飛ばしてくれたんだよ。アマルナは広いからどこに弘子がいるか分からなかったんだけど、ヨシキがここだろうって。まさかとは思ったけどここに本当にいるなんて……会えて良かった」
良樹とメアリーの向く方に淡く青の混じった黒色の車がある。良樹の車だ。
「アマルナの大神殿跡……」
良樹が、背後の遺跡を睨み付けるような視線を向けて呟いた。
「弘子が倒れていた場所だ」
私も振り返り、良樹と同じところに視線を投げた。
ここが、この場所が、私が見つかった場所。
やはり何かがあるのだ。ここに、私の失った何かが。
「帰ろう」
短い、良樹が発した言葉に、びくりと背中が脈打つ。
「帰るんだ、弘子」
私の腕を握り返し、顔を覗いてはっきりとその口で告げた。
帰る。ここを離れるというのか。そうと意味を理解すると同時に、恐怖に似た感情が私の中に這うように迫る。
「やだ……!!」
二人の腕を振り払い、私は叫んでいた。
ここを離れたくない。ここを離れれば、あの声はきっと完全に聞こえなくなってしまう。離れたら、私は悲しくて生きていられない。
「弘子!」
良樹がまた私の両腕を掴む。
「馬鹿言うな!ここは駄目だ、ここにいたらお前はおかしくなる!」
「私、おかしくなんてないわ!ここにいなくちゃいけないの!家になんて帰らない!日本にも帰らない!!ここを離れたくない!」
叫んでいるうちに涙が出て来て、左右の手首に巻きついた手を振りほどこうと躍起になった。良樹とメアリーが唖然としてそんな私を見ていた。
「弘子、どうして……!?」
メアリーも泣き出しそうな顔をする。そんな表情なんてさせたくなかったのに、気持ちばかりが先走って止まらない。止められない。
「私を呼んでるの!!耳の奥で叫んでる!音にならない声が……!!ずっと!」
良樹の顔に戸惑いが浮かぶ。メアリーは何か恐ろしいものでも見るかのように目を見開いている。
「私、行かなくちゃ!呼んでいるの」
「違う!誰も呼んでなんかない!目を覚ませ、弘子!」
私の目線に身を屈めた良樹が、浮かんできた何かを振り払うかのように首を横に振って私の震える声を否定した。
「それは耳鳴りだ。お前はまだ本調子じゃないんだ」
「違う!!」
良樹に叫んで涙ながらに訴えた。
耳鳴りでも、空耳でもない。
「あの人が、呼んでるの!ずっと、ずっと遠くで!」
私を抱き寄せて抑えこもうとする良樹の胸を押しやって泣き叫ぶ。足が遺跡を擦れるごとに、限りなく夜に近づくアマルナの地に小さな砂塵が舞った。
「行かせて……!私を行かせて!!」
途端に、良樹に強く抱き込まれた。背骨が軋んでしまうほどの強さに、声が喉から途絶えた。
「行かせない!どこにも!!」
行かせてほしいのに。離してほしいのに。
このままでは声は完全に聞こえなくなってしまう。もう、会うことは叶わなくなる。
「何が何でも家に連れて帰る!日本に帰るんだ!」
私を無理に抑えこんで、抱き締めたままの体勢で良樹は車のある方へと歩き出す。どんなに地面を踏みしめても、私の身体は声が聞こえた場所から遠ざかっていく。地平線に浮かぶ、微かな赤い太陽から離れていく。
「メアリー!おばさんたちに連絡しろ!弘子は見つけた、今から家に戻るからと」
「う、うん!」
もう、声も、音も聞こえない。もう、何も。
僅かに残っていた太陽が沈む。遺跡を越えたアケトアテンの地平線に。
沈みつつある太陽に、良樹のから逃れた手を伸ばした。伸ばした指先に灯っていた光が、地に吸い込まれるように消える。夕陽が沈む。
「……よ、んで」
視界に霞む太陽に私の口が動き出す。
「呼んでっ!!!」
どうか届いて。あの人に。
「弘子」
良樹の声を遮って、私は声の限り叫んだ。
「私を!呼んで──!!」
私の声の余韻と太陽がすべて沈み、砂漠の地平線が闇に包まれると同時に、突然その黒が弾けたのを見た。光が空に飛び散り、黄金の砂が舞い上がって、金色の突風が私たちを襲う。
風が私と良樹とメアリーの髪を巻き込み、息さえできないほどの風圧をもたらした。私の長いスカートが煽られて、裾が暴れ始め、足に擦れる。手に、肌に、砂が当たる。
「弘子を離すな!」
良樹が風に耐えて叫ぶのが聞こえた。メアリーの腕が私を掴む感触があったが、そうはさせまいとするかのように吹き荒れる風はさらに強くなり、私も砂が目に入って視界を保っていられなくなる。咄嗟に視界を閉ざすと、不意を突かれたような良樹の声と、メアリーの恐怖に歪んだ悲鳴が耳を突いた。それらが私の耳を掠め、やがて消えていく。
何が、起こったのだろう。
腕と背中にあった良樹の手の感覚もいつの間にか消えて、何が起きたのか把握できず、不安だけが取り巻き、私はたまらず閉じていた瞼を思い切って開いた。
瞼を開けた向こう側は、黄金だった。
風が止み、周りを眩く粒がいくつも舞って上から下へと落ち、ある粒はゆらゆらと私の周りを漂っていた。その世界を、私はぼんやりと仰いでいる。まるで、夢の中にでもいるような光景だった。
さっきまで私を抱きしめていた良樹も、両親に連絡を取ろうとしていたメアリーもいない。誰もいない。私一人が、輝きに満ちる黄金の中に佇んでいる。
輝いていても、空しさが取り巻いていて寂しい場所だった。佇むしか術を知らない私は、どうしたらいいか分からず、何をする訳でもなく、きらきらと舞い降りる黄金の行く先を目で追っていた。
手を出せば、その上に煌めく粒が落ちていく。落ちて、当たって、散るたびに、私の中にふつふつと何かが甦り、鮮明な絵を、映像を、脳裏に川のように流し込んでいく。
気高く聳え並ぶ、いくつもの柱。肺を満たす、澄んだ空気。排気ガスを一切含まない清々しい風。遥かな、透明な星々。くすむことを知らない、ラーの名を持つ偉大な太陽。
ああ、そうだ。私は前もここに来た。
胸に沁み込んでくるように、多くのことが流れ込んでくる。
8月のあの日、KV62で私はさっきと同じ声を聞き、この川の中に来たのだ。私が今立っている黄金の川、この向こうにあったのは。広がっていたのは。
──3300年前の古代エジプト。
濁流のようにすべてが私の中に湧き上がってくる。水しぶきで夢から覚めたように、何か固いもので後頭部を叩かれたように、私は固まって、自分の手に落ちる黄金を食い入るように見つめていた。
失われた記憶の中、私が1年間過ごしていた世界は、時をずっと遡った先にある古代。そこで私はあの人に出会って、恋をした。
私をアンケセナーメンと呼んだ、第18王朝悲劇の少年王の名を持つツタンカーメン、あの人に。
自分の中に流れ込んでくる何もかもに驚きと懐かしさと愛しさが溢れ出して、知らず知らずのうちに涙が私の頬を濡らした。
『──ヒロコ』
ああ。向こうだ。この黄金の川の先から、あの声が聞こえる。私が恋をした、あの人の声が。
私は知っている。どうして私を呼ぶその人の声がこんなにも苦しげなのか。
思い出す。彼が私を蛇から救ってくれたことを。私の代わりに蛇に噛まれ、今も苦しんでいることを。
パーカーのポケットに入れていた手離せなかった白い錠剤を取り出し、握って感触を確かめると、一粒の涙が落ちた。
「……ア」
名を口にしようとしたら、一層涙が溢れて止まらなくなる。声が喉で滞ってしまう。顔で両手を覆うほど、雫がとめどなく落ちて、掌が冷たさに埋もれていくのを見つつ、固まっていた足を自然と動かし始める。
行かなければ。帰らなければ。私しか、彼を救えない。
どうしてこんな大切な記憶を失くしていたのだろう。どうしてあんなに大切な想いを、人たちを忘れていたのだろう。
歩みが早まり、気が付けば私は黄金の中を駆けていた。髪が私の視界に黒い線を落とそうとも、声の主の元へ行こうと闇雲に。
走る中で、ふと、両親の微笑みが脳裏を横切った。一端横切ったら、それは私の足を引き留める。
力いっぱい抱きしめて、髪を梳かしてくれた母。私を守ると頭を撫でて、好きな考古学を捨てようとした父。何度も何度も私の存在を確かめるように振り返り、心配を秘めた弱々しい笑みを向けて出かけて行った二人の姿。
駆けていた足の速度が落ちた。黄金の中に立ち止まり、私は来た道を振り返る。
白い光があった。あそこが現代、21世紀なのだろう。そしてその反対側。声が微かに鳴る方。あの出口が見えない黄金の先が、古代に繋がっている。3300年前のエジプトへ。
その間にして、この黄金の川は今、私に決断を迫っているのだと悟った。現代か。古代か。突きつけられた決断に、私の身は固まった。
どうする。拳を握りしめ、二つの出口を見比べ、それから目を伏せる。
ここならまだ、両親の元に帰ることが出来るだろう。でもここで戻ってしまったら、過去に生きる彼は私のために噛まれた蛇の毒で命を落としてしまう。
現代を選べば、もう彼に会うことは無いかもしれない。夢だったのだとそれで納得して、私は出会った人々を忘れて行くかもしれない。現代で私が何も思い出せなかったように。
どちらが大事か。どちらが好きか。──馬鹿らしい。どちらも掛け替えのない大切な人たちだ。
現代の両親も良樹もメアリーも、古代の彼も側近も将軍も、エジプトも、誰もが、何もかもが、愛おしい。
右手に握った6つの錠剤を見つめる。古代に生きる彼は今、苦しんでいる。そして今もまだ、私を呼んでいる。胸がどうしようもなく苦しくなるほどに。
彼の命を救えるのは、この命の繋ぎ目となりうる薬を手に持って、現代を捨てるという選択肢を持った私だけ。私ならば、この手で彼を助けられる。この手で、彼を苦しみから救い出せる。今まで、私を支えてくれていたあの人を。
私は何故古代に行くことができたのか。それはこうしている今も分からない。ただ彼が私に言ってくれたように、「神が許してくれた」ことであるのならば。
──そして何より、この手で、救えるのならば。
見える現代への白い光を背にし、私は再び重くなった足を浮かせ、一歩、古代の方へと踏み出した。すると待っていたと言わんばかりに、風が後ろから大きく吹き上がった。
3300年前。古代という時の中であなたは私を呼んだ。その声は未来に生きる私に届き、あの時も今も、私は同じ時空の川を目の前にしている。
太陽と砂漠が最も輝きを放った国へと続く川。足が、爪先が、腕が、指先が、現代への扉を背にし、古代へと続く黄金に進み出す。最初からその道を知っていたかのように。
きっと、知っていたのだ。私の心が、魂が、私の行くべき場所を、生きるべき場所を、知っていた。だから私の口を身体を動かしていた。日本に帰ると聞いて泣いたのも。エジプトを出たくないと叫んだのも。あの夏の日、意志に反し、彼の声に応えたのも。すべて、私の中に理由があった。すべては己の中に。
大きく風がうねりをあげて私の身体を浮かせた。
また、流される。決断を知った何かが、私を望む方へと流そうとしている。この時空を、悠久の時を刻む時の川を越えるために。後ろへと遠ざかっていく生まれた故郷への想いを振り払わせるように。
流されながら、両親を想った。黄金の世界に、私の青い涙が散る。散って、光の中に消えていく。
何度謝っても足りることはない。私がいなくなったことを悲しむだろう。泣いて、苦しむに違いない。
大好きだ。愛している。こんな言葉一つでは言い表せないくらいの感謝も言い尽くせないほどある。
忘れた訳ではない。たくさんの人から受けた愛を、優しく見つめ、支えてくれた温かさを、忘れた訳ではない。
それでも身体が、心が、私の何もかもが彼を求めている。彼の名を魂が呼んでいる。私の中の何かが私に行けと言う。彼へと続く道をただ必死に行こうと、貫こうとしている。
あの命溢れる世界に戻りたい。偉大なる、神の住まう国へ。その国を治めるあの黄金の人のもとへ。
私の生きる場所は、私の居場所は、この黄金の向こう側。
意志を固めるほどに、帰りたいと願うほどに、黄金の川の流れが増していく。あの時と同じように私を古代へと流していく。
ナイルよ。
黄金のナイルよ。どうか、私を連れて行って。あの人の元へ連れて行って。もう一度、私を彼のもとへ。
眩く光が私の髪を舞い上げた先、黄金に映える白い光の中。
あの人が、いた。
『──戻れ、ヒロコ』
祈るように俯く、私の愛したあの人が。
ずっと、私を呼んでいた。掠れて、支えられてやっとのその身体で。ずっと。
ならば今度は私が呼び返そう。この喉を引き裂くほどの声で。金色の世界を蹴って。両手を広げ、愛しい、たった一つのあなたの名を。エジプトに相応しい黄金を秘めた淡褐色の瞳を持つ、悲劇の少年王、あなたの名を。
「アンク!」
割れた呼び声に、彼が顔を上げ、その淡褐色が私を捉えた。
私を取り巻く光と同じ色の腕輪がはめられた、褐色の腕を広げてくれる。
金色と白光から飛び出して、涙が周りに散るのを視界の端に捉えながら、私は真っ直ぐ両腕を広げるその人の上に落ち、褐色の腕は私をしかと抱きとめた。
落ちた衝撃でよろめき、そのまま後ろに倒れるように床に座り込む。それでも彼は私を離すまいと強く抱き込んだ。熱い息が耳元を掠める。
最後の雫が目尻から零れ、頬を伝うのを感じながらその人の首に回した腕に力を籠めると、掠れ気味の声が鳴った。
「……ヒロコ」
ずっと耳の奥で鳴り続けていた声が今、私の耳元に聞こえる。3300年の時を越えた。そうと知ったら、大きな嗚咽が堰を切ったように込み上げてきて、彼の首筋に顔を埋め、私はただ必死にその人にしがみ付いた。
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