歴史の中

 乱れた息を整えながら、からからに乾いた唇をきゅっと閉じる。時間が経つにつれて、四隅に4つの炎が大きく揺れ、煙を薄く充満させている様子が暗闇の中にぼんやりと浮かんできた。

 聳え立つアテンの巨像。何一つ欠けることなく上の天井を支え、文様が波打つ沢山の円柱。空しさの欠片も無い、目に見えぬ威光を放つ壁画たち。

 周りを囲むものらを見て、ここがアマルナの大神殿跡の3300年前の姿だと知った。

 天井にあった視線を下ろして行けば、橙に揺れる明りの中にいくつもの影が漂っている。──人影だ。

 現代の光に慣れてしまった目をどうにか凝らしてみると、沢山の驚愕の眼差しが私に向けられているのに気付いた。

 誰かがいる。私を抱きしめたままのこの人以外に、誰がいるのだろう。


「……姫君」


 しじまの中に誰のものとも分からない声がぽつりと落ちた。人影のある方向からだった。


「姫君!」

「姫君が、戻られた!!」


 感情が押しあがって、抑揚が上へと駆け上がったような声が突如弾けた。声と言うよりは、叫びと言った方が正しいかもしれない。


「神々の国より再び我らがもとへお帰りになられた!」

「ファラオの仰った通りだった!」

「祈ればお戻りになられると!」

「なんとめでたきことか!!」


 わっと声の束が神殿中に鳴り響く。それはもう、天地が轟く歓声とはこれを言うのだろうと思わせるほどに。どこから飛んでくる声なのか分からなくさせるくらいに反響し、私の胸は大きく打ち震えた。

 しっとりとした古代の暗闇に不似合の、すべてを揺り動かす響きを全身で感じて、戻ってきたという確信がますます強くなる。

 ここは古代。彼の生きる時代。私がいた、場所。


「姫君っ!」


 私の方へとあの癖毛を持った人が満面の笑みで駆けてきた。陽気な足音は聞き慣れたもので、懐かしささえ覚える。


「カーメス!」


 その名を呼んだら、将軍の後ろからまた別の人が駆けてきて、私の前に颯爽と現れた。彼に忠誠を誓った第一の側近の姿だ。


「セテム!」

「姫、よくぞお戻りに……!」


 いつも無表情の顔には、この時ばかりは安心を湛えた朗らかな笑みが滲んでいる。


「よくぞ、よくぞお帰りくださった。我らが姫君よ」


 杖を床に突き、タンと音を鳴らしながら、白い髭を撫でる長身の老人が私に近づくなり深々と頭を下げた。


「ナルメル!」


 興奮と共に目尻に涙が滲む。


「外では女官たちが姫君のお帰りを今か今かと心待ちにしておりますよ」


 カーメスの言葉に、ネチェルたちの顔が頭の中に次々と浮かんでくる。

 戻ってきた。古代に戻って来られた。皆、古代で私を支えてくれていた人たち。忘れていた記憶の中にいた大切な人たちだ。どうしようもない感情に飲み込まれて、また目頭が熱を持ち始める。


「姫君が甦られた時と同じにせよとファラオが仰せになり、この場所を設けました。この神殿、そしてこの位置。すべてに何かがあるのやもしれませぬな」


 にっこりとした宰相の言葉に頷きながら、もう一度注意深く見渡してみる。

 多くの兵士や神官が円を描くように立ち並び、私を抱きしめたままの王が神殿の中心に立っている。

 時間帯は違えども、この風景を私は知っている。1年も前、初めて私がここに来た時と同じ光景。同じ建物、同じ配置。違うのは太陽とアンケセナーメンの棺がないところだけ。すべてを悟るや否や、感動が押し寄せてきた。

 私を受け止めたこの人は、私が戻ってくることを願ってくれていたのだと。遥か時空の向こう側にいた私を呼んで、その声がまた私に届いたのだと。そう思ったら、どうにもこうにも胸が熱くなる。愛しくて、堪らなくなる。


「……ヒロコ」


 背中に回った、私を抱く腕がある。私の名前を呼んだ後に、腕を回したその肩が大きく上下するのを感じた。


「アンク」


 あなたに話したいことが沢山ある。私がどんな決意を持って時を越えたのか。何が私にそう決意させたのか。あなたに抱く想いがどれだけのものなのか。

 彼の背中に回した指先から、ぬくもりが伝わってくる。

 彼の顔を目にしたい気持ちが逸って、彼から身を離そうと身体を起こした。こんなくっついた状態では互いの顔を確かめることも出来ない。

 それでも彼の腕は緩まなかった。呼んでも返事をしてくれず、その代わりに感じたのは、私の右耳にかかる乱れた息遣いだった。瓦礫がぼろぼろと落ちていくかのように崩れた彼の呼吸に不安が募る。


「ファラオ」


 私と同じく嫌な予感を感じ取ったらしいセテムが静かな声で呼びかけると、私の身体を覆っていた彼の腕から、ふっと力が抜けた。

 その身体が私と一緒にぐらりと揺れ、褐色の腕がだらりと私の身体を伝うように落ちていき、咄嗟に支えるように腕を回した私の方へ、彼が崩れ落ちた。


「アンク!!」


 気づいた時には、呼吸をまばらに響かせた彼が、私にぐったりと寄りかかっている状態で、血の気が引いた。悲鳴に似た私の声と共に、セテムやカーメスがファラオと叫んで私たちの周りに屈みこむ。


「侍医殿をお呼びせよ!」


 ナルメルが叫ぶようにして命じた。


「お気を確かに!」


 兵士たちと共に侍医が私の方へとやってくる。駆け寄ってきて彼に触れて様子を見ると、侍医は眉を顰めた。


「やはりご無理が祟ったか」


 再会の嬉しさに彼の身体に回る蛇毒のことが頭から抜けてしまっていた。重い身体を引きずって、私を呼び返してくれたというのに。こんなになるまでずっと苦しんでいただろうに。


「再度、一から薬草を試してみましょう。……効くかは、何とも言えませぬが」


 顔を真っ青にさせた侍医とセテムやカーメスを見て、その人の容体がかなり悪いのだと知る。彼らの様子から、ありとあらゆる薬草を試して上手くいかなかったのだということも。


「お気を確かに!姫君が戻られましたぞ!」


 侍医が彼を私から離して呼びかけた時、右手の内に小さな痛みが走って、握ったままだったあの錠剤の存在を思い出した。白くて丸い、小さな6つの蛇の解毒剤。

 助けなければ。ここへ帰ってきたのは、そのためだ。


「……まずは部屋へ」


 座り込んだ姿で身を乗り出した私に、周りの視線が一気に向けられた。


「姫君」


 小さな驚きを映した表情の侍医に、私は出来るだけ落ち着いて声を発す。


「ファラオをお救いする手立てが私にはあります」


 いきなりこの錠剤を見せて、飲ませろだなどと言っても驚かれてしまうだけだ。ましてや、ミイラ職人や医師ではない私がいきなり治療をすること自体、他人から見れば言語道断だろう。ならば、もっともらしい口調と、反論を許さない声色を用いて、再び神の名を借りるのみ。


「神から承った言葉に従い、ファラオをウアジェトの毒からお救い申し上げます。これから発す私の言葉通りにして下さい」


 一瞬騒然とした周囲が、やがてごくりと息を呑む。侍医とその周りの兵士たちが頷いたのを見て、私は立ち上がった。


「まず、ファラオの部屋へお運びしてください。すべてはそれからです」







 呼吸が安定してきた彼の顔に、張っていた緊張の糸がやっとこのことで緩み始め、ほっと息をついて寝台の傍に用意された椅子に腰を下ろした。

 ずっと立ってあれやこれやと動いていたからか、身体が重い。ほぼ徹夜のせいもあって、もうすぐ夜明けの時間帯なのにも関わらず、僅かな眠気が積もり始めていた。

 眠気を払おうと顔を上げ、ぐるりと彼の香りをまとった広い部屋を見渡してみる。しんと静まり返った部屋の奥には私が使っていた小部屋の入口が侍女たちの間に微かに見えた。現代のものとは違い、固くて、少し座りづらい黄金の装飾が施された椅子と机も、パピルスを積んだ本棚も、何も変わらず、ここに存在してくれていることがどうしようもなく嬉しい。何より、彼がいることに例えようもない感情が溢れて仕方がなかった。

 高い鼻も形の良い唇も、すらりとした頬も。全部そのまま私の触れられるところにある。


「……驚きました」


 声に顔を上げれば、彼を挟んだ向かい側に立つ侍医が私の持ってきた錠剤と彼を交互に眺めながら言った。落ち着いた寝息を立てる彼を確認してから、その視線を私に向ける。


「これが神の成せる業に御座いますか」

「え、ええ」


 以前のように苦笑いで返す。現代のものは何でもかんでも神様で通すしかないが、自分の言っていることを思えば少しばかり滑稽だった。


「一体、この白く丸い薬と申すものは何で作られているのですか?姫はご存知でいらっしゃいますか?」


 この時代ならば毒蛇に噛まれて命を落とす人は少なくないだろうし、もしこの薬が大量生産することができるのなら、蛇毒による死亡率は大きく減少させることが出来るのだから医師として気になっているに違いない。だが、成分を知っていてもその成分をどこからどのように抽出出来るのかなんて、どんなに頭を捻っても私では思いつけることではなかった。


「それは冥界に帰った私に神オシリスがファラオをお救いするようにと与えてくださったものですので、私も作り方は分からなくて」

「左様ですか……無理なご質問をいたしまして、申し訳ありません」


 侍医が残念そうに微笑む様子を見て、何も答えられない自分が歯痒かった。役立つ知識を少しでも持っていれば、この時代に生きる人々の力になれただろうに。私は未来というあの時代に生きていながら、あの時代のことを何も知らない。


「やはり姫は、あの世にお帰りになられていたのですね!」


 待ってましたと言わんばかりに、後ろに控えていたカーメスの声が私に降りかかってきた。


「黄金の光が満ちた時は実に驚きました。誰もが眩しくて目をつぶっている間に、あなた様はどこかへとお姿をくらましになられていて……本当にぱっとですよ!?あっと思った時にはいなくて!どこに行かれたのかと探しても探しても見つからず!!しまいにはファラオは元の世界に行ったのだと理解しがたいことを仰せになられて、時間が経ってからもしや元の世界は冥界では思い始め!何の痕跡も見つからなかったために、やはり冥界にお帰りになられてしまったのかと我々はもう絶望のどん底に落とされて!ああ、もう!!姫がこうしていらっしゃることが嬉しくて嬉しくて!」


 このマシンガンにさえ、自然と笑みが零れる。現代で見たあの夢を思い返しても、その話す度に揺れる髪と人懐っこさそうな表情だけは変わっていない。夢で出てきた少年がそのまま身体だけ大きくなって目の前にいるようだ。


「もしや、もう二度とお戻りにはなられないのではとどれだけ!どれだけ!!心配したことか!!姫君は我々のやり場のない気持ちがお分かりですか!」


 おいおいとまたその人は私の足元に膝をついて泣き伏す。泣くとは言っても泣き真似であることは百も承知だ。


「心配させてごめんなさい。まさか私も、あそこで帰るとは思いもしなかったから」


 何故、あの場面で現代に帰れたのかは分からない。何かが自分の身に起きたことは確かだし、あの時で聞こえた『声』も気になるところだ。


「我が国の将軍たる者、姫の前でめそめそするな。見苦しい」


 泣き真似をし続けるカーメスのくせ毛をぱしっとセテムが軽く叩いた。


「しかし!しかし!セテム!」


 それでもわあわあ泣き続けるカーメスを後ろに押しやり、セテムは私の足元に跪いた。


「姫」


 セテムの目の下には、ぼんやりと黒が乗っている。随分と濃いクマだ。私がいなくなってから寝ることなく彼の傍についていたのだろうということが聞かずとも伝わってきて、この人の忠誠が身に染みるくらい感じた。


「ファラオのご容体は、いかがなのでしょうか」


 彼の容体。睫毛を落としたままの人の垂れた手を取り、顔を覗く。呼吸も安定している。表情も緩やか。熱は少し高めなくらいだから、これから薬の投与を続ければ徐々に下がっていくだろう。


「もう大丈夫。きっとすぐにでも元気になるわ」


 振り返り、セテムに微笑みかける。


「毒が残っている間は手足が痺れて思うように動かないことがあるかもしれないけれど、数日も経てばすぐに歩けるようになるはずよ。大丈夫」


 言うと、セテムの顔が一瞬泣きそうに歪むのを見た。まさか無表情が常のこの人がそんな顔をするなんて思ってもみなくて、慌ててしまう。


「……ああ、姫」


 感嘆と共に呼ぶと、セテムは私の手を取り、跪いて俯いたまま掠れた声で続けた。


「我ら一同、あなた様が再び我らが元へとお戻りくださったこと、心から、心から感謝申し上げます」


 セテムを始めとして、周りを囲んでいた侍女や宰相、将軍、侍医を含めた医師集団が一斉にひれ伏すものだから、驚きで変な声を上げそうになる。


「そ、そんな大層なことはしてないの。頭をあげて」

「もしここであなた様がお帰りくださらなかったら、ファラオの御身は今頃どうなっていたか分かりませぬ。万が一のことが起きていたら、我が国は混乱に巻き込まれていたことでしょう」


 今、正式な王族の血を継いでいるのは彼だけだ。もし、彼が跡継ぎも残さず死んでいたなら、王位継承でこの国は少なからず荒れてしまう。この大きな国が荒れれば、このナイルで豊かな国を狙う外国が我が物にせんと攻めてくる。

 ヒッタイトや、アッシリア。同盟と言う名の今にも切れそうな糸で結ばれている国々にこの国は囲まれているのだ。


「まことに、心より感謝申し上げます」


 また、彼らは私を神だとでも言わんばかりに床に額をつけた。私の成したことが、彼の存在の意味が、この国にとって、そして私を囲む人々にとって、どれだけ大事であるかを思い知らされた。

 彼が死ねば国も死ぬ。私が彼を救ったことで、ここに戻ってきたことで、歴史は何か、変わったのだろうか。


「では、皆の者」


 例えにならないその雰囲気を破ったのは、ナルメルの声だった。静かで穏やかなのに、一体どこから出るのかと不思議に思ってしまうほどの声音は人の視線を引く。


「ここは姫にお任せし、我々は政をまとめておきましょうぞ。ファラオがお目覚めになられて政務に追われ、目を回されることのないように」


 ナルメルは長い髭を撫でながら、髭の下に見え隠れする口端を三日月形に上げた。灯った一つの微笑みに、あたりも徐々にその色に染まっていく。


「そうで御座いますな!私めも近々行われる遷都に向け、下エジプトと連絡を取ってまいりましょう。ほらセテム、行きますよ」


 カーメスがそう言って、未だに私の手を取ったままのセテムの腕を掴んで立ち上がる。やっと垣間見えたセテムの顔は、泣くのを必死に堪えているかのように唇をぐっと噛みしめ、眉間に深い皺を寄せていた。


「それでは、ファラオをお頼み申し上げます」

「ええ、任せて」


 彼らは私に頭を下げ、数人の侍女と侍医を残し去っていき、さっきまで人で埋め尽くされていた空間が一気に広くなったのを感じていた。


 静けさが戻ってきたことに息をつき、改めて眠るその人に視線を向けた。

 現代に戻ってから今日までを指折り数えて7日。短かったような、長かったような。家族と会っている時を考えれば短かった。彼と離れていた時を考えれば長かった。そう考えると、時とはなんて不思議ものだろう。

 7日間、彼は毒で思い通りにならなくなる身体で苦しんでいただろうから、改革の予定も遅れてしまっているはずだ。民も待ち焦がれていたアメン神への宗教改革の正式な声明もなかったことを思えば、小さな混乱が国の中で起きているかもしれない。

 目覚めたらきっと大忙しね、と彼の暖かな手を取って小さく語りかけた。

 手を伸ばして少し硬めの焦げ茶に触れる。指を頬に伝わせ、そっと撫でた。指から伝わる体温がある。温もりがある。この触れているという事実が、私の中に愛しさを溢れさせる。


 彼の手を握り、頬を寄せて、床に広がる闇が徐々に薄れていき、夜が明け始めるのを何となく視界の端に見ていた。

 自分の足元の現代の香りを残すロングのスカートと腕を包む白いパーカー。古代と、現代。記憶に流れるあの黄金の川。タイムスリップ。それらの言葉を巡らせてぶち当たるのは一つの疑問。


 どうして、現代から古代へ時を越えることが出来たのか。


 1年以上そのまま放っておいた謎に、もう一度しっかりと向き合ってみる。

 記憶とも取れる、現代へ帰った時に立て続けに見たあの夢。あの場で私に死ぬなと泣いていた淡褐色の青年は、間違いなく今私の目の前で眠っている彼だ。そして、その彼は今にも死にそうな私を、アンケセナーメンという姫の名で呼んで、私が応えた。

 交わした約束と、自分であることを示すために決めた約束の言葉。1年前、KV62で聞こえた彼の祈りに似た言葉に、私の叫んだ言葉と、私と瓜二つの王家の姫君。

 全部。全部をひっくるめて考えてしまえば、私は。

 おそらく、私は──。


 浮かんできた信じられない可能性に思わず彼から手を放して、自分の胸元を掴んだ。

 もし、この考え通りとするならば、古代残る正式な理由が成立する。歴史はこの時代に私の居場所を与えたことになり、私は彼の傍にいることが出来る緊張と嬉しさと非現実さに、落ち着きという言葉がどこかへと吹き飛んでしまう。

 茫然と足元にハヤブサに姿を変えたラーの光が伸びたのを見ていた。


 その時、ふっと、私の左手の中にある彼の指先が動いた。それを見て音を立てて椅子から立ち上がった私は、彼の手を強く握る。


「……アンク」


 名を呼んだら、眉が一端真ん中に寄り、また戻って、それからうっすらと瞳が覗いた。あの淡褐色が。

 部屋へと伸びてきた朝陽のおかげが、彼の顔が今までにないくらい綺麗に見える。


「アンク!」


 髪を撫で、頬にそっと指を乗せたら小さく唸り、首をわずかに揺らしてからその人はもう一度目を開いた。今度はしっかりと。私に向けて。


「私よ?弘子よ?分かる?」


 彼の頬も手も、蛇毒への免疫が働いているせいで熱い。目も少し潤んでいて、病人のような姿は彼らしくない。


「アンク、分かる?」


 彼はぼんやりとした眼差しで私を映したまま、息を深く吐くように小さく唸った。

 目を覚ましたとは言っても、毒が体内に残っていることを考えば、一度侍医に診せた方がいい。侍医を呼ばなければと彼から身を放した時、私の左腕を熱いものが掴み、私の動きを止めた。腕に感じた強い圧迫に思わず息を飲んで彼を振り返った。


「……ヒロコ」


 ついさっきまでぐったりとしていた彼が、肘を立て、何とか上半身を起こしながらも、私に空いている右腕を伸ばしていた。

 私の名を、呼んで。


「……本当に」


 彼の乾いた唇が声を落とした。


「ヒロコなのか」


 そのあとに「夢ではないのか」と掠れた声でそう言った。

 夢じゃない。夢なんかじゃない。


「帰ってきたわ」


 彼に向かい合って答えた。

 夢だとまだ疑っているのか、離すまいと彼の手に力が籠るのが伝わってくる。


「あなたの声を聞いて、戻ってきたの」


 声に、どうしても小さな嗚咽に似たものが混じってしまう。

 彼がいることが嬉しい。家族がいないことが寂しい。ありとあらゆる感情が私の中でぶつかり弾ける。


「3300年後の未来から……帰ってきたの」


 私の言葉に、彼が目を大きくした。そのまま、瞳が零れ落ちてしまうのではないかと思うくらいに。


「ヒロコ」


 私の左腕を掴むその手にさらに力を加え、私を引き寄せ、彼はその腕に私を抱き込む。私がここにいるということを噛みしめるかのように、こちらの息が止まってしまうくらいに強く。

 愛しいと思える、甘い香油の香りが鼻を掠めていく。寝台の上の彼に倒れ込むように縋り、彼の腕の中で大きく息を吸った。彼の匂いに包まれていることが、幸せだと思える。やっと会えた。ようやく、触れ合えた。


「もう……会えぬかと思った」


 蛇毒のせいで小さな震えを起こしている腕にまた力を籠め、私の耳元で彼は噛み締めるように呟いた。擦れ声しか、今の彼には出せないのだろう。


 しばらく、私たちはお互いを確かめ合うように相手の背中に腕を回して、鼓動が静かにリズムを刻んでいくのに耳を傾けていた。まるで時間が止まったかのようで、それでも動く鼓動がやはり時間は進んでいるのだと言っていて、矛盾がいくつも私たちを取り囲んだ。


「……あの光と共にヒロコが消え、」


 どれくらい経ってからか分からない。彼が細い、崩れつつある声で沈黙を破った。


「未来に帰ったのだと、すぐに気付いた」


 確かにあの時、私はもとの世界に帰った。両親と、そして良樹とメアリーのいる、私が生まれた、便利なものに溢れたあの世界──21世紀に。


「分かっていた。それがお前にとって一番良いことだと。もう諦めるしかないのだと分かっていた」


 彼の肩に顔を埋め、私は止めどなく生まれて流れる涙をそこに落とす。


「だが……どうしても、諦め切れなかった」


 今度は私の頭に手が回り、長い指が何度も髪を梳いていく。


「お前の言っていた通りならば、私は悲劇の王で、早死にする……だからおそらくこのまま蛇の毒牙で死ぬのだと」


 彼が出せない分を自分の力で補おうと、彼をただ力の限り、抱きしめる。今までちゃんと伝えられなかった分まで込めて。そんな私を腕に抱き直して彼は続ける。


「たとえ……たとえ、若くして死ぬ身であろうと、お前が欲しかった」


 噛み殺すような声が、私の胸を揺さぶった。揺さぶる声の主は、まだまばらの呼吸を、私の首筋に落として埋める。


「どうしても欲しかった」


 だから、あなたは呼んだ。その身体で、私が最初現れた時と同じ条件を揃え、私を呼んでくれた。若くして死ぬ運命にあろうとも、時代の、歴史の均衡を崩してでもあなたは私を求めてくれた。


「……私、私ね、」


 どうにか声を持ち直し、身体の間に小さな距離を作って彼を見上げる。

 自分も、相手に気持ちを伝えなければならなかった。どんな決意を持って、ここまで来たか。

 淡褐色は潤んでいていつもの威厳はない。それでもその奥から優しい眼差しを湛え、私の頬に伝う涙一つ一つを愛おしむように指で拭って、まだ息にかき消されてしまう私の声に耳を傾けてくれている。

 自分を落ち着かせようと深く息を吸って、震える唇を開く。


「自分の意志でここへ、来たの」


 本当に、ぼろぼろな声。情けないくらいだ。

 彼の方が崩れていてもおかしくはないのに、健康体である私の方がずっと崩れてしまっていた。


「お父さんとお母さんに別れ告げてここに、あなたの傍に残ることを決めたの。元の時代を捨ててここへ来た」


 今度は意識下で、覚悟を胸に抱いてここに来た。

 驚いたのか、彼は大きく見開いた目で私を見つめる。撫でていた頬の上の指が止まり、瞬き無しにその瞳に私を映している。

 ついこの間まであれだけ帰りたいと叫び、歴史を変えてはいけない、自分はここに存在してはいけないのだと喚いていたのだから急に考えを変えた私に驚いているのだろう。

 愛しくて、触れずはいられなくて私はその褐色の頬に手を伸ばし、あの言葉を奏でる。


「……御身、生きて、ある限り」


 流れゆく言葉に、私に回った彼の腕が一瞬たじろぐような素振りをした。私がこの言葉を発して古代にやってきたことを知ったあの瞬間から、彼は私の正体の可能性をより濃いものにしていたのだと思う。

 それをあえて口に出さなかったのは、その可能性をひどく嫌がっていた私への配慮だったのだと今では分かる。いつだってあなたは私を気遣ってくれていた。


「あなたと私の、約束の言葉でしょう?」


 夢の中、この口から発していた言葉を、再び彼に。


「復活して、あなたの呼び声に私の魂は必ず答える。この国へ、あなたのもとへ還るために。数百年、数千年先のことでも私の魂は若き偉大なるファラオの声を聞き、時を越えるから……私が、あなたにそう約束したのよね」


 揺れる。私を映す美しい淡褐色が、揺れる。

 戸惑いの表情を浮かべながらも、彼は僅かに開いた口を動かした。彼の中に浮かんだ私のもう一つの名を、呼ぶために。


「……アンケセ、ナーメン」


 その名。彼が私の頬を両手で包んで、呼んだ名前。

 史実とされる歴史の中で、ツタンカーメンの王妃として生き、夫に先立たれ悲劇の王妃と呼ばれる彼女。

 その本人が王妃となる前に死んでしまっているのなら、その後の歴史に綴られる彼女の名は、おそらくこの古代で甦りだとされる私のことを指している。歴史に綴られているのは多分、私の生涯。彼女の魂が3300年の時を越えて宿った人間。アンケセナーメンの魂を持って生まれ、古代の約束を果たすため、一人のファラオのもとへと時空を越える運命を持った人間。それが私だった。

 これが、私の中で生まれた結論だ。そう考えればすべての辻褄が驚くほど綺麗に合わさり、一本の紐を成す。

 勿論、他に彼女の名で呼ばれる人がいるのかもしれないという可能性がゼロという訳ではない。私の独りよがりかもしれない。それでも、もうそれしか考えられなくなっている私がいる。

 歴史は、私に居場所を与えた。この古代に、3300年の時を越えて彼の傍で生きることを許したのだと。


「私が覚えているのは、あなたとの約束のことだけ。だから、私はあくまで弘子であって、アンケセナーメンではないけれど」


 その可能性に私はしがみ付きながら、私は涙に埋もれて切れてしまいそうな声を振り絞る。


「あなたと共に、生きたい」


 私を愛してくれた家族も、友達も、幼馴染も。


「あなたの傍にいたい」


 あの時代の残してきた何もかもを捨て、私はあなたと生きるためにここへ戻った。

 あなたと、生を全うするため。自分の運命をこの手で作り上げるために。


「この地で、この時代で、私はあなたと共に骨を埋めたい」


 言葉の列が軋み、ぼろぼろと崩れる音が聞こえた。

 大切なものを犠牲にして、悲しくないはずがない。辛くないはずがない。今も、心が引き裂かれてしまいそうだ。今でも、両親や大事な人たちが私のことで悲しんでいると思うと辛くて悲しくて、心が何度も悲鳴を上げている。

 それでも私は決めた。この決断を悔いはしない。


「ヒロコが」


 崩れた声色で、彼が言った。


「アンケセナーメンだろうと、無かろうと、もう良い」


 そっと頬を撫で、そのまま私をその腕の中に埋めてしまう。また彼の世界に包まれる。


「私の傍にいるのなら、それで良い」


 彼の吐息が耳にかかる。


「愛している」


 ああ。もう、何もかもが崩壊してしまいそう。

 好きで、好きで、堪らない。狂おしいほど愛しくて、言葉にならない。


「共に生きよ。その命、尽きるまで」


 最早、声なんてものは私の中で崩壊してしまっていて。私は彼の首に抱きついて何度も頷いた。


 愛してる。

 そう、声にならない言葉を胸で叫びながら。



 私は生きよう。

 アンケセナーメンの名で生きた大地に、今度は弘子という名で、私は生きよう。

 この古代という、紀元前1300年のこの時代の砂漠の上で。悲劇の王の名を持つ、この人の隣で。いつかは忘れ去られてしまう歴史の中で。


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