約束

「良樹と待ってるのよ?絶対に外には出ないで」


 私の髪を撫で、心配そうな顔の母が、耳にタコができるほどに聞かされた注意を繰り返す。


「大丈夫。私が出ようとしたら良樹が怖い顔して吹っ飛んでくるんだもの。出られっこないわ」


 明るく返した返答に、母が安心したように頷くと、右隣の良樹が横目を使いながら肘で私を突いてきた。余計なこと言うな、と言っている。でも本当のこと。家から一歩も出してもらえないのが辛くて、外に行きたいと一度こっそり頼んでみたら瞬く間に血相を変えたのはこの人だった。絶対駄目だ、のフレーズを何度聞かされたか分からない。


「良樹、弘子を頼むよ」

「ええ。安心して行ってきてください」


 玄関に立つ父は良樹の答えに満足そうに笑った。

 両親はこれから今までお世話になった博物館の関係者に挨拶をしにいく。今から出かける二人を私は良樹と並んで玄関まで見送りに来ていた。

 少しの沈黙の後、お母さんが黒の手提げの鞄から透明なファイルを取り出した。名残惜しそうな視線をそれに向けて小さく息をついている。その視線の先に綴られた黒い文字は、私の学校の名前だ。


「残念だけど……弘子、いいわね?」


 母はこれから私の学校へ正式に中退の手続きをしてくる。あんなに頑張って入学して、このまま卒業していくのだと感じていた学校。仲良くなった学友たち。まさかこんな形で別れることになるなんて思わなかった。


「うん」


 仕方ないのは分かっている。これ以上、両親を心配させることは出来ない。せめて最後くらい学校に顔を出したかったが、両親の私を外出させたくないという気持ちは言わずと知れていたから、その願いを口にせず終わってしまった。


「帰ったら、最後にメアリーの家族と一緒にお食事しましょうね。きっと楽しい夜になるわ」


 日本への帰国が明日に迫った今日は、この空っぽになった家の中でメアリーとその両親を呼んで、エジプト最後の夕食を取る予定になっている。それが唯一残された楽しみだ。


「じゃあ、行ってくるよ」

「いってらっしゃい。気を付けて」


 何度も何度も私を振り返る母に、精一杯の微笑みを向けて手を振り返す。心配はかけられない。悲しませてはいけない。不安にさせてはいけない。

 娘の私が両親のためにできること。あの二人が安心できる生き方を選ぶということだけ。二人が一番良いことだと言うことに、私は従うだけ。1年も行方不明になっていた私のせめてものの親孝行。

 バタンと軽い音が鳴り、外へと繋ぐ扉が閉ざされる。鍵をかける音を最後に、静けさが戻ってきた。


「……これでエジプトも最後だな」


 腰に手を当てて、隣の良樹が呟いた。


「どうする?メアリーは12時には来るって息巻いてたけど」


 うーんと唸って時計を見やれば、11時半。あと30分で何ができるかと考えてみても、これといったものは思い浮かばない。


「何もすることないしね」


 家は今、ほとんどすっからかん状態だった。家具をいくつか残すだけで、空しさが巣食っている。


「コーヒーでも飲むか」


 リビングに向かって足を進めながら、良樹は振り返りざまに提案した。


「うん、いいかも」


 笑って返事をしたら、良樹の顔は柔らかく綻ぶ。


「じゃあ、俺が飛び切りうまいの入れてやる」

「よろしくお願いいたします」

「任せとけ」


 ふざけてポンとその腕を叩いてみると、彼は腕を捲る素振りをしながらリビングのほうへと向かってぐんぐん歩き出した。

 その息巻く広い背中を見て、ぼんやりと思う。本当に、このまま私はこの人と一緒に行ってもいいのだろうかと。

 両親が、私をこの人に預けたいと思っているのは言われずとも分かっている。二人がそう言うのなら、良樹と一緒になることが自分にとっても両親にとっても良いことなのだろう。けれど、やっぱり違うと叫んでいる自分の存在も否めない。

 良樹に告白された時もそう。私は咄嗟にキスを拒んだ。返事もせずに逃げ出して、ここまで来てしまった。拒絶する理由なんて、どこにあっただろう。それよりもあの時頭に響いたあの声は何だったのか。


「弘子?どうした」


 立ち止まっていた私に、良樹が振り返って声を投げてくる。

 優しい表情が向けられている。私と私の家族の幸せは、あの笑顔と一緒にあるのだろうか。


「何でもない」


 ロングスカートの上に無造作に羽織ったパーカーのポケット。そこに手を突っ込めば、あの蛇の解毒剤と黄金の腕輪が肌に触れる。手放してしまうと言葉にできない不安に駆られてしまうから、周りには隠していつも肌身離さず持っていた。言ってみればお守りのような感覚だ。


 ──いいじゃない。


 ポケットに手を入れ、中のものをいじりながら自分に言い聞かせる。

 両親が望む生き方をする。日本に帰って、良樹と一緒に住んで。心が決まったら結婚して、普通に生活をして。子供が生まれれば、お父さんとお母さんの孫ができて、私の大好きな両親はきっととても喜んでくれる。

 幸せな家庭。不幸の「ふ」の音さえ出てこないくらいの未来が想像できる。

 そう。嫌いなんてことは決してない。こんなに大切に想ってくれているのだから、彼と一緒になることが私にとっても良いことで、幸せな生き方なのだ。私を1年間探し続け、私の両親を支えてくれていた人。本当に、心から感謝している。

 一緒に住んで、徐々に好きになっていければいい。それでいいじゃない、弘子。迷う必要なんてどこにもない。


「ほら、ぼうっとするな。ずっとそこに突っ立ってるつもりか?」


 そんな私をからかう笑い声に返事をしようと、足を前に踏み出した時、何かが耳の奥で鳴った気がして足を止めた。

 砂漠のうねりのような、良樹の方へと歩む私を、引き留めるような声。

 そう。いつもの、あの声だ。

 急いで振り返り、余韻で舞った私の髪の黒の向こうを見やるが、その先には当たり前のように誰もいない。両親が私を何度も振り返りながら出て行った、白いドアしかない。


「弘子?」


 固まる私の方へと小走りで戻ってきた良樹が、そっとこちらを覗いてきた。


「どうした、大丈夫か?」


 良樹の手を肩に感じながらも、私はまだドアを見つめている。返事の仕方も身体の動かし方も忘れてしまったかのように、動かなかった。


「弘子?」


 右腕を掴まれて呼ばれる。でも、良樹に視線が移せない。


「……声、が」

「声?」


 彼が、眉間に皺を寄せる。


「声がしたの……私を、呼んでいるような」


 声とも呼べない、音になり切れていない途切れたノイズだ。何と言っていたのかも、どんな声音だったのかも何も分からないのに、何故か私は声だと直感した。食い入るようにドアの白さを見つめるけれど、何か現れるどころか、何も聞こえない。それなのに私はドアから視線を逸すことが出来ないでいた。

 まだ呼んでいるような気がした。声とも呼べないあの声が。私を。


「しっかりしろ、弘子」


 身体を大きく揺すられ、はっとして良樹を見上げた。視界が変わり、大きく彼の顔が私に迫る。


「疲れが溜まっているんだ」


 そう言って、私の頬や額を撫でて、彼は首を傾げた。


「熱はない……でも、まだ本調子じゃないからな。きっと、耳鳴りだろう」


 耳鳴り、だったのか。疲れのせいだったのか。

 見上げた先の、私の頬を撫でる彼の表情はやや険しかった。


「明日は飛行機で14時間だしな……メアリーの家族が来る頃まで、休んでいた方がいいかもしれない。部屋に行こう」


 私は促されるまま、階段を上って自分の部屋へと向かって歩き出す。進みながらも、目はどうしてもあのドアの白さに行ってしまう。本当に耳鳴りだったのだろうかという私の疑問も、その白さも、やがては壁に隠れて私の視界から消えていった。





 パジャマには着替えず、その服装のままベッドに入ると、良樹は水を入れたコップを手に持ち、黒いバックを肩から下げて入ってきた。

 私のためにと言って、とにかくいろんな種類の薬がその中に所狭しと詰め込まれている。何から何まであるというのだから、そんなにたくさん持ち出して、大丈夫なのかと心配になってしまう。


「これとこれ、飲んで」


 ベッドの横の椅子に座り、二つの錠剤をバックから選び出して私に手渡す。


「ありがとう」


 受け取ったものを全部飲んで、ほっと息をついてからベッドに体を埋めた。掛け布団の乱れたところを、良樹が手を伸ばして整えてくれる。

 懐かしい。小さい頃、熱を出した時も良樹はよくそうしてくれていた。

 幼いころの映像を頭に巡らしても、その記憶を横切るのはさっきの声。眠ろうと思うのに、あの響きを思い出すと無性に胸がざわめく。


「弘子」


 良樹の呼びかけと共に、温かい手が私の額を、こめかみに向かって流れて行った。


「心配することない、大丈夫だから」


 私を安心させるように撫で、その言葉の後に「エジプトを出れば」と続ける。消えてしまうほどの小さな声だった。

 そうだ。明日、エジプトを、この国を、私はいよいよ出てしまう。


「傍にいる」


 彼の声に耳を傾けながら、額から髪へと流れるぬくもりを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。小さくありがとうとお礼を言って、この国を別れるということに寂しさを覚え、瞼を閉じた。






「──どうして」


 啜り泣く声がする。涙の奥で発したような男声が、私の暗闇の中に射してくる。

 また、あの夢だ。そう気づくのに、あまり時間はかからなかった。

 これは私の夢の中。でも泣き声を聞くのは初めてで、若干戸惑ってしまう。いつもは元気な少年の声がするのに。


「……どうして」


 再び啜る音が鼓膜をかすめて、私は瞼をゆっくりと持ち上げる。視界が暗闇から夕陽のオレンジと赤に満ちた色に姿を変えた。光が走って、眩しさに目を細める。

 ここは、どこだろう。

 ぐるりと見渡し、自分がどこかベッドのような場所に横たわっている状態だと気付いた。


「我らが何をしたというのか」


 また、声。聞こえた方に視線を動かすと、影が鮮やかな夕陽色の中に浮かんだ。

 男の人。夢では初めての人。私の手を握り、彼は短い焦げ茶を下に垂らして泣いている。綺麗な透明の雫が、横たわる私の手に落ちていく。


「神は我ら王家を見捨てたのか」


 涙に埋もれた顔を見て、思わず声をあげそうになる。

 淡褐色の瞳。薄い唇。褐色の頬。焦げ茶の髪。やんちゃだった、あの夢の少年。

 その綺麗な淡褐色の目から、涙が生まれては次から次へと下に散っていく。


「アテンは、最早我らの神ではないのか」


 ああ、こんなに大きくなって。素敵な人になったのね。

 親か姉にでもなったような自分の感想に、思わず可笑しくて笑ってしまいそうになった。でもどうしてこの子は泣いているのか。


「私では、何も出来ぬ……死の病には勝てぬ」


 死の病。言われてみれば、今日の夢は何だかとても身体が重くて息苦しい。身体が衰弱しているのが手に取るように感じられた。

 夢の中の私は今、死の間際にいる。


「何故、このような目に」

「……泣いては、駄目よ」


 私の口が勝手に動いて、泣いている彼の声を遮った。泣きじゃくるその人に、握られていない方の手を伸ばし、焦げ茶の髪を撫でた。少年の時と変わらないやや硬めの髪だ。


「あなたは勇猛なる我が国のファラオ。上に立つ者として、涙を見せてはいけない。お兄様に教わったでしょう」


 私は冷たく、それでも慈愛に溢れた声で告げる。けれど、声は息苦しさの中でやっと出したような、随分と掠れたものだった。


「アンケセナーメン」


 寝台の傍にしゃがみこむその人は俯き、いじけた子供のように唇を噛みしめ、涙の量をより一層増やした。そんな彼を見て、私はか細い溜息をつく。


「お兄様の時もお父様の時も、泣かなかったのに……どうしたの」


 もう20歳ほどのその人に、今度は幼い子を宥めるような声色で尋ねた。


「私などに泣いてはいけない。我が王家の名が廃ってしまう」


 彼は微かな嗚咽を漏らし、私の手に縋り付く。


「病で父を失い、兄を失い、今度は姉上までを失う……!もう耐えられぬ!私は一人になる!一人でどうやってこの国を治めろと言うのか!父も兄も、成し得なかったものをどうしろと!?もう絶望しか無い!」


 言葉遣いはとても大層な物を使っているのに、言っている中身は小さな子供のよう。


「死ぬなど許さぬ!約束したではないか、アテンからアメンに神を変え、またテーベに都を遷す私の偉業を、その目で見届けると」

「そうね、約束したわ……でも」

「破るのか!王家の信用を裏切らぬために約束を破ってはならぬ、嘘をついてはならぬと私に教えた姉上が!兄から託されたのではなかったのか!私を頼むと……!」


 歯を噛みしめ、彼は涙を散らしながら私を睨む。淡褐色に青と赤が走って、私が死にゆくことに対する悲しみと、私が生きることを諦めていることに対する怒りが彼の中で駆け巡っているのを知った。


「……少し、」


 彼の今にも燃えてしまいそうな眼差しから目を背け、私は天井を仰ぐ。そこまであの神の色に美しく染められていた。視線を動かすのも、口を開いて声を成すのも、とても億劫で、それでもこの子を置いて逝かなければならないという自分の将来が見えていて私の心も悲しみに沈んでいる。


「少し、休むだけ」

「……休む?」


 そうだと私は天井を見上げたままこくりと首を動かした。


「私は、死ぬ」

「言うな!!」


 彼の怒声を遮り、私は続ける。


「死んだら、ミイラにして身体を残してちょうだい。私の魂が戻ってこられるように。泥棒にも見つからない小さな墓に、そのミイラを入れて」


 死ぬなと、彼は弱々しく首を振って、さらに強く私の手を握った。逝かせやしないと念を込めるかのように。手骨の軋む音が聞こえそうなほどに。


「必ず、復活を果たして、あなたの傍に戻る。そのために、我々は身体を残すのだから」

「ふざけるな」


 彼は私から目を背けて伏せた。鮮やかな世界なのに、その人の周りは悲しい色が取り巻いている。


「魂が最後の審判をうまく切り抜け、蘇ることを神から許されたとしても、それが叶うのは……」

「数百……いえ、数千年後。あなたが死んだずっと、後ね」


 私の声は苦しげなのに穏やかで、何かを悟ったような響きを宿していた。


「姉上が死ねばミイラにしても、もう会えぬ。約束など、何の意味も成さぬ」


 希望も何もないと、小さく掠れた言葉を吐いて彼は項垂れた。当然のことだ。私の発言した内容は、蘇ったとしてもそれは遠い未来の話で、一生相見えることはないと言っているようなものだった。復活して側に戻るだなんて、夢のまた夢の話。


「でもね、アンク」


 相手の手を包んで、私は重たい口を開く。目尻から生温い線が伝っていくのを感じながら。


「たとえ……たとえ、甦るのが数百、数千年後になろうとも、それ以上ずっと先のことだろうとも」


 力が入らずとも、この想いが伝わるようにと、褐色の手を握り返す。


「必ず私はあなたのもとへ戻ってくる」


 部屋の中に零れる夕陽の色に指先を伸ばし、そこに光を灯す。


 ああ、なんて、美しい。

 指先の神を表す色に、私の涙もより一層溢れ出した。


「この黄金の、命溢れる美しき太陽の国に、必ず」


 落とす余韻には、決意の色が眩しいほどに煌めいている。

 指先から漏れ行く黄金の光を網膜に焼き付け、色に埋もれて行く。


「……呼びなさい」


 手を下ろし、私は霞む視線を淡褐色の瞳に向ける。


「私を、呼びなさい。神の許しを得て、遥か未来、この世に再び舞い戻る私を」


 意味が分からぬ、と青年は私を見つめた。私の手を握り返し、涙を落としながら。


「復活して、あなたの呼び声に私の魂は必ず答える。この国へ、あなたのもとへ還るために。数百年、数千年先のことでも我が魂は若き偉大なるファラオの声を聞き、時を越える」


 口を閉じ、そしてもう一度。


「我が魂は、永遠なるもの」


 ああ、それは。古代エジプトの死後の思想。

 身が滅びようと、魂がある限り必ず生き返る。この思想があったからこそ、ミイラは作られた。死して尚、この世に舞い戻るために。誰かのもとへ、還るために。


「未来……?未来で復活した姉上を?そんなことが出来るのか」


 死後、数千年後の未来で復活して、時を超えるだなんて。現実味が一切ない話だと思うのに。死んだ人は死んでそれで終わりなのに。


「出来るわ」


 アンケセナーメンという名を持った私は強く頷いた。


「トゥト・アンク・アメン。私の弟」


 これが彼の名。この美しい瞳を持つ人の名前。


「私が、約束を破ったことなんてあった?」


 一度目を伏せた彼は、静かに首を横に振る。はらはらと焦げ茶の短髪が左右に揺れた。


「ならば、呼びなさい」


 諭すように、声を鳴らす。


「たとえ、どんな遥かな時があったとしても、私はあなたの声を探し、あなたの声に応える」


 分かったとも、何か声を言う訳でもなく、彼は一縷の涙を頬に零し、ただ頷いた。私の手を、また強く握り直して。さっきの悲しみにくれた目ではなく、強い意志をその眼差しに宿し、私をそこに映して。

 声無き承諾の返答に安心したのか、私は息をつき、全身の力を抜く。安らかというのはこんな感じなのだと思えるほど、心が和いでいた。


「……その時の為に、言葉でも、決めましょう」

「言葉?」


 今にも閉じてしまいそうな瞼をどうにか堪え、声を振り絞る。


「もしかしたら、顔が少し変わっていて分からないかもしれない……あなたが私だと分かるように……証となる言葉を、決めておきたい」


 つまりは合言葉。甦っても分かるように。私の言っている意味を理解したのか、彼も優しさを湛えて、長いまつげを頬に落としながらも口元を緩めた。


「それならば」


 彼は告げる。


「あの言葉が良い」


 薄い唇に、柔らかな笑みが浮かんだ。どのことか分からず首を傾げると、その人は穏やかに口開く。


「姉上が、幼き頃の私にくれたあの言葉……父から兄へ、兄から姉へ、そして私へ託された言葉」


 それだけで私はどれを指しているのか悟ったらしく、再び太陽の色に染まる色を見上げ、徐々に無くなりつつある声を奏で始めた。


「……御身」


 息を吸い、言葉の粒を落とす。おそらく、最期だと思われる言葉たちを。


「生きてある限り、心、正しくあれ」


 彼の声が、空気に乗るように私のそれに重なり、独特の調べをその空間に織り成してゆく。

 涙が散る。私からも、彼からも。約束を果たさんと、願いを祈り込め、その約束を表す二人の言葉を二つの声が夕陽の中を奏でゆく。繋いだ手のぬくもりを握りしめ、互いの存在を確かめ合いながら。



 ──人は皆、死後に世界ありて。なせる業ことごとく屍の傍らに振り積むなればなり──。








 目を覚ました矢先、私は飛び起きた。汗が額から流れ落ちて、瞬きさえ忘れ、肩で息をして頭痛のする頭を抱えた。鼓動が私の耳を支配して、湧き上がる想いが、私の呼吸を乱す。


 ──あれは私だ。


 額を押さえながら、溢れ出る涙が膝の上に落ちていくのを見つめる。何を根拠にそんなことを口にしているのか、分からない。私は弘子なのに。


「……アンケセナーメンは、私」


 頭を両手で抱え、目を力いっぱい閉じる。

 自分の言っていることの意味が分からない。どうして自分がこんなことを言っているのかも。あんな夢を見て、こんなに真に受けているのかも。

 でも、あの言葉に、あの人の顔に涙に、泣き叫びたくなるほどの懐かしさが私を埋め尽くす。

 私が今まで見てきた夢は、ただの夢などではなかった。きっと私の記憶なのだ。いつか、どこかで私が経験した記憶の欠片。その確信は揺らぐことを知らない。

 私は知っている。あの言葉を。あの約束の言葉を。


『──ヒ、……ロコ』


 声だ。さっき聞いた時よりもはっきりと、私の鼓膜はその声を捉えて顔を上げた。

 やっぱり、呼んでいるのだ。あの人が、彼が、私を呼んでいる。耳鳴りでも空耳でもない。確かに呼んでいる。

 誰もいない部屋の中、私はベッドから出て立ち上がった。


 ──行かなければ。呼んでいるあの人のもとへ、還らなければ。


 根拠の無い確信と共に、私はおぼつかない足を前に出した。

 震える手でドアノブを捻り、部屋を出て、階段を一段一段確かめながら、手すりを伝いながら下りていき、リビングにいる良樹とメアリーの声を遠くに聞こえるも、構わず私はあの白いドアへと向かって歩む。自分の荒れた呼吸音だけが耳に響き、彼らの声が雑音のようにしか聞こえなくなった。

 引き寄せられるようにドアを開け、ずっと禁じられていた外へと踏み出した。エジプトの神々しい太陽が私を照らし出す。久々の外だった。


 太陽の光。ナイルの風。砂漠の音。全身でそれらを感じ、目頭が熱くなった。

 どんなにくすんでいても、どんなに汚れていても、その掻き分けた奥に、変わらぬものがある。そして悟る。私の居場所はここだと。エジプトにあるのだと。


 庭を横切り、車が行き交う道路に面する道へと出た。排気ガスが私の肺を侵し、小さく咳き込む。

 早く行かなければ。目が眩むほどの黄金の光を見上げ、何度も自分の心がそう言うのを聞く。

 

 でも、どこへ。どこへ行けばいいのだろう。

 コンクリートで舗装された道路を見ても、歩道を見ても、どちらへ行けばいいのか分からない。行く当ても分からないのに焦りだけが増していく。

 道路を覗いた時、黒い車が向こうから走ってくるのを見た。タクシーだった。手を高々と掲げると、タクシーが私の前で止まり、黒と白が並ぶドアを開いた。


「どうぞ、お嬢ちゃん」


 窓から顔を出した褐色のおじさんが私に笑いかけ、開かれた車内に、心が逸るまま乗り込んだ。


「どちらまで?」


 独特な匂いを漂わせる茶色のシートに身を乗せたと同時に、顎に髭を沢山蓄えた初老の男性がドアを閉めながら尋ねる。


 どこまで?

 私は、どこまで行くの。どこへ行けば、あの人に会えるだろう。


 額を押さえ、記憶を引き出そうと必死になる。

 淡褐色を持つあなた。約束を交わした、あなた。


 ねえ、あなたはどこにいる?この世界のどこにいるの。


「……お嬢ちゃん?」


 還りたい。私は、還りたい。夢の中で繋いでいた手を握りしめ、想いを巡らす。

 私の、行きたい場所は。還りたい場所は──。


「……アケト、アテン」


 揺るぎのない、はっきりとした声で、私は知らない地名を自然と口にしていた。行き先の名に、運転手の顔に驚きが走った後、少しだけ笑みを浮かべる。


「お嬢ちゃん、考古学の学生か?アケトアテンって、エル・アマルナの古代名で、数千年前に使われていた呼び名だろう?こう見えてもおじちゃん知ってるんだぞ」


 エル・アマルナ。私が発見された場所。

 やっぱりそこに、何かあるのだ。私の失くした記憶の何かが。


「ここから300キロはある。3時間だな」


 男性が車についている時計を見やりながら首を傾げる。確かにエル・アマルナは上エジプトで、カイロとは正反対の場所にある。ここらではとても遠い。


「代金、相当かかるぜ?大丈夫かい?」


 代金と言われ、はっとする。お金なんて無い。そう思って何気なく白いパーカーのポケットに手を入れたら、冷たさが指先を掠めた。取り出してその正体を知る──黄金だ。古代の神ウアジェトを象った、黄金の腕輪。


「これで、足りますか?」

「こりゃあ、見事な……!!」


 私が差し出した腕輪を見るや否や、男性は手に取ってこれでもかと目を見開いた。


「何でお嬢ちゃんみたいな子が、こんな大層なものを……」

「それで連れて行ってもらえますか?どうしても行きたいんです。今すぐに」


 質問を無視してしまった私の言葉に、おじさんは満面の笑みを浮かべて頷く。


「もちろんだ!任せておけ。行くぞ、古代都市アケトアテンへ!」


 アケトアテン──私の記憶が眠る場所へ。

 運転手が改めてエンジンをかけ、黄金の腕輪を自分の胸ポケットにしまいながらハンドルを握る。

 タクシーが私を乗せ、勢いよく上エジプトの地へと走り出した。




* * * *




 見上げてある丸いアナログ時計は14時33分を示している。弘子が寝付いて2時間弱が経っていた。


「トイレって、なにそれ。笑っちゃう」


 壁時計から視線を戻せば、向かい側に座りコーヒーを啜るメアリーが背中まで波打つ髪を揺らして笑っていた。

 言っていた通り、12時ちょうどに彼女は一人で工藤家のチャイムを鳴らしてやってきた。何でも「パパとママの準備が遅すぎるから、歩いて来ちゃった」とのことだ。

 そして俺たちはさっきから、弘子の「トイレ発言」で盛り上がっている。俺としてはもう終わらせたいくらいなのだが、これがメアリーのツボに見事ヒットしたらしく、なかなか話を逸らしてくれない。飲んでいる時以外、彼女はこれでもかと話し続けている。


「私もその場にいたかったなあ。告白したのにそれの返答が『トイレ』だなんて。動画でも撮っておきたいくらいの笑い話だよ、それ」

「笑い事じゃないって。トイレってひっくり返った声で叫ばれて俺がどれだけびっくりしたと思ってんの」


 それでも彼女は白いカップを口元につけて含み笑いをする。やはり笑窪が印象的な子だ。


「でも弘子、記憶がない訳だからまだ本調子じゃないし、日本に帰ったらもう一度言ってみるといいよ。弘子ならきっとヨシキを選ぶと思う」

「そうだといいんだけどな」

「何弱気になってるの。だっておじさんとおばさんもヨシキを推してるじゃない。大丈夫、弘子はあなたの奥さんで決まり」

「奥さんって」

「中村弘子になるまであと少しだよ、頑張って。結婚式には呼んでね。何が何でも行くから」


 ぺらぺらと言ってのける彼女に苦笑しながら、ふとひっかかることがあり、彼女がコーヒーに口付けて会話が途切れたのを合図に尋ねてみることにした。


「……メアリーは大丈夫か?」


 俺の声色が急に変わったのを感じたのか、メアリーはカップから顔を離して俺に首を傾げる。


「いや、弘子を探すたび、また一緒に学校通うんだって言ってたのに、日本に帰ることになって……学校だって中退せざるを得なくなっただろ」


 弘子が日本へ帰国したら、メアリーはこのエジプトに残される。それなのにも関わらず、弘子の両親が下した決断に彼女は分かったと頷いただけで、寂しいだとか嫌だとか一度も口にすることはなかった。潔くていいとも思うのだが、あれだけ弘子と一緒にいたいと言っていたものだから逆に心配になる。


「そりゃあ」


 彼女は寂しそうな顔を浮かべ、若干うつむいて表情に影を作った。テーブルに置いたカップを両手に包んで、黒い水面に顔を映している。


「寂しくないなんてことは無いけれど、仕方ない。弘子のためだもの」


 声色に悲しみが混じっていて、言葉にできない寂しさが漂っていた。


「母国に帰ることが一番だって、エジプトを出ることが何よりも最適なことだって、私だって分かってる。おじさんとおばさんの決断はとても正しい。私も弘子には元気でいてほしいし、もう二度と失踪なんてしてほしくない。……だから何も言わない、それだけよ」


 弘子を思うが故。弘子が失踪している時も感じたことがあるが、自分が持つ弘子への思いと、彼女が持つそれは、とても似ているものがある。

 一緒に行ける俺とは違って、この砂漠の国に残る彼女の方が何倍も辛いだろうし、本当は離れたくないと心では思っているのだろう。でもそれをあえて言わず、帰国という最善の対策を何も言わず微笑んで受け入れた姿勢に、彼女の強さを垣間見る。


「それにね」


 膝元に視線を落とし、彼女は続ける。


「本当なら日本までついて行きたいけれど、ヨシキが一緒だって聞いて安心した」

「俺?」


 思わず自分を指さして尋ねた俺に、メアリーはくすりと笑いながら頷く。


「私の代わりに弘子を守れる人だから」


 笑窪の浮かぶ優しい微笑みに、少し気恥ずかしくなったものの、気付けば自然と笑みを返していた。

 そうだ。ついて来れない彼女の分まで弘子をこの手で守らなければ。自分の焼けた手の甲を見ながら、俺は胸の内に決意を固める。

 そんな俺の顔を見てから一度息をついたメアリーが「ごちそうさま」と言って空になったカップを流しの方へ持って行き、再び俺の方を振り返った。


「弘子の部屋に行ってもいい?」

「弘子の?」

「そう。この国にいる時だけでも、傍にいたいの」


 明日には別れる。親友だというのに、パソコンや電話などの媒介があるとは言え、直接会うことはなかなか難しくなる。


「ああ、行ってくるといい。あと少しで目も覚めるだろうし」


 俺の答えに、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべ、玄関の方にある廊下へとリズムを刻む足取りで出ていった。

 彼女の背中に揺れる髪を見送ってから、コーヒーに口をつけてふと隣の椅子に目をやる。あの黒いドクターバック。手を伸ばして開ければ、中には医薬品や医療器具の他に、銃が顔を出した。

 世界で唯一銃刀法のある日本に帰れば使えないが、これで弘子を守れればと思って購入したものだ。エジプトでも所持は許されているが、外に持ち出すのには許可が必要だからと先日警察の方に届け出をしてきた。

 黒の革製のカバーから取り出し、握ってその感触を確かめる。黒っぽい茶色のそれは案外軽くて、間違えれば引き金を引いてしまいそうになる、まるで玩具だ。アメリカでの学生時代に、何度か友人に連れられて射撃場で使ったことはあるが、今使えるかと聞かれれば微妙なところ。

 昔の記憶を引っ張り出しながら、少しだけいじってみる。勿論、発砲してしまわないように、慎重に。こんな家のリビングのど真ん中で発砲なんかしたら笑いごとでは済まない。

 こんな作りだったか、と上に掲げて眺め回していた時、慌ただしく階段を駆け下りる足音が響いた。何事かと銃をテーブルに置いて立ち上がったと同時に、廊下とリビングを遮っていた扉が音を立てて開かれた。


「ヨシキ!!」


 大きく目を見開いたメアリーが息を切らし、髪を乱して俺を呼んだ。発せられた声が、何か非常事態が起きたと俺に訴える。


「弘子が……弘子が!」


 上で眠っているはずの弘子の名。どうしてそれが、出てくるのだろう。


「ひろ……弘子がいな」


 血相を変えた彼女の顔は、俺さえ戸惑うほど真っ青だ。


「弘子がどうした」

「弘子が、いないの!」


 思考が停止する。

 弘子が、いない。さっきまで寝ていたのに。


「ベッドもからっぽで、どこを探してもどこにもいないの!!」


 今にも泣きだしそうな歪んだ顔がそこにある。言葉が発せないまま、俺は2階に駆け上がろうと、メアリーを押しのけて玄関へ続く廊下に出た時、あっと声をあげそうになった。メアリーを迎えた際にはちゃんと閉めたはずのドアの鍵が開いていた。

 駆け寄り、玄関に並ぶ靴を探した。弘子の靴が、無かった。

 外に出たのか。あれほど両親からも俺からも出るなと言われていた外に。あの弘子が、両親を心配させるようなことをするはずがない。約束を破るはずがないのに。

 外からの車のエンジン音に気づき、勢いに任せてドアを開けて外に飛び出すと、庭の向こうの道路に黒いタクシーが走り出すのが見えた。弘子らしき影がそれと共に一瞬走り抜ける。


「弘子!!」


 地を蹴って道路の方に飛び出しても時はすでに遅く、タクシーはナンバープレートが見えないほど遠くに行ってしまっていた。

 間違いない、弘子だ。弘子がタクシーに乗って行ったのだ。真っ白になった思考のまま、俺はその場に立ち尽くす。──どうして。


「ヨシキ!どうしよう!!どうしよう!」


 メアリーが俺の方に駆けてきて、涙ながらに叫んだ。ごくりと唾をのみ、冷や汗が背筋を伝っていくのを感じながら、胸元のシャツを掴む。

 どこへ、行った。タクシーに乗って、どこへ。

 頭を巡らし、弘子が行きそうな場所を挙げていく。KV62。王家の谷。ルクソール。今までの失踪に関係のある場所ならこの地だが、どれもしっくりと来ない。


「……もしかして、アマルナに行ったんじゃ」


 メアリーの震えた一言に、それだと確信する。

 エル・アマルナ。弘子が発見された、アケトアテンの古代名を持つ遺跡群。

 片手で額を抑え、一度読んだパンフレットに並べられた文字の記憶を引っ張り出す。

 アクエンアテンが無理にアメンからアテンに宗教改革を行い、新たな都とした場所で、ツタンカーメンがアメン信仰に、都をテーベに戻した後は『異端の地』とも呼ばれ、人々が寄り付かなくなったと言われている。


「弘子……」


 数日間の弘子の悩むように沈んだ表情を思い出した。言葉にはしていなかったものの、彼女は自分の失くした記憶を少なからず気にしていたはずだ。もし、弘子が記憶を取り戻しに行ったというのなら、自分が発見された場所に足を運ぶというのが筋というもの。


「行ってくる」


 漠然と言葉が口から出た。


「行くって?おばさんたちに連絡は?」


 家に向かって走り出す俺を追いかけ、メアリーが縋るように尋ねてくる。


「知らせている暇なんてない!!今すぐ追いかける!!」


 俺の声には、怒声が混ざっていた。

 また失うのではないか。また俺の前からいなくなるのではないか。手さえ掴めない場所へ行ってしまうのではないか。そう考えると不安で不安で溜まらなくなる。今すぐ追いかけて連れ戻さなければ、弘子がまた『何か』に連れて行かれる。


「メアリーは家で待ってろ、いいな」

「嫌!」


 車に駆けだした俺の行く手をメアリーは叫んで遮った。


「絶対に嫌!私も行く!弘子を追いかける!」


 涙を孕んだ目元で、俺を睨みつけている。


「私は弘子の親友よ!私だって行かせたくない!弘子が心配で堪らない!良樹だけじゃない!また、何も出来ないのが一番嫌だ!!」


 一人は家に残っていたほしいとは思うものの、彼女も自分と同じ気持ちを抱いているということを思い出した。俺も彼女も、何も出来ないまま、弘子が連れて行かれるのを見ていた、あの頃と同じではない。

 一度伏せた目を開き、彼女に頷いた。


「弘子を連れ戻そう、一緒に」


 メアリーも真剣そのものの表情で首を縦に振る。


「絶対に」


 一端リビングに戻り、万が一の場合を考えて俺は銃のを入れたドクターバックを、メアリーは自分のリュックを握りしめ、すぐさま車に飛び乗った。

 異端の地まで312キロ。到着はおそらく17時半すぎになる。アマルナに着く前に追いつければ十分だ。

 メアリーに弘子の両親に連絡を取らせ、俺はエンジンを鳴らし、汗ばむ手でハンドルを握ってアクセルを力いっぱい踏み込む。昼の太陽がフロントガラスを超えて、俺たちにその光を曝す。植民地ともなったエジプトの、はるか古代の栄光を唯一残す、視界を黄金に染め上げるほどの光が。

 不安が過る。恐怖が掠める。焦りが山のように積み重なっていく。

 頭上にあった日除けで眩しすぎる日光を遮り、湧き出る負の感情を蹴散らすように、俺はアクセルに置いた足にさらに力を込めた。

 庭を越え、道路に出た際、砂漠から流れてきたと思われる砂が、俺たちの行く方向へとまるで小波のように流れていくのを見た。さらさらと静かに舞いながらも、寂しさと言い難い何かをまとって吹き流れる。

 砂漠が、弘子を呼んでいる。前を行くその粒たちを視界の端に見ながら、俺の中の何かが怖いくらいにそう悟った。砂漠が、風が、得体のしれない何かが、弘子を求めているのだと。


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