ウアジェト

「姫様、お持ち致しましたよ」


 差し出されたハスの白い束をネチェルから受け取って、小さくありがとうと返した。両腕の中に満ちる優雅なその白さだけが、寂しさを紛らわしてくれる。花弁を撫で、花特有の柔らかさを指先に感じてようやく強張っていた頬が緩んだ。


「そのような悲しいお顔をしていては幸せが逃げてしまわれますよ」


 心配そうな表情で私を覗き、慰めるようにネチェルは優しく微笑むのに、私は弱々しい笑みしか返すことが出来ないでいる。笑みと共に口から漏れるのはため息とも取れるものだ。


「しかし、ファラオもファラオですわ」


 悩ましげに頬に手をやり、彼女は首を傾げた。


「お食事や湯浴み以外お部屋から出すななど……これでは姫様が元気を失くされてしまうのも無理ありません。気が滅入ってしまわれましょう」


 あの日から、彼は私が逃げ出さないようにと一切の外出を禁じた。

 部屋の周りは沢山の侍女や兵士に囲まれ、外どころか、いくつかの場合を除いては部屋からも出してもらえず、この花も、せめてと思ってネチェルに頼んで持って来てもらったものだ。

 しばらく花を眺めてから、再びどうしたものかと悩ましげな侍女に視線を上げた。


「彼は今、どうしてる?」


 話し合わなければならないのに、あれからろくに話せていない。


「ご公務に。ご機嫌が悪いようだとカーメス殿が仰っておりました。一体何があったのかと皆不思議がっております」


 原因が自分にあると分かっているだけに、申し訳なくなってくる。


 外でも機嫌が悪いのね。困った人。


 腕に抱く、白い花の香りを胸いっぱいに吸って、大きな柔らかい花弁を空いた指で繰り返しそっと愛でてみる。

 唯一の慰めだ。部屋に閉じ込められて数日が経つけれど、息が詰まりそうで仕方がない。ネチェルが言った通り、このままでは気が滅入ってしまう。


 彼は、私の話に耳を傾けてはくれない。何度も話を聞いてもらおうと声をかけてみても、彼は忙しいと言って私を避けるように部屋から出て行ってしまう。

 一日のほとんどが一人。食事も、寝る時も、テーベ視察から彼が帰ってきた後も、彼は私に会おうとしない。

 改革が近づいたせいで忙しいからなのか、単に私と話したくないだけなのか。政治に疎い私にははっきり分からないけれど、寂しさだけが容赦なく胸の内に募る。話を聞いてもらえないことが、目を合わせてもらえないことが、とても悲しい。寂しくて堪らない。


 ここに来てから今まで、私の傍にいてくれたのは彼だ。家族と言う当たり前のように傍にいた存在を失った孤独を除いてくれていたのも、心を埋めてくれていたのも、あの人だった。

 彼の存在を傍に失くして、どうしたらいいか分からなかった。まともに顔を合わせなくなってまだ1週間ほどなのに、胸のどこかが虚無に浸ってしまい、苦しいほどに胸を締め付けている。


「そろそろお休みになるお時間ですわ。明日は大事な、めでたき日で御座いますもの。早めにお休みになった方がよろしいでしょう」


 花は生けておきましょうと、ネチェルは私からハスの束を受け取り、後ろに控えていた他の侍女に手渡した。


 大事な、めでたき日。

 明日、彼は民に顔を出し、宗教改革と遷都の声明を出す。その時に私もアンケセナーメンとして出なければならない。出る訳にはいかないのに。


 逃げるにも逃げられず、訴えようとしても訴えるために彼の前に出ることも出来ず、何をしようにも行き詰るばかりだった。


「明日は美しい、誰もが見惚れてしまうようなご衣裳とお化粧をいたしましょうね。我々、腕を振るいます!」


 寝間着に着替え、最後にネチェルが私の髪を梳かしながらやっぱり慰めようとするかのように意気揚揚とそう言ってくれた。

 彼女はいつも、私を気にかけてくれている。ありがとうとお礼を言うと、当たり前のことですもの、と笑ってくれる彼女の心の温かさがじんと胸に沁みた。


「ネチェル様」


 他の侍女が何枚かの麻布を両手に抱いて、私たちの後ろに立っていた。


「姫様の新しい寝具ですが、いかがいたしましょう」

「寝台の上に置いておきなさい。あとは私がやります」


 寝具も変えるのね、と手元の鏡を見てぼんやりと考える。

 鏡とは言っても、21世紀のものよりは映りが悪く、そこに浮かぶ私の顔はぼんやりと靄がかかってしまっている。それでも目を引くのは取手の部分になされている美しい細工だ。こんな小さなところにも女神が鏡の取手を抱く形で細かく彫られていた。

 この女神はオシリスの妻であり妹であるイシスだろう。陽の輪を間に入れた雄牛の角の冠を被った女性。呪力で夫や子供を守った勇敢な女神。

 その見事な女神のレリーフを指で何気なくなぞっていても、やはり気持ちは沈んだままだ。


 ふと、ある音が自分の鼓膜を叩いたのに気付いて顔を上げた。

 足音。規則正しく、堂々と鳴る黄金の音。

 ネチェルも他の2人の侍女たちも、その音を聞いて急いで床に平伏すように頭を下げる体勢を取る。私も音の正体を知って、赤紫のカーテンに覆われる部屋の入り口を振り返った。

 音がぴたりと止み、やがてカーテンから長い指が覗いて、乱暴とも思える仕草で勢いよくその境界をめくり上げる。余韻に揺れる赤紫の向こうで、険しさを湛えた表情で腕を組み、首元の黄金の飾を煌めかせた彼が、そこに立っていた。


 久しぶりに目の前にしたその姿に私の胸が高鳴った。嬉しさと悲しさと、もどかしさ。色んな感情がぶつかり合って、私の中を乱した。


「お前たちは下がれ」


 命じられたネチェルと他の侍女2人が深く礼をして、私を心配そうにみやってからすぐさま出て行った。


 二人きりになった。間に生まれる重苦しい沈黙。

 立ち上がって数歩行けば、その人がいるのに、この前の事を考えたら立ち上がるどころか、彼をまっすぐ見ることも出来ない。

 話したいことがあるはずなのに。もう一度「ここにいられない」と訴えようと思うのに。彼が醸し出す威圧に抑えられてか、口が開いてくれなかった。

膝の上に流れる寝間着の生地を鏡の取手と一緒に握りしめるだけしか出来ないでいる。


 やっと、話す機会が出来たのに。

 私は、何しているの。


「明日」


 先に声を発したのは相手側だった。


「民に声明を出す」


 緊張が走る。ぞくりと走って、私の身を固める。


「その際、お前も甦ったアンケセナーメンとして、民の前に出す。覚悟を決めておけ」


 顔を上げれば、その人はすでに私に背中を向けていた。そのまま行ってしまう。離れてしまう。


 駄目だ。言わなければ。

 私は、出られない。


「待って!」


 気持ちが喉の奥まで勢いよく這い上がってくるのに押されて咄嗟に立ち上がり、彼の背中に消えてしまいそうな声で呼びかけた。

 鏡が私の指から零れ落ちて、床にぶつかる鈍い音が響く。


「……私、」


 この先を、前に立ち止まる背中に言ったら、嫌われてしまうのではないか。今度は話しかけてくれることさえなくなってしまうのではないか。そう思ったら、不安に急き立てられて声が滞った。


「明日は忙しい。早く寝ろ」


 言い捨てて、彼は歩き出す。


「出られない……!」


 反射的に駆け出して、離れていきそうだった彼の腕を掴んだ。


「そんな大事な式典に、私が出ちゃいけない!」

「寝ろと言っている」


 彼はこちらに目を向けてはくれない。前を見据えたまま、その目を細めている。悲しみと怒りが混じった眼差しを、横顔だけで痛々しいくらいに感じた。


「アンク、お願い、話を聞いて。私はここにはもう」


 必死になってそこまで告げると、私が掴んでいない方の彼の拳が勢いよく傍の壁に打ち付けられた。彼の手によって生み出された大きな鈍い音で遮られ、言葉が切れる。自分にぶつかってくるような音に、思わず彼の腕を放し、私は身を竦めた。


「……何故」


 苦しげに、噛み殺すように発せられた声に恐る恐る顔を上げる。


「何故抗おうとせぬ」


 険しい表情を私に近づけ、彼は再び口を開く。


「お前は会うたび会うたび歴史があるからと。何故、それに抗おうと、変えようとせぬ。それが私には気に入らぬ。腹正しくてならぬ」


 私を睨みつけ、目を光らせた。


「歴史など変えてしまえば良い。変えていけないのなら、何故神はお前を私のもとに寄こした?何故ここに共にいる?神が許しているからではないのか」


 あなたは歴史というものを分かっていない。歴史が一本の時間軸により成り立ち、その一部が変わるだけでどれだけその軸がぼろぼろに折れ曲がってしまうか。それでどれだけ先を生きる人々の人生を狂わせるか。

 あなたは未来を知らないから。


「歴史は、大事なの……とても、とても大切なもの!些細なことの積み重なりが数千年の未来を作っていく!」


 どう言えば彼に伝わるだろう。


「あなたは王家よ。歴史に大きな影響をもたらす王家に、私がこうして死んだはずのアンケセナーメンの振りをしていることは決して」

「私など、歴史を変えるに値する存在ではないと言うことだろう。お前にとって、私はそれだけの価値しかない」

「それは違うわ……!そういうことじゃ」

「これ以上、お前の説教を聞く気はない」


 威圧を突きつけ、私から言葉を奪ってしまった。言葉を失った私は、ただ俯くしか出来なくなる。


 あなたは聞いてくれない。私の声を聞いてはくれない。擦れ違うこの関係が、どうしようもなく悲しい。


「それだけだ」


 彼は私に目を向けることなく、自分の部屋の暗闇へと姿を消してしまった。


 私と彼を遮ってしまった赤紫の生地がひらひらと目の前で動いて、物悲しさを私の中に広げていく。終わりが見えないほど果てしなく。


 私はどうすればいいのか。尋ねても答えをくれる人は誰もいない。誰も助けてはくれない。

 私は一人だ。

 遣る瀬無くて、寝具に身を埋め、悲しみを紛らわしてしまおうと目を瞑る。

 ──出来るのなら。


 もし、許されるのなら、私はあなたを救いたい。一分一秒を大事に噛みしめて、あなたと生きていきたい。この気持ちを伝えてしまいたい。それが出来ないのであれば、この想いを殺してしまいたい。もう何も言わないように。悲鳴をあげないように。

 自分の気持ちさえ振り切れず、未だに揺れている私は、なんて弱いのか。

 これ以上考えたらますます感情が止まらなくなりそうで、麻に顔を押し付けて視界を闇に埋めた。




 無理に眠ろうと、身体を小さく丸めようとした時、寝具に埋めているはずの足元に、気配を感じた。

 ゆっくり、ゆっくり。もぞもぞと。

 何かが私の足に近づいて動いているような感触が、上にかかる麻布から伝わってくる。

 身を固めた。


 中に。私の寝具の中に。

 何か、いる。


 少しがさがさとした冷たい長い何かが、動いて私の右脚に触れ、素早く、それでも滑らかにそのまま私の脚を締め上げた。気味の悪いそれに背筋が凍りつき、息が止まる。


 呼吸を止めたまま、固まってしまっていた腕を恐る恐る動かし、身体の上にかかる、新しく変えてもらった寝具の麻を握り、それを思い切って剥ぎ取った。



 麻が下に落ち、白さを視界に残す中に現れたもの──寝間着から出た私の右足にぐるりと渦を作って巻きついている、紐のように細い、茶色の生き物。

 丸いフードのような頭部、円筒形の細長い胴体、鱗に包まれた身体を持つ、古代でもウアジェト神と崇められ、21世紀でも恐れられる動物の一つ。

 ここに、私の部屋にいるはずのない、毒蛇『コブラ』。


「あ──っ……!!」


 僅かにその身体を私の脚に這わせ、頭をあげて細い特徴的な舌を出したり引っ込めたりしながら、威嚇をするように噴気音を鳴らし、私の方を見つめている。


「や、やだ……」


 恐怖で顔が真っ青に染まるのが分かった。血の気が引くとはこういうことだ。

 じわじわと、その褐色の身体をうねらせ、それは私の脚を這っている。


「いや」


 そんなことを言っても分かってくれるはずがない。鱗の生々しく感触が脚から伝わって、私を震え上がらせる。

 声が出なかった。脚も手も、何も動かない。頭が真っ白になる。


「ヒロコ……!」


 布がはためく音と共に響いたのは自分の名だった。

 混乱する私の寝台に誰かが飛び乗り、熱を持った手が私の右脚を掴んで蛇を無理に引き剥がす。

 蛇の威嚇するような鳴き声が部屋に響いた瞬間、銀色がその人の手元に光り、素早く、抑え込まれた長い紐状の生き物の胴体にその銀を突き刺した。

 耳を突くような蛇の潰れた悲鳴の後、夜の静けさがようやく戻ってきた。その中に、私とその人の息遣いだけがばらばらに流れていく。


「……ヒロコ」


 自分に投げられた呼びかけに胸を抑え、呼吸を整えながら顔を上げる。視界に映った澄んだ淡褐色は、闇の中でもはっきりと見えた。

 私は、いつの間に古代の闇に慣れていたのだろう。最初は見えなかった闇の中の彼が、今は見える。


「怪我は」


 掛けられた問いに、ふるふると首を振って否定すると、彼も安心したように浅く息をついた。


「衛兵!」


 彼が声を張ると、灯りを持った兵士たちが「どうか致しましたか」と叫んで慌てたように入って来た。

 先頭にいたセテムが顔を顰め、彼の銀の短剣で串刺しにされた蛇を見つめた。ここにいるはずのない生き物の死骸に驚きを隠せないようだ。

  橙の灯りに照らされた蛇の死体は赤い血を周りの寝具に沁みこませ、ぐったりと倒れている。


「ファラオ、これは一体」

「ウアジェトがヒロコの寝具の中に入っていたようだ」


 そこまで聞いたセテムは蒼白になって彼の隣にいた私の姿を確認した。


「姫君、もしや!」

「無事だ、案ずるな。噛まれていない」


 彼の言葉に周りの兵やセテムが胸を撫で下ろした。少し考えるように首を傾げ、再びセテムは口を開く。


「もしや、明日姫君が民に甦りを示すのをさせまいと……」

「分からぬ。そうだとすれば、最後の足掻きと言ったところか。だが、ただ偶然紛れ込んだだけやも知れぬ」


 アイだ。

 明日、私が民の前に顔を出せば、私が彼の妃となる事実を民に示すことになる。それを防ぐために、私を殺そうとした──のかも知れない。

 恐怖が背中を舐めたのを感じ、首を横に振って薙ぎ払い、手で額を抑えて目をぎゅっと閉じる。

 自分が狙われていたことを、忘れかけていた。


「寝具を、変えたか?」


 彼に問われ、侍女が新しいものに変えたのを思い出して小さく頷く。


「侍女は信用のおける者だけを傍に置いている……おそらく、ヒロコのものだと知ってあちら側が誰かを忍び込ませたか、偶然入ったか、だな。この寝具が部屋に運ばれた経緯を調べよ。このことをナルメル、カーメスにも伝え、警備をより固めるよう指示を出せ。あとは下がって良い。ご苦労だった」


 兵士とセテムが揃って頭を下げると、私の寝具を持って、ばたばたと慌ただしく去って行く。

 二人きりになって事態が治まったのにも関わらず、私の呼吸は乱れたままだった。蛇の鱗の感触が右脚に残っていて、擦る手が止まらなかった。


「……まだ子供だ。噛まれていたとしても毒も薄いだろう」


 蛇を見下ろした彼が呟いた。


「薄くとも、死ぬ時間が遅くなるだけだろうが。ウアジェトの毒は強い」


 見る限り、この蛇は下エジプトに多く生息する、エジプトでは有名なアスプコブラだと察しはつく。

 今は子供で70センチほどであっても、本来なら最大3メートルまで成長し、21世紀でも家庭に入り込むことがあるからと注意され、各家庭にはそれに対する解毒剤が必ずと言っていいほど置いてある。応急処置の仕方も学校で教わった。


「それにしても」


 ぽつりと彼が、彼らしくない声を落した。


「……無事で、良かった」


 聞こえた優しい声にはっと視線を上げる。寝具に入る前とは違う、柔らかい目に、胸が高鳴り、固く縛られていた心が解けていく。

 助かったのだと言う実感が、目の前に座るその人を見て初めて湧いてくる。いきなり安心して気持ちが抜けたせいか、じんわりと涙が目に浮かんで視界を霞ませた。例えるのなら、迷子だった小さな子供が、やっと母親を見つけて、泣き出すようなそんな状態だ。


「無事で……本当に」


 彼の瞳が柔らかさを含む色から、今にも泣きそうな色に変わり、彼がそっと私に手を伸ばした。私を救ってくれたそのぬくもりが、私の頬へと伸び、そっと撫でてから、そのまま左腕を私の背中に回して私を抱き寄せる。髪をゆっくりと上から下へと梳き、また「良かった」と繰り返した。

 抗うことなく、私は彼の左腕に埋もれ、独特な香油の匂いを感じながら、縋るように目を閉じた。


「お前に何かあれば……どうしたらよいか分からぬ」


 掠れた彼の声と共に、私を抱く片腕に力が籠る。私の身体が、折れてしまうのではと思うほどに。

 この力を感じていられることが、幸せだと思える私がいる。叫びたいほど、愛おしいと思える私が。

 そしてまた「ヒロコ」と呼んだ。私の耳元で、私の名を呼んだ。


 ああ。あなた。


 無事をこんなに喜んでくれるあなたの気持ちが嬉しくて、どうしようもない。名を呼ぶその声が愛しくて堪らない。

 私は彼の肩に額を付けるようにして、潰れた声でその人の名を呼び返す。呼び返して、彼の首元に未だに震えている腕を回して、相手の存在を感じた。


 行く当てを失くした私に居場所を与えてくれた、あなた。好きだと言ってくれた、あなた。


 やっぱり、私。

 私は、あなたが。


「……ヒロコ」


 声に返事をしようと動いた時、びくりと彼の私の髪を梳く動きが止まった。

 あまりに突然の、彼らしくない不自然な動作に違和感を覚える。何かに不意でも突かれたような。


 彼が蛇側に垂らしていた自分の右腕に視線を投げるのを見、私もそれを追うように視線を送る。

 見えた光景に、一瞬声を失った。


「アンク……!!」


 胴体を短剣に刺され、死んだと思われた蛇が、頭だけを持ち上げ、彼の手首近くの腕をその牙で噛み付いていた。

 顔を青くした彼が、自分の右腕から引き剥がし、突き刺していた短剣を抜いて、蛇の頭部に素早く突き刺した。

 血が飛び散り、今度こそ蛇はだらりと垂れ、息絶える。


「アンク!!」


 彼は歯を噛みしめ、蛇の歯跡がついた右腕を左手で抑えていた。小さな穴から僅かながらに流れているのは、赤い彼の血だ。


「擬死だ!」


 自分が敵わないと思った相手に対して、擬死──死んだふりをし、相手の隙を突くというのがアスプコブラの最大の特徴だ。

 彼の腕に残る跡は、4つ。奥の2つの牙――毒牙に、やられてしまっている。


「血を、血を止めないと!」


 毒を含んだ血流を止め、毒を傷口から吸い取る。私の知っている蛇に噛まれた際の応急手当だった。

 彼の腕を掴み、寝間着の裾を破り、それで牙の跡から5センチ上の部分を縛り上げ、数回、傷口から血を吸って吐き出す。小さな牙の跡から、出来るだけ。

 けれど彼の様子は変わってくれない。どんなに吸って、腰を下ろす白い麻に彼の赤を吐きだしても。それどころかさっきよりも顔を歪め、歯を喰いしばっている。

 まさか毒をもった血が、もう身体の方に行ってしまったのだろうか。


「熱い……」


 私の不安を駆りたてるように、腕を抑えて彼は呻いた。

 熱さの原因は毒だ。彼に、毒が回ってしまっているということを意味している。


「そんな!いや、アンク!」


 応急処置だけでは毒は止まらない。彼の身体の中に入った毒は消えてくれない。


「だ、誰か……!!」


 我を忘れて叫んだ。


「誰か来て!!!誰か!!」


 掠れた私の我を忘れたような叫び声が、夜の闇に響き渡った。



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