君は

 真っ白になりつつある思考回路をどうにか繋いだ状態で、私は部屋の隅に突っ立っていた。

 がやがやと騒ぎ声に溢れかえる廊下。部屋と廊下を何度も小走りで行き来する女官たち。部屋の四隅に置かれた炎が天井に向かって燃え盛る。

 見慣れた部屋だというのに、怖いくらいにいつもと違って感じた。


「姫君、お気を確かに」


 隣にいるカーメスが私に声をかけてくれる。生まれつきの明るさをどこかへと置いて来てしまったようなカーメスは、真剣に眉を額に寄せ、こちらを覗いていた。

 緊張と不安で強張った私の喉元は動いてくれず、カーメスの声掛けに頷くことでしか返事ができない。


「お口元に血が……」


 言われて唇を拭ってみると、黒ずんだ血の色が私の指に乗っていた。傷口から毒を吸い出そうとした時についた彼の血だ。


「もしや、姫君にも毒が!」


 カーメスが血相を変える。


「……平気よ、私は大丈夫」


 私を医師のもとへ連れて行こうとした相手を、手で制した。


「しかし!もしものことがあれば」

「蛇の毒は、血管に入らなければ問題ないものなの」


 自分のものかさえ定かではない掠れた声が、口からぼろぼろと落ちて行った。

 蛇毒は、仮に飲み込んでしまっても胃の中の強い酸性の胃液によって毒蛋白を凝固分解するから、口から体内に入った私に関しては心配ない。


「私より彼よ」


 直接噛まれて毒が血管に回ってしまった、あの人。

 部屋の中心にある寝台は、医師と呼ばれる集団に囲まれてしまって全く見えない。比較的寝台の近くにいるナルメルやセテムも青い顔をして、その集団を黙って見つめている。


「侍医殿を中心に、只今治療を行っております」


 カーメスの抑揚のない声が響く。


「解毒剤はあるの?」


 この時代に、コブラの毒を薄めてくれる薬は。


「我が国のあらゆる薬草を試しているようです」


 薬草で治るはずがない。

 毒蛇は古代から神と謳われた。それもファラオの化身とされるエジプトの片割れとして。つまりは神の中でも特別な存在に当たる。

 どうしてそんな存在になったかという理由は簡単に思いつく。──強いからだ。

 どんな大きな動物もあの毒にやられてしまえば、たちまち動けなくなり、結局はその毒には誰も敵わない。

 小さな身体であるにも構わず、自分より強く大きな者に立ち向かい勝利を収めるその姿を、古代人たちは神と崇め、毒が身体に回ると燃えるように熱くなることから、火の神ともされてきた。


「今までに……」


 怖さを抱えながら、どうにか気を持ち直して口を開く。


「今までに蛇に噛まれて、助かった人はいるの?」


 震える手を握りしめて尋ねた質問に、将軍は一瞬たじろぎ、その唇を噛んだ。

 それだけで、いないのだと悟った。悔しげに陰った表情に、また恐怖が私の中に降り積もる。胸が苦しくなる。


 ──じゃあ、どうするの。薬が存在せず、助かった人がいないのに、どうするの。


 放心した私の耳に流れてくるのは、廊下にたむろする他の大臣たちの声だ。音を失った私の世界に、それだけが妙に響いて聴覚を侵した。


「世継ぎはどうなるのか」

「王位継承は誰になされるのか」

「本来継承権は王妃にあるが、今我が国に正式な王妃はいない」

「まだアメンに戻った訳ではない。改革の途中でファラオがお亡くなりになどになったら……」

「国は、また荒れる」


 聞き流していた言葉が、今改めて、彼の死を前提になされたものばかりだと気づく。


 死ぬ。

 彼が、死ぬというのか。


「……アンク」


 よろよろと私の足が動き出した。囲まれて見えない寝台に向かって、おぼろな、今にも崩れてしまいそうな足取りで向かう。


「姫、まだなりませぬ」


 動き出した私の前に、カーメスが立ち塞がった。


「まだ、なりませぬ。お気持ちもわかりますが、どうか、どうか気をお鎮め下さい」


 腰を落し、両の掌を私に向けて、カーメスは私をなだめようとする。


「ファラオは我らが神ラーの御子。蛇ごときでお命を落とすほど軟ではありませぬ」


 彼は、人の子だ。同じようにして生まれて、同じようにして死んでいく。

 剣で刺されれば死ぬ。毒を盛られれば死ぬ。

 神の子なんて、ただの気休めの言葉でしかない。


「侍医殿も持ちうる力をすべて捧げて下さっております。どうか、ここはお気持ちを静めて下さい」

「だって、彼は、私を助けてくれて……」


 蛇に噛まれたのだ。

 私なんかを助けたから、代わりに噛まれた。噛まれるのは、私のはずだったのに。

 どうしたらいいのか分からなくて、騒いで止まない胸を抑える。


 彼はツタンカーメンだ。あのパンフレットの経歴通りならば、彼はメンネフェルからテーベに都を移し、アテンを廃して完全なるアメンの世を作るはずだ。

 なのに、その人は今、蛇に噛まれて苦しんでいる。


 おかしい。歴史が違う。

 そうして、思い浮かぶ原因はただ一つ。


 ──私が、歴史を変えてしまった。


 彼は私を助けて、蛇に噛まれている。私がここにいなければ、なされなかったことなのではないか。

 一番恐れていたことを、私が起こした。

 私が、彼を殺してしまう。


 私が。


「い、いやっ……!」


 頭を抱えて蹲った。


「姫!」

「姫様!!」


 泣き崩れる私を、カーメスと、私の様子を傍から見ていたネチェルが慌てて支えた。


「私、私が……!」


 やっぱりここにいてはいけなかった。

 いたから。私なんかが、ここにいたから。


「私が、私があの人を……私が!!」

「姫、落ち着きください!」


 涙が散っていく。

 出て行けばよかった。彼を振り払ってでも、彼から離れていればこんなことにはならなかった。


「姫様のせいでは御座いませぬ」


 違う。みんな、私の言う意味を分かっていない。

 私はここにいてはいけない存在なのだと、分かっていないだけだ。


「──あなた様の、所為ですぞ」


 背後から忍び寄るように発せられた声に、びくりと私の背中が跳ねた。

 声のした方を振り返ると、背の低い黒い影が私を見据えている。

 坊主頭で猫背の、豹柄の衣服を身に付けた、黄金の杖をつく、神官。普通の神官ではない、最高神官の名を持つ、その人だった。


「無礼な!!何を仰せになるのです、アイ殿」


 私を庇うように立ち憚ったカーメスが怒声を上げた。


「今のお言葉、聞き捨てなりませぬぞ!」


 離れていたところにいたセテムが素早く、アイと私たちの間に入り込んで声を張る。

 二人が睨みをきかそうとも、アイの鈍い光は怯まない。じっと射るような視線を私に向け、やがて重たく閉じた口を開いた。


「ウアジェトは我が国ファラオの化身。それなのに何故、ファラオの御身を噛むなどという事件が起こるというのか」


 静かなのに、威圧を含ませた声音は怖いほどに私に襲い掛かってくる。セテムやカーメスを越え、大きくうねり、反響し、黒い影のように私に忍び寄ってくる。


「答えは一つしかない。その姫が、いや、その娘が」


 歪に紛った短い人差し指が私に向く。


「アンケセナーメン様の偽物故である!!」


 ネチェルが小さな悲鳴を上げて、私を抱き締めた。


「ファラオはそれにお気づきだったのにも関わらず、ただの小娘を神々の血族である王家として傍に置かれた!それが許せずウアジェト神はファラオを噛んだのだ!!」


 指を黄金の杖から放し、今度は私に威嚇するかのように掌を向けた。


「お前はアンケセナーメン様の甦りなどではない。我が王家を滅ぼす、悪神セトの化身なのだ!!」


 セト──私でも知っている、エジプト九柱の神々の一人。

 不吉なるものの称号を持ち、暴風と雷鳴を象徴とするエジプト神話で兄神を殺した最も極悪とされている神の名。


「私には見える!お前の悪しき闇が!王権を脅かさす邪悪な流砂が!!」


 響き渡った声に、あたりが騒然とする。

 まさか、と驚愕と恐怖を孕んだいくつもの目が私に突き刺さった。

 大臣や女官、医師たち。私の周りを囲むの目の色が、一瞬にして変わる。


「風と砂をまき散らし、再び我が国を貶めんとする呪われし神の化身よ!」


 アイは両手を掲げ、まさに神と語り合っていると言わんばかりの姿で、夜の闇に浸された部屋に、嗄れた声を浸透させていく。

 ゆらゆらと揺れる橙の灯りによって色濃く伸ばされたアイの影を、これほど不気味だと思ったことはなかった。


「神オシリスを殺し、王位を奪ったように、お前も我が国の王を殺すか!!そして国をも滅ぼすか!!」

「落ち着かれよ」


 いつもの口調で声を張り上げ、その恐ろしい雰囲気を破ったのはナルメルだった。その人の声は、まるで一度鳴れば誰もが声を止めて意識を向ける教会の鐘だ。


「何を愚かなことを仰る。血迷ったか、大神官よ」


 顔を険しくして、大きな足音を立てながら、宰相はカーメスやセテムの方へ加わった。前に進み出たナルメルに、アイは歯を喰いしばり、最初の名を憎々しげに呟いた。


「ナルメル、お前は分かっているのか」

「何を、分かっているとあなたは私に尋ねるのか」


 冷ややかな眼差しで宰相は神官に問い返した。


「ファラオがこのままお命を落とすようなことがあれば、王位はどうするのだ!王位継承権は誰にある!?我が娘にあるのか!?それともあの小娘か!!誰にもありはせぬのだ!ファラオは誰をも妃としていない!次の王位はどうするというのだ!!」


 狂ったように老人は頭を抱え、それでも目をこれでもかと見開き宰相に詰め寄った。


 アイは、焦っている。彼が死ぬことがあれば、王位はどうなるか分からない。

 アイの目的は私を亡き者にし、自分の娘を王妃につかせ、王位継承権を確実なものにするためだったのだから、彼がいなくなればその計画はすべて水の泡になる。


「まだファラオは生きていらっしゃる。そのようなことを口にするのは無礼千万であろう」


 落ち着いた様子で長く下に流れる髭を撫でながら、宰相は告げた。


「ウアジェトの牙に襲われ、助かった者はいない!!ナルメル!そうであろう!!」


 アイは私を怒りを露わにした眼で睨みつける。ぞくりと悪寒が走ったと同時に、ネチェルとカーメスが私の前に立ち塞がった。


「邪神めが!奇妙な黄金の魔術で現れ、偉大なるファラオを騙し、我が国をどうしようというのか!!」


 いつもなら聞く耳さえ持たない言葉が、何故が私の中に何度もこだまし始める。

 私が邪神。言い返す言葉が無い。私はこの時代に歪みを来す厄介者。厄介者どころではない、存在さえ許されない人間だということは、紛れもない事実だった。


「殺すのだ!」


 両手を天井に向けた大神官から放たれた。

 反響する声に、びくりと私の身体が怯む。


「殺すのだ!あの邪神を!!」


 天井に向いていた指はやがて私を指し示した。槍か何かで胸を一突きにされた衝撃が身体を巡った。


「何を仰るか!」


 カーメスとセテムが顔を真っ青にさせて同時に叫んだ。


「このままでは我が国は滅びる!!あの娘を殺すのだ!!」


 私を、殺す。

 ナルメルやセテムの反論の怒声が耳を掠めると同時に、殺すという言葉に諦めのような、やむを得ないという感情が巣食い始める。

 このまま私がこの時代に居る訳にはいかない。

 ならば、私は消えた方がいいのかもしれない。帰る場所もなくて、居場所も無いのなら。

 ここで命を断って、これ以上歴史に歪みを生まないように。


「衛兵!あの邪神を囲み、その槍で射ぬくのだ!生かしてはならぬ!生かしていれば、いずれ世は滅びるであろう!」


 ネチェルの震える腕が私を強く抱く。セテムの、カーメスの、ナルメルの声がする。

 そんな中であっても、私の中で音を轟かせながら近づいてくるのは、彼女のぬくもりでもなく、私を守ろうとしてくれる彼らの声でもなく、絶望しかなかった。

 俯いて、胸を抑えて自分の鼓動を感じた。規則正しく鳴るこの音を止めようと、多くの足音が動き出す。神に仕える最高神官の命令で、槍を持った兵たちが。


「殺せ!殺すのだ!」

「黙れ!!」


 突如すべてを貫いた声に、誰もが口を噤んだ。

 噤んだというよりは、声というものを失ったと言う方が正しいかもしれない。


「それ以上無駄口を叩くならば、その口引き裂いてくれる……!!」


 10人ほどの医師が取り巻いた寝台の方に、聞こえた声の主を探す。


「我が妻となるその娘に手を出せば、何人たりとも、許しはせぬぞ!!」


 動じたように後ずさる医師たちの間に現れたのは、焦げ茶の髪だった。ハヤブサのように鋭く光る、赤が走る淡褐色。

 侍医に支えられるようにしながら、その人が上下に肩を揺らす上半身を寝台から起こし、ずっと遠くにいるアイを睨みつけていた。


「……ファラオ、あまりご無理をなさいますな。毒が回ります」


 侍医の声など聞こえていないかのように、彼はいつも以上の猛威を振るっている。

 毒のせいで弱っていながら、顔色も悪いのにも関わらず、声はその場すべての者の頭の芯を地震のごとく揺らめかす。


「手出しをすればその心の臓」


 手を前に出し、握られた拳に骨と血管を浮き出して周りに見せつける。どれだけ強く、固く握られているか、遠くからでも分かるほどだ。


「我が手で握り潰し、神に捧げてくれる」


 私に近づいていた兵士たちがさっと顔色を変え、石のごとく身体を固めてしまう。

 音も何も失くしたその部屋を、淡褐色がゆっくりと回り、やがて私を捉えた。彼の眼差しが、赤から優しさを帯びた色へと変わる。


「ヒロコ」


 そう呼んで握りしめられた拳をそっと開き、差し出すように掌の柔らかさを私に向ける。


「……ヒロコ」


 もう一度。

 それに引き寄せられるように、私の足がおぼつかないながらも歩き出す。差し出された手の方へ。


 出された手に、自分の手を重ねたら、握られる。

 燃えるように熱い。微笑みを見せる顔色は、泣き出したくなる程悪いのに。それが蛇の毒のせいだと思ったら、一気に涙が溢れてほろほろと頬を行った。


「何故泣く。私が蛇毒ごときで死ぬはずなどないというのに」


 膝を床についたら、彼の手が私の手から頬へと移る。


「……ごめんなさい、ごめんなさい」


 頬にある彼の手を、両手で上から包んで頬を摺り寄せて口から紡がれるのは謝罪しかなかった。その手元に蛇の牙の跡があり、その周りの皮膚が毒で黒く変色しているのが見える。

 彼の左肩を支えていた侍医がゆっくりと放し、彼はまた寝台に横たわり、安堵したように息をついた。


「……これほどにぼろぼろと泣く者が、どうして、邪神などと言われなければならぬのか」


 再度私の頬の涙を拭いながら、彼は「悩ましい」と首を傾げる。


「案ずるな、決してお前を殺させたりなどせぬ。……もしお前の髪一本でも傷つけられようものなら、その者を私が焼き殺そう」


 髪を撫でて彼は笑う。


 あなた、そんな恐いこと言える立場じゃないでしょう。

 言って、笑える状態じゃないでしょう。


 言い返したいのに、言葉が喉に絡まって出てきてくれなかった。


「……ヒロコが私の毒を吸い出してくれたおかげで、回った毒は少ないらしいぞ」


 私の乱れた髪を撫でながら、弱々しく冗談を乗せて言った。

 あれに効果があったのかと少し驚いた顔をしたら、向かい側の侍医が大きく頷いてくれた。


「蛇が子供であったことと、回る毒の量の少なさから、症状の進行は遅いかと思われますが……心の臓まで達するのはファラオの体力を踏まえると、おそらく10日から15日前後かと」


 その言葉に、はっと頭を巡らす。

 コブラの毒は神経毒。神経毒は電位依存型イオンチャネルに影響を与えることで作用する、最初は四肢の筋組織、次に呼吸筋、そして最終的には呼吸困難、心臓停止まで引き起こす。


「……身体が熱いのと、言うことを聞かないのには参るが、まあ10日もあれば何とでもなろう」


 身体が熱いのは、毒が全身に回り、身体が拒絶を起こしているからだ。身体が言うことを聞かないということは、もう筋組織に毒が周り、生理現象を止めてしまっているということになる。


「毒を、除くには……」


 血清療法という一般的に解毒と呼ばれる治療法がある。だが、この時代にそんなものは無い。

 10日間から15日間。それまでに奇跡が起きない限り、助かることはない。

 手も足も動かせなくなり、呼吸が苦しくなり、最後は心臓も──。


 彼は、死んでしまう。


「すまぬ……少し、辛い」


 私から手を離し、彼は侍医の方に目を向けた。

 どうにかせよと、いつものように無理難題を人に押し付ける。苦しいというのが一目で分かる。呼吸もまばらだ。


「ヒロコは、傍にいろ」


 苦しいながらも淡褐色を覗かせ、愕然としている私に笑って見せた。

 でも、すぐに彼の顔は、薬草を飲ませようとする侍医の手で遮られてしまう。

 感じたことのない恐怖が、私を心を支配する。


 嫌。

 堰を切ったように涙が溢れだして、頭を抱える。恐怖が私を覆って、混乱に陥れる。

 ネチェルのものと思われる手が、私の背中を擦った。


 どうすればいい。どうすればいいのだろう。

 頭をどんなに捻っても、血清を作る方法なんて知らない。私の知識なんて、何の役にも立たない。苦しんでいる彼をじっと横で見ているだけしか出来ない。

 涙が落ちて、床に座り込んだ。

 握りしめた拳の上に、目から落ちる大きな粒が散って行く。


 何も。この手で何も、出来やしない。

 自分の非力さに、悔しさに埋もれ、床に泣き伏しそうになった時。



『──弘子』



 遠い、呼び声を聞いた。

 ざわりと鳥肌が立つ、響きだ。


 辺りを見回してみても、誰もが黙って俯いたり、心配そうにこちらを見ていたりするだけで、声を出して私を呼ぶ人はいない。

 そもそも、ヒロコと私の本名を呼ぶのはこの世界で彼ただ一人。なのに、どうして。


 もしかして、良樹だろうか。現代にいるはずの良樹が、私を呼んでいるのだろうか。


「姫様?いかがいたしました?」


 背後から聞こえるネチェル声が、遠い。代りに私の耳を突くのは別の声。



『――弘子』



違う。良樹じゃない。


「誰……?」

「ヒロコ?どうした」


 声を探そうと立ち上がる私に、彼がぎこちなく頭を動かし、私に視線を向けていた。

 しかし彼の声もおぼろだ。一番近いはずの声たちを遠くに投げやって、遠くから聞こえるはずの呼び声が頭の芯にまで達するほど近くに感じた。聞こえてくる不思議な呼び声は、何もかもを飲み込んでしまう。


 もう一度。

 もう一度、その声を、聞かせて。



『──弘子』



 砂漠の砂嵐に消されそうな声音に、はっと息を呑んだ。

 彼の、声だ。ずっと遠くから、砂嵐の中で鳴っているようなこの声は、間違いなく寝台の上で私を見つめる彼の声。

 でも、彼は綺麗に私の名を呼べない。片言で、呼び切れていない名で、いつも私を呼ぶ。それでなくとも、今彼は私を呼んでいない。

 彼でもなく、良樹でもない。なのに、言葉に出来ない感情が胸に湧き上がる。


「ヒロコ」

『──弘子』


近くにいる彼の声と呼び声が重なる。


「誰なの」


 もしかして、彼を助けてくれる人だろうか。誰かが、彼を助けようとしてくれているのだろうか。寝台の彼から離れ、宛ても無く、声の主を探そうと一歩、足を進めた。



『──返事を』

「あなたは誰……!」


 さっきより明瞭な声で問い返した瞬間、どこからともなく黄金の眩い光が溢れた。

 夜の黒の世界から、金の世界に変わっていく。髪が吹き荒れ、息が止まってしまうくらいの黄金の風が声を上げる間も与えず、私を包んだ。


「ひ、姫様!!!」


 悲鳴が聞こえる。ネチェルや兵士たちの。


 黄金の粒を煌めかせ舞う突風に、誰もが顔を覆う。彼も、髪をこの激しい風に短い髪をなびかせながら目を見開いている。吃驚で、声が出ないといった様子で私を淡褐色の瞳に映している。


「アンク……!!」


 光が私の身体を絡め取る。背筋が凍る。

 嘘だ。だってこれは。この感覚は。


「ヒロコ!!」


 ぐいと光の中に引っ張られ、視界の中にいた人々の顔が、光のせいでぼやけ始める。


 ああ、まさか。


 喉が石にでもなってしまったのか、声と呼べる声が出ない。

 信じられない出来事が今、私の身に起きようとしている。

 あの日と、重なる。あの非現実なことがまた再び。


「ヒロコ!行くな……!!」


 我に返ったような彼が、僅かに上半身を起こし、私に手を伸ばした。

 私も懸命に手を伸ばし返すのに。千切れんばかりに伸ばすのに。彼の手に、私の手は届かない。あれほど近くにいたのに。長い褐色の指と、私の指が、触れ合うことはない。

 あの時と同じ。全部。全部、同じだ。


「アンク!」


 私の潰れた声は、掻き消される。彼の姿が黄金の中に消えていく。見開かれた淡褐色が、見えなくなる。


「ヒロ……」


 声は途切れ、私は黄金の中に投げ出された。







 流れる黄金のナイル。

 上も下も、右も左も分からない、煌めく大河。


 3300年の時を流れる川。この先に続くのは、おそらく──。


「……だ、駄目!!」


 帰れない。彼を置いて、もとの時代になんて帰れる訳がない。

 このままでは彼が死んでしまう。死んでしまう。


「戻して!!」


 叫んでも暴れても、流れに逆らおうとしても、私は流れていく。時空を、流れていく。


「アンク!」


 そして。



『──弘子』



 あの声。私を黄金に引きずり込んだ、正体の知れない声が頭に鳴る。鳴り響く。


 もう呼ばないで。

 あなたは誰。彼の声なのに、彼ではない。


 問いかけながら、流れ行く先の黄金を見つめる。



『──戻れ』



 声の直後、何かで打ち付けられたような激しい頭痛が私を襲った。びくりと身体中の血管が跳ねて、あまりの痛みに、身体を丸めて頭を抱える。


 痛い。頭が、割れてしまいそうだ。脳が、頭蓋骨の中で暴れているよう。

 気が遠くなると同時に、胸にあった想いが、大切なものが、黄金に散っていくのを見た。ハスの花びらが落ちて行くように黄金の川に散っていくのが。


『──弘子』


 最後の声で、視界に霞んで映ったのは白い光。

 あの日も私は、そこを越えた。そして今回も。


 白光の先。誰かが両手を広げている。

 金色に、独特な眼差しを持つその目を細め、もう一度私の名を呼んだ。



 私は落ちる。その人の上へ。

 重力に従い、投げ出された私を、褐色の腕がしかと抱き止めた。同時に足元の砂漠の砂が舞う。

 そのまま屈み込み、ひしと私を抱き直す。存在を噛みしめるように腕に力を込め、強く、強く。


 呼吸の音が聞こえる。鼓動が聞こえる。



 ──誰。あなたは誰。



 問いたいのに、声はもう出てくれない。頭痛に侵されて、身体さえいうことを聞いてくれない。視線を上げて霞む目を凝らし、相手の胸元の服を掴んで、正体を探ろうと足掻くけれど、口元までしか映してくれない。薄い唇しか、映してくれない。

 一度、私の顎に指を伝わせ、その人は再び腕に、胸に私を埋める。


 私は抱かれるまま、その人の肩越しに、砂漠の地平線に顔を出し始めた白い太陽を見た。

 闇に沈む群青の砂漠を静かに照らしだす朝陽の姿は、とても美しいもののはずなのに、何故かそれをくすんでいると思った。


 意識が薄れていく中、耳元で声が鳴る。懐かしさを植え付ける、吐息を交えた押し殺すような声が。


「──君は、覚えているだろうか」


 手から力が抜け、支えることを忘れた私の身体はだらりと落ちる。感覚と言うものがすべて消滅し、私を真白に染めていく。


「弘子」



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