外へ

 どんなに夜と朝が交互にやってきても、何度眠って、両親の夢を見ても、目覚めた先にあるのは変わらない世界だった。

 電気も、ガスもない3000年くらい前のエジプト。


 彼が言ったように、ここで目覚めて十日間、私は宮殿という場所から一歩たりとも外に出しては貰えなかった。


 こんな場所に押し込まれていては気が狂ってしまいそうだとうんざりしながら、寝台に腰を下ろして、手に握る携帯を見つめる。


 あれから何度か両親に掛けてみたものの、当たり前というように繋がることはない。充電がなくなるのが怖くて、電源を消してただ握りしめるだけの日々。白いそれを指で撫でで、口から漏れるのはため息ばかりだ。


 外に出られれば、家族がいるかもしれない。


 両親も良樹もメアリーもいるかもしれない。ここだけが変な空間なのかもしれない。そう信じて疑わない私がいる。


 それを確かめるために、どうしても外に出たかった。


「何をお考えです」


 冷めた声がすぐ傍で響いた。目をやると、傍にいるセテムと視線がかち合う。


「また脱走を考えているのではありませんか」

「悪い?」


 彼に命じられたのか、いつも私の傍に跪いている。まるで金魚の糞。クソと呼んでやりたくなる。


 何度か脱走を図ろうと、目を盗んで一目散に扉に向かって駆けだしたり、随分と高い所から飛び降りて脱出を図ろうとしたが、結局はこの忠犬セテムに見つかり取り押さえられて、すべて失敗に終わってしまった。


 セテム自身も結構偉い身分らしく、多くの兵士を従えていることもあり、一声上げればすぐに何十人もの兵士が私を包囲する。


「姫は記憶を失くしたままにいらっしゃいます。もしそれが神官たちに露顕すれば大変なことになるのですよ?お分かりですか」

「知ったことじゃないわ」


 神官が何だって言うの。あんなおじさん集団がどうだろうが、私には関係ない。

 そんな私の態度にセテムは顔を顰めた。


「何故記憶を失ってしまわれたのか……それだけが悔やまれます」


 私の周りにいる人には、私が記憶喪失という話で通っている。さすがに「私、実は未来人です」なんて言ったらどうなるか分からない。頭が狂っていると思われて、変な儀式にでも出されたらそれこそ大変なことだ。


「生前はとても麗しく、美しく、素晴らしい御方だったというのに、なぜこんなに御変わりになられたのか……あの世にすべてを置いてこられてしまったのか…」


 セテムはぶつぶつとそんなことを繰り返す。


 またアンケセナーメンと私を比べているというのが嫌でも分かった。全くの別人なのに、ファラオ以外のすべての人は私がアンケセナーメンの甦りであるということを疑わない。


 そんなにそっくりなら逆に会ってみたいものだ。死んでしまっていてはどうしようもないことだけれど。


「セテム様、そんな毎日のようにくっついていらしては、姫様もうんざりしてしまいますよ」


 優しい声がセテムのぼやきに覆いかぶさった。


「ネチェル殿」


 セテムと一緒に振り返ると女官の長というネチェルが立っていた。

 近所のおばさん的な雰囲気を出している、現代で言えば家政婦長みたいな役割の人だと言う。私の身の回りの世話全般を受け持っていた。


「セテム殿にこれでもかというほど付きまとわれて、うんざりしない方がおかしいというものです」

「ファラオの御命令ですので」


 ツンとした仕草で返す。愛想のない人だ。


「ファラオがお留守の間、姫が逃げ出さぬようにと強く言いつけられております。姫は記憶を失い、突然奇妙な行動をとる可能性が非常に大きいからと」


 ファラオと呼ばれる彼には大変な目に遭わされそうになったものの、あの夜はそのまま何事もなかったらしく、目覚めたら一人だった。


 優しい人なのか、乱暴な人なのか、自分勝手な人なのか、よく分からない。あの時、あの人の言葉に甘えてそのまま抱かれて眠ってしまった自分が情けなかった。


「しかし顔はそのままでいらっしゃるというのに、この変わりようは」


 セテムは悩んでいる。またアンケセナーメンとの比較だ。


 ああ、うるさい。そんなの当たり前だと叫んでやりたい。

 でもそれを叫んでしまえば、混乱を招いてもっと面倒なことになるような気がして結局は言えない。

 私はただ、帰りたいだけなのだ。

 どうして呼び出されたのかも、どうやって帰るのかも分からない。そんな路頭に迷った私の気持ちを分かってくれる人など、一人もいない。それがあまりにも切ない。


 両親も良樹もきっと私を探している。

 黄金の光に包まれて消えた私を、目の当たりにして頭を抱えているだろう。

 警察に言っても、信じてもらえない出来事だったはずだ。それほど非現実的だった。


 お母さん、寝込んでないかしら。強そうに見えて、意外に弱い人だから。


 お父さん、パニックになってないかしら。何か起こるとお母さんより顔を真っ青にさせて、慌ててしまう人だから。


 良樹はお父さんとお母さんを慰めてくれているかしら。いざという時はとても頼もしくて、優しい人だから。


 ルクソールの王家の谷にいたあの日が、とても遠くに感じる。


 そう言えば、良樹が私に言いたことがあると言っていたのを思い出す。「お前は焦らし甲斐があるから、18の誕生日に」と。

 自分の誕生日までもとの時代に戻れるかというのも分からない。

 やっぱりあの時、聞いておけば良かった。ルクソールについて行くなんて言わなければ良かった。家に閉じこもって、勉強していれば良かった。そうすれば、こんな目に遭わなくて済んだだろうに。


 後悔ばかりが先に立って、希望という言葉を消してしまう。


 ──ねえ、どうしたらいい?


 携帯を撫でながら、そんなことを問う。いつもなら、からかいながら良樹が助言してくれるのに。



『──弘子』



 顔を上げる。



『──どこにいるんだ』


 声。知っている声。

 ざわりと鳥肌が立つ。


『──弘子!!』

「……よ、しき?」


 鼓動が早くなるのを聞いて、脚に力が入る。

 立ち上がって、周りを見渡した。でもセテムとネチェル以外、誰もいない。古代の装飾に輝く私の部屋だ。


『──弘子!返事しろ!!』

「良樹…!?」


 胸が悲鳴を上げる。

 良樹の声だ。間違いない。小さい頃から、電話越しだったけれど毎日のように聞いてきた声だ。私をからかってきた優しい声を、忘れるはずがない。


「良樹!」

「……姫?」


 立ち上がった私の前に、セテムが立ちふさがった。


「いかがなされました」

「……声、が」

「声?」


 セテムとネチェルが首を傾げた。


『──弘子!!』

「ほら!」


 けれど、二人は意味が分からないというように顔を見合わせている。

 二人には聞こえてない。聞こえるのは、私だけ。


『──弘子!!』

「良樹……!」


 どくんと身体が脈打って、声の鳴る方へと駆け出す。セテムを押しやり、声が響く方へ進んだ。


『──みんなお前を探してる!!』


 私を。私を、みんなが。

 砂嵐の向こうから飛んでくる言葉に、目頭が熱くなる。


 扉を越え、大きな柱の並ぶ廊下に出た。


「良樹!!私、古代にいるの!!3000年前にいるの!!」

『──返事をしろ、弘子!』

「ここにいるの!アケトアテンにいるの……!!」


 知らない地名を叫ぶ。


『──返事をしろ!ずっと遺跡を回っているのに何で見つからない!』


 返事が聞こえてない。

 私の声が、届いていない。


「姫!お待ちください!!」

「姫様!!」


 彼らに追いつかれないよう、声のする方へ我武者羅になって走る。

 帰りたい。帰りたいの。


「良樹……!!」


 声に縋りつく。

 助けて欲しい。昔、木に登って降りられなくなった私を笑って助けてくれたように、また助けて欲しい。


『──弘子!!』


 その声に涙が泊まらなくなる。ここに来て何度流したか分からない涙が、宙を舞う。幻聴なのかもしれないのに、縋らずにはいられない。


 姿も見えないのだから。


「良樹!」


 叫んだ途端、何かにぶつかってよろめいた。その反動で手に握りしめていた携帯が落ちた音が響く。


「あ、け、携帯……」


 慌てて四つん這いになって携帯を握り、再び立ち上がって耳を澄ませる。誰に、何にぶつかったのかなんて、もうどうでもいい。

 何度も何度も周囲を見回して、声を探す。

 声が、聞こえなくなった。なくなってしまった。


「どこにいるの良樹!!」


 また聞かせてほしい。懐かしくて仕方のない、その声を。


「良樹!」


 前に立ち塞がる人々を押しのけて、相手の名を呼ぶ。きっと遺跡を回って私を探してくれているであろう彼の名前を。

 でも。あの砂嵐も、懐かしい声も、私の名前を呼ぶ声も。何も、聞こえない。


「ねえ……!!」


 言葉が出てこなくて、呼びかける。

 でも、もう聞こえない。何も。

 寂しさが怖いほどに私を襲ってきて、それに耐えられずその場に座り込んでしまった。


 携帯を胸に抱いて。また絶望の淵に落とされて、先が見えなくなる。暗闇に、光のない闇の中に落とされてしまう。


「……ヒロコ」


 目の前で、誰かが小さく呟くように私を呼んだ。

 周りに聞こえないよう、そっと囁かれる片言の名前だ。


「ヒロコ、どうした」


 顔を上げた私の頬に流れる涙を拭いながら、褐色の彼は言う。

 私を呼んだ人。黄金をまとう、この国の王。


「ファラオ、申し訳ありませぬ!姫がいきなり『声が』と仰せになられて、止めること叶わずこのようなところまで!!」


 セテムが彼に平伏した。

 この世の終わりと言わんばかりに頭を下げている。


「声?」

「ええ、姫様がいきなり声が聞こえると仰せになられて……私やセテム殿には聞こえなかったのですが…」


 ネチェルも同じように頭を下げて、そう言った。


「何があった、アンケセナーメン」


 名前が戻る。周りに人がいるからだ。

 嗚咽に邪魔されて答えられないでいる私を抱き上げ、彼は周りに集まってきた兵士やセテム、ネチェルを見やった。大丈夫だと言わんばかりの涼やかな笑顔で。


「少し動転しているのだ。甦るとなると実に面倒だな」


 その言葉に周りの人々がほっと息をついた。安心したように、その顔に微笑みを戻す。


「セテム、お前が気にすることはない」


 セテムは申し訳ありませんでしたと一礼し、一歩下がった。


「これから二人だけで少し話をする。誰も入ってくるな」

「畏まりました」


 私は小さな子供ようにしゃくりをあげながら、彼の腕に抱かれるまま進んでいった。






「で、何があった。声とは何だ」


 部屋に戻り、私を寝台に座らせた彼が、気難しい顔で訊ねてくる。


「泣いてばかりでは分からぬ。はっきりしろ」


 もううんざりだという相手の様子に私は身を竦ませた。

 目の前の獅子を象った木製の椅子に腰を下ろし、肘かけに指をトントンと打ち付けている。苛立ちを募らせているのが一目で分かった。


「皆私の言葉であるから信じてはいるが、このままではいずれ疑いを持つ者も現れるぞ。セテムはもうすでに危うい」


 私が変な行動を起こすたび、彼は甦ったせいだ、と言ってくれているから、皆それを信じている。


 さっきも同じ。甦りだからという大雑把な理由で誰もが納得するのは、それが彼の言葉だから。


 神と崇められるファラオの言葉だから、誰もが疑いを持つことはなく当たり前のように信じる。でも、もう限界が近い。それは私も何となく感じていた。


 あからさまに反抗することはないにしても、心のどこかで疑いを持ち始める人が少なからず出て来てしまう。


「だからもう泣くのはやめろと言っている。どれだけ私に迷惑をかけるつもりだ、お前は」


 未だにしゃくりが止まらなくて、それでも答えなければと口を開く。


「……声、が」

「誰の声だ」


 やっとのことで出た言葉に、彼は眉を顰める。


「……よ、しきの」

「ヨシキ?」


 寝台の傍に置いていたショルダーから手帳を取り出す。スケジュール帳で、私の学生証や、友達との写真も挟まっている。その中の1枚の写真。


 良樹がアメリカの医学大学に合格した時、その合格した学校前で優しい笑みを浮かべて写っている人。

 これが、良樹。

 随分前のものだから、少し幼さが残っている。


 充電が少なくなった携帯で見せるのは憚られて、その写真を取り出した。


「……この人」


 指差しながら彼に手渡す。


「何だこれは……男が紙の中にいるぞ」


 写真を受け取った彼はまた目を見開いた。


「……何故、ここに人がいる。閉じ込められているのか?いや、その割には笑顔だが」


 この時代に写真はない。こんなリアルに人を映すものなんて見せたら驚くのも当たり前だ。

 江戸時代の日本人でさえ、魂が取られると言って写真を撮るのを怖がったほど写真は不可思議な物だったのだから。


「絵みたいなものよ……ずっと後の未来に、発明されるの」


 拙い、短い説明に、彼は小さく頷いた。


「それで、この男の声が聞こえたと?」


 こくりと首を動かすだけの返事をする。


「もし、もしかしたら、良樹が、いるのかもしれない……王家の谷で、私を、探しているのかも、しれない」


 嗚咽の漏れる言葉を、たどたどしく並べていく。

 良樹が私を探しているとしたら、きっと私の消えた場所。黄金の光に呑まれたのは王家の谷。そこに行けば良樹に会えるかもしれない。もしかしたら良樹もこちらの時代にいるのかもしれない。

 やっぱり、外には私の知る世界があって、ここだけが古代になっているのかも知れない。


 自分でも辻褄の合わない、意味不明な言葉を並べていると思う。馬鹿げたことを言っていると思う。


 でも、そう思ったら余計涙が止まらなくなる。


「……い…って」


 感情に呑みこまれながら、言葉を発す。はたと彼は写真から顔を上げた。


「……お願い、連れて行って!!」


 どこにも遣れない衝動に任せて目の前の彼の腕を掴む。


「王家の谷に!私を連れて行って…!!」


 彼を揺さぶり、涙ながらに叫んだ。

 相手は意味が分からないと瞳を揺らしている。


「おうけの、たに?それは何だ」

「ファラオのお墓がたくさん埋められている場所よ!知ってるでしょう?エジプトの北……ナイルに沿うあの大きな茶色の谷……!そこに私を」


 私の言葉に、大きく淡褐色を揺らした。


「何故……」


 掛けられる声が、震えている。


「何故、その谷の存在を知っている」


 相手の驚く表情に、また父の言葉が甦った。


 王家の谷は王族が墓泥棒から墓を守るために、密かに作られた場所だった。おそらくこの時代だと、王族の秘密の場所に該当する。いきなり湧き出たように現れた私がその存在を知っているということは、絶対におかしい。


「王族と大臣しか知らぬ場所を……どうしてお前が知っている」

「連れて行って!!きっと、そこに行けば、外に出ればきっと!!」


 問いに答えず、悲鳴に似た声を上げた。

 狂い始めている。色んなことがありすぎて自分が狂い始めていると、心の片隅で感じた。分かっているのに止まらない。


「外にいるのよ!!お父さんも、お母さんも!私の世界も全部!!」


 彼が取り乱す私の肩を掴んだ。


「ヒロコ」

「みんないるの!!ここだけがおかしいのよ!!外に出たらいるの!!」


 自分でも訳の分からない言葉の羅列。

 乱れた息が、私の耳を突く。胸が苦しくなって涙がまた溢れ出る。


「ヒロコ、落ち着け」

「外にはビルも、学校も、電気も車も、何もかもがあって!!ここだけがおかしいの!!ここだけが別の世界なの!きっとそうよ!!」


 今まで縋りついてきたわずかな希望を、喚き散らす。

 頭を抱えて、その希望にこれでもかというほどに縋る。その希望さえ絶えてしまえば、もう自分がどうなるか分からなかった。


 きっと、外には。外に行けば、何もかもがある。


 呼吸が乱れて、過呼吸のような状態に陥る。苦しくて苦しくて、携帯を握った手で胸を抑えた。一種のパニック症状だと分かりながらも治まらない。治められる余裕が無かった。

 彼が何も言わなくなったことに気付いたその時、突然腕に痛みが走った。


「い、痛っ……!!」


 黄金の腕輪をはめた手が、私の腕を掴んでいる。


「な、何……」

「立て」


 ぐいと引かれ勢いで立ち上がると同時に、褐色の腕が腰に絡みつき、一気に抱き上げられた。

 何をする気なのか、彼は扉に向かって乱暴な足音を立てて歩き出す。


「ファラオ!」


 部屋を出ると、すぐさまセテムが走り寄ってきた。


「馬を準備せよ!」

「は……」

「馬を引けと言っている!!」

「すぐに準備を!」


 セテムが慌てて走って行き、その後を彼は私を抱いたまま大股で歩いて行く。何をされるか分からなくて身を縮めた。

 呼吸が整ってくれないからか、身体が言うことを聞かない。

 沢山の人々が頭を下げる中、一度も来たことのない廊下に出て、神の像が置かれた広間を抜けていく。

 その光景がここは古代だと私に知らしめる。網膜に届く何もかもが嫌で嫌で、思わず全てを遮断するように目を瞑った。


 きっと、外に出れば。

 何度も自分にそう言い聞かせる。


「ファラオ!馬をご用意いたしました!」


 声が聞こえて、顔をあげるとセテムと数人の兵士が白い馬を引いてきた。


「今からどこへ行かれるのです。陽はすでに傾きかけております」

「誰もついて来るな。すぐに戻る」


 セテムの声を遮り、私をつれてその馬に飛び乗る。


「そんな!危のうございます!!私も…」


 セテムの慌てる声に耳を貸さず、彼は手綱を引いた。





 砂の混じる風が私の髪を後ろに流していく。

 小さなスフィンクスの像に囲まれる参道を駆け、兵士の守る大きな門を通り抜ける。

 空にそびえ立つ柱を越え、視界が大きく開けた。外に出たのだと悟る。現代が広がっていると信じた王宮の外に、私たちは飛び出したのだと。

 何度も出たいと思った、外へ。


 沢山の宮殿のような建物をすり抜け、馬は走る。風に煽られながら、目を凝らす。私の求める世界があることを、ただ信じて。

 だが目に飛び込んできた光景にただ言葉を失った。ますます呼吸が乱れ、鼓動の速さが増す。

 黄土色の家々に、腰巻をつけた職人のような人々。馬やら牛やらが行き交う舗装されてない道。ナイル川の水を運ぶ、女性たち。白い腰巻をつけ、裸足で駆け回る小さな子供たち。所々にある神々の像。神の像に祈りを捧げる人々。

 排気ガスをまき散らす車も。青い空を覆う電線も。眩しいほどの灯りを生む電気も。熱を溜め、道を補正するコンクリートも。そびえ立つビルも。

 何もない。現代が、ない。


 古代。

 どこを見ても、どんなに目をこすっても、私を取り囲むのは古代そのもの。


 お父さんが笑いながら見せてくれた壁画が、目の前で動いている。現代なんて言葉は、どこにも存在しなかった。


「ここがお前の言っていた『外』だ」


 愕然としている私をしっかりと抱いたまま、馬を走らせる彼は言った。


「お前の言っていた世界など、一つもない」

「違う!!」


 鼓動が耳を突くほど早く鳴り響くのを感じつつ叫んだ。


 ──違う。


 嘘。嘘。何で。どうして。

 そんな言葉しか落ちてこない。


「い、いや…!!!」


 僅かな希望が断たれるのが怖くて、悲鳴を上げて手で目を塞いだ。

 信じたくない。

 私の世界が、どこにもないなんて。帰る道が、どこにもないなんて。


「塞ぐな!!その目で見ろ!」


 彼の片手が目を覆ったはずの私の手を払い、私の顎を掴んで周りの景色を突きつけた。


「ここがお前のいる世界だ!!受け入れろ!!」

「やめ、やめて!!」


 狂ってしまいそう。発狂してしまいそうだ。

 信じたくない。私だけがこの世界に落とされただなんて、信じたくない。


「やめて…!!!お願い、やめて!!」


 私の顎を強く掴むその手を剥がそうと涙ながらに訴える。なのに、離れてくれない。私に現実と言うものを浴びせてくる。また、涙に埋もれていく。

 こんな世界、見たくなかった。すべてを夢だと信じたかったのに。


「自分の立場を受け入れずに逃げるなど、気に食わぬ!!見ろ!!これが外だ!お前が言った外の風景だ!!」


 言われた途端、太陽の光に照らされた風景が視界に飛び込んできた。

 古代。私は、古代にいる。


「もうやめてっっ!!」


 顎にある彼の手を払って、世界を遮断しようと、視界を闇に放ってしまおうと、その胸に額を押し付けて目を固く閉じた。

 今までにないほど、嗚咽を漏らして喚いた。

 何となくどこかで感じていた自分の孤独を。それでも信じたくなかった事実を。この世界に堕ちたのは私だけなのだと、知っている人など、誰一人としていないのだと、これでもかと見せつけられて、どうしようもなく悲しくて、その胸にすがって泣き喚いた。

 唯一現代と変わらない、砂漠の砂の混じった風が、私の首筋を撫でていった。


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