未来の民

「……で、お前は未来から来たと?」


 私の部屋という場所で、私のものであるはずの寝台の上に足を組んだ格好で座りながら彼はつまらなそうに私の言葉を繰り返した。あの黄金の額当てを外し、羨ましいくらいの楽な格好でくつろいでいる。


「だから何度もそう言ってるでしょ」


 夜に包まれた世界に、小さな蝋燭のような光だけが灯って、私たちの影を揺らしている。


 偉そうな彼とは反対に、私は寝台の下に膝を抱いて座っているという惨めな姿だった。


「それも3000年くらい後だと?」


 馬鹿らしいと嘲るような言い様に腹を立てながらも、こくりと頷く。


「くらいとは何だ、もっとはっきりしないのか。曖昧なのは好きではない」

「そう言われても……」


 古代エジプトというのは私の個人的感覚で大体3000年前だ。残念ながらそれ以上は知らない。


「では、私の名は残っているのか?」

「は?」

「お前が来たという3000年後に我が名は残っているのかと聞いている」


 思えば、まだこの人の名前を聞いていない。

 そう思っていると、自ずと頭を横切る一つの名前がある。


 ツタンカーメン。


 私が光に包まれたのは、間違いなくあの墓だった。それも玄室、棺の前。


 もしかして、この人は──。


「……ああ、まだ名乗ってなかったな」


 コホンと咳払いをして、彼は口を開く。

 緊張が私の中を駆けていく。


「教えてやろう。我が名はトゥト・アンク・アテン。この上下エジプトを治める神ラーの子だ」


 ああ。全然知らない。


 何なのだろう、その長ったらしい名前は。ツタンカーメンと、一文字しか一致しない。

 ツタンカーメンだったなら、3300年前で、奥さんを残して早死にする人だってことくらい分かったのに。希望が断たれて項垂れてしまう。


「良い名だろう。父にもらったのだ。お前の変な名前とは大違いだ」

「変な名前って」


 それはこっちの台詞だ。


「そうだろう。異論は認めぬ。ヒロコなど、変だ」


 そんなに堂々と言われては、言い返す気力さえなくなってしまう。きっとこの人に何を言っても無駄なのだ。


「まあ、良い。そんな遠い未来のことになど興味はない」


 また自己完結。私の言い分になど、彼は本当に興味を持っていない。


「だが、これは実に奇妙な魔術の代物だな」


 もう目が回ってしまうくらいに次々と話が変わるのが、さっきから繰り広げられる彼との会話の特徴だった。自分の聞きたいことだけを聞いて、答えを聞かないまま次へと行ってしまう。


「こんなに眩しく光り輝いて……一体何の魔術を使っているのか。中に人がいるが、これは生きているのか?」


 私の携帯をつまむように持って、何度も何度も眺めまわしている。


 再三それは魔術じゃないと説明したのに、全く信じてくれない。


 彼の口から出てくるのは、呪いの光なのではないかとか、どうやって光を生んでいるのかとか、こちらが困る質問ばかり。古代の人の観点からすれば、それが当たり前なのかもしれないけれど。


 そのせいか、どうしても『携帯電話は遠く離れている人と話すことができるもの』という核心的なところまで説明が続かない。


「だが、信じられぬ」

「何が?」


 今度は携帯を傍に置いて、腕を組みながら顔を顰めていた。

 また話題が変わったのね、と何となく察する。


「お前がアンケセナーメンではないということは信じるが、未来から来たというのは信じられぬ。私は未来から呼んだ覚えはない。私が呼んだのは死の世界へと旅立ったアンケセナーメンだ。お前ではない」


 眉間に皺を寄せて、私の方を見やった。

 小さな光が彼の顔に明暗を作る。


「お前、嘘をついているのではあるまいな」


 睨んで威嚇してくる眼差しの中には、「嘘であれば命はないぞ」という言葉が混じっている。


「嘘なんてついてない!」

「ならば証明してみよ」


 うっと詰まってしまった。その携帯で信じてもらえないのなら、他に何で証明すればいいのか分からない。


「と、とにかく、あなたは私をもとの世界に帰せるんでしょ!?」


 慌てて話を逸らした。未来人かそうじゃないかなんて、もうどうでもいい。私は帰るのだから。


「早く帰して!嫌な思いして嘘ついたのよ!?私はアンケセナーメンですって!」


 立ち上がって、彼の目線になって訴える。早く帰りたい。


「帰す気などない」


 そんな私に、彼は表情を少しも変えずに口を開いた。


「お前は私の妃になる。この大いなるエジプトの王妃となるのだ」

「な、何勝手に決めてるの!!」


 私の抗議に、彼はフンと鼻を鳴らし、そっぽを向く。


「ちょっと!!帰してくれるって言ったじゃない!!嘘だったわけ?」

「帰し方など知らぬ」


 思わぬ言葉に目が点になった。


「はい?」


 だって、言ったじゃない。帰り方を考えてやってもいいと。自分にはそれが出来ると言わんばかりの笑みを私に突きつけて。


「嘘…ついたの…!?」

「嘘ではない。私は『帰る方法を』と言ったのだ。一応考えてやった。だが、分からなかった。それだけだ」

「あなたねえ」


 確かにそう言ったけれど。


 考えてやらなくもない、という言葉は覚えているけれど。私はあの自信に満ちた笑みを信用していたのに。その頭をフライパンか何かで殴りつけたくなる。


「確かに私はアンケセナーメンを甦らせようと、何度も何度も祈った。『どうして死んだ、どうして先に逝った、約束を果たさずに死ぬなど許さぬ、甦れ』と。何度もな」


 彼の並べる言葉は私が聞いた言葉そのものだ。声も、そのまま。間違いなく、私はそれに導かれてここへ来た。


「だが、その言葉に導かれて来たのはアンケセナーメンではなく、顔だけそっくりな意味の分からぬことをぎゃあぎゃあ喚くお前だ。私はお前を呼んではいないのに、お前が勝手にここへ来たのだ。私は悪くはない」

「そんな!!」


 怒りがふつふつと湧いてくる。


「とにかくお前は私の妻となる身だ。それだけの気質を早く身に付けよ」


 何を勝手に。


「だからさっきから何度も言ってるでしょ!?あなたと結婚なんてしない!絶対に嫌よ!」


 あの宴が終わってから、何度も同じ言葉を訴えているのに、彼が耳を貸すことはない。


「結婚とか妻とか言ってるけど、私とあなたは姉と弟の関係なんでしょ?近すぎるわ、反対されるに決まってる」


 いとこ同士ならともかく、姉弟同士なんておかしい。


 それなのに私の訴えに彼は眉を顰めた。


「お前は実に変なことを言う。神オシリスは妹イシスと夫婦になり、神セトも姉ネフィティスと夫婦になった。神々の化身である我らが何故神と同じことをしてはいけないのだ」


 さらりと言ってのける。私の方が常識外れだと言わんばかりだ。


「父と娘、母と息子が夫婦になることもあれば、兄と妹、姉と弟などよくあることだ。だからこそ、我ら王家は高貴な血を薄めることなく、ここまで栄華を極めてきた。どこがおかしい」


 そう言えば、お父さんがよく言っていた気がする。


 エジプトの神々は近親婚で、神々の化身と考えられていたエジプト王家は近親婚が当たり前だったと。


 血に別の一族が入れば、王家は王位を巡って分裂し、国は乱れる。それを防ぐ役割もあったのだと。


「で、でも、近親婚は駄目よ!血が近いと、遺伝子の問題があるのよ!生まれてくる子に障害だって……それにいろんな…」


 そこまで言ってはっとする。彼がもっと眉間の皺を深くして、首を傾げていた。変人でも見るような視線を私に向けて。


「イデンシ…?それは何だ?また何かの魔術か?」


 遺伝子なんて言葉が分かるはずがない。

 細胞という言葉も、染色体という言葉も、細胞分裂という言葉も。この時代にあるはずがない。


「とにかく!私はあなたと結婚なんてしない!帰る!」


 寝台の上にくつろぐ彼に背を向け、私は扉に向かって歩き出す。


「どこへ」

「私の時代よ!!」


 あの人が私を帰せないならば、私が帰る方法を見つけるしかない。


 この宮殿さえ出れば、きっと現代に帰れる。そんな希望に縋りつく。


「外に行っても、お前の時代の物はないぞ。このケータイという物の中に映るものなど何一つありはせぬぞ」

「そんなの行ってみないと分からないでしょ!?」


 感情に任せてずんずんと進み、あと少しで扉という時に、背後から鳴り響いたのは彼の声だった。


「セテム」


 言葉が発せられた途端、扉が開き、呼ばれた人がぬっと顔を出した。その後ろにも何人か兵士のような人が4、5人立っている。


「ちょっと!退いて!ここを出るの!」


 それでもセテムは退いてくれることなく、私に跪いた。跪きつつも、顔は私の方にしっかりと上げられている。


「記憶を失っていらっしゃるのに、どこへ行かれるのです。ファラオの元にお戻りください」


 この人を動物に例えるのなら犬だ。真摯な黒い目が、私にそう思わせた。


「嫌よ!私、帰る!こんなところになんて一秒たりとも長く居たくない!」

「お戻りください!!」


 吠えた相手に、咄嗟に身を竦めてしまった。


「ファラオの御命令は絶対!それに逆らうは死罪にございます!どうして逆らわれるのか!!」


 凄まじい形相でセテムは叫ぶ。


 逆らうならば、自分があなたを殺すとそう言っているようにも取れて、血の気が引いた。


「……ということだ、アンケセナーメン。私に逆らえばお前でも死罪になるぞ」


 いつの間にか「ファラオ」が私の後ろに立って、私の肩に腕を回していた。


「私の思い通りにならない者、怒りに触れた者はセテムが判断し、始末する」


 前に跪くその人を唖然として見つめた。

 最初に見たあの穏やかな色ではなく、野犬のような色をその瞳に湛えている。


「さすがに相手が王家の者だったならば、私の指示なしで命を奪うことはないがな」


 絶句している私を鼻で笑って、彼はセテムの方を向く。


「下がって良い」

「はっ」


 外へと繋がる通路が扉で塞がれ、犬はいなくなった。

 静けさが私の周りを取り巻く。


 そうだった、ここは古代。命の尊さを初めて説いたとされるイエス・キリストが生まれる1300年も前。


 偉い人の気に触れてしまえば、すぐさま殺され、命を奪われるそんな時代。人権という考えがない。


 おそらくこの人に逆らったら、私も迷わず殺される。それが、私の落とされた時代。


「今の私にはどうしてもアンケセナーメンの存在が必要だ。隣に人形のようにいれば良い。それだけだ、簡単だろう」


 愕然としている私の耳元にそう囁く。


「私の傍に居れば、何だって手に入るぞ。欲して得られぬものなどない。ファラオの妃だ。決して悪くはない身分だろう」

「馬鹿にしないでよ!!」


 肩に回る腕を薙ぎ払い、彼を睨みつけた。


「私は帰るのよ!!もとの時代に、絶対に帰るの!!人形なんてごめんだわ!」


 泣きそうになるのを堪えながら叫ぶ。


 こんな場所になんて、命がいくつあっても足らない場所になんて、いたくない。


「外には出さぬ。お前が別の時代から来たというのなら、それもまた神の意志。それに従い、ここで一生を過ごせば良い」

「私は神なんて信じてないの!日本人はね、無信教なのよ!」


 私の言葉にまた彼は首を傾げた。


「にほん、じん……?」


 この時代の日本はまだ縄文時代が始まったばかりの頃。卑弥呼さえ誕生していない時代ではないだろうか。

 エジプトと比べれば足元にも及ばない文明しかないから、何を言っても分かるはずがない。


 地球は丸く、多くの国と人種がいることも、エジプトという国がどんな地形をしているかも、この人には分からない。


「……この、肌の色をしている人種の、ほんの一部の人間のことよ」


 そう言って、黄金の腕輪がはめられた腕を見せつけた。


 白人でもなく、黒人でもない。黄色が薄く混じるのが、日本人を含むモンゴロイドの肌──黄色人種。

 このエジプトでは随分と珍しい肌の色のはずだ。

 みんな、私の肌の色が自分たちと違うのは、私が甦ったせいだと思っているようだけれど。


「この肌の色をして、遅れながらも文明を築く人が、ここからずっと離れた遠い東の場所でやがて現れる……それが日本人。私の、祖先」


 言葉を発するたびに、だんだん悲しさが募っていく。

 日本さえまともに出来てない時代に、私は落とされたのだと。


 私の故郷の、あの美しい島国の存在が認められていない、知っている人なんて誰もいやしない時代なのだと。日本人という民の名さえないのだと。


「では、ヒロコは異国の民か」


 そうねと、小さく頷く。

 この人にとって、私は外国人。私にとっても、彼は外国人だけど。


「だが、言葉は通じているぞ。毎回遠い異国の王と話す時は苦労するというのに」

「多分、私がこっちの言葉を知っているからよ」


 それには納得したように彼も頷いた。

 現代のエジプトと古代のエジプトで言葉が同じだとは思っていないが、通じるのだから不思議だ。


「確かにこの肌を見た時は驚いた。黄ばんでいたからな」


 黄ばんでるだなんて、失礼な言い方。


「私と比べれば、白く見えるが……」


 私の腕を掴んで、色んな角度から見ている。そんな珍しそうにじろじろ見られても困ってしまう。だんだん恥ずかしくなって、顔に熱が走り始めるのを感じていた。


「そうか」


 顔を上げると、彼の口端が嫌らしく上がったのが目に入る。その微笑みに、思わず身を固めた。危険だと、直感が叫んだ気がした。


「良いことを聞いた」


 素早く腕が伸びて、私の身体を絡め取る。


「な、何するの……!」


 逃げる暇さえ与えず、その腕が私を高々と抱き上げて肩に担ぐ。抗う私は、遠ざかる扉に嫌な予感を感じずにはいられなかった。


「ねえ!下ろして!!下ろしなさいってば!!」


 外へと繋がる扉がどんどん遠ざかり、どこへとも知らずに運ばれていく。


「ねえ……!!」


 背中をバンバン叩くのに、彼は歩みをやめない。


「ちょっ──!」


 いきなり降ろされたと思った時には、背中に寝台の柔らかさが広がっていて、あの淡褐色の瞳が、品定めをするような眼差しが私の上を流れていた。


「どいて!いきなり何するの!」


 私を組み敷く相手の身体を退けようとするのに、微動だにしない。長い指が、私の顎を流れるように滑った。他人の指の感触に、背筋がぞくりと震える。


「一度、遠い異国の女というものを抱いてみたかったのだ」

「は……?」


 今、この人、何と言っただろう。

 抱く?

 抱くって、ただのハグではなくて、もしかして。


「この私に抱いてもらえるのだ、喜べ」

「冗談言わないで!」


 言われていることが分かって、慌ててその腕に抗って叫んだ。


「私まだ17だし!まだそんな大人な夜はお断りで…!!」

「17?ちょうど良い年だろう。その頃には男の一人や二人、知っているものだろう」


 目の前の顔が笑ったと思ったら、首筋に何かが伝った。

 

 唇。

 知らない男の人の、唇。

 なぞるように、舐めるように、それは私の首筋を上から下へと流れていく。


「やっ、やだ……!!」


 覆いかぶさるその人を突き放そうと、腕を必死になって動かすのに、驚くほど効果がない。


「ちょっと…!やめて!!やだ…!」


 掠れた悲鳴が漏れたと同時に、唇が首から離れた。

 分かってくれたのか、と少し安堵が漏れた途端、さっと血の気が引く。


「嫌がる理由など何処にある」


 手が。

 私の顔を覗く人のその手が、私の足をゆっくりと撫でている。

 滑らかに、膝から太腿へと私の肌を辿って行く。


「未来から来たなどという戯言を、この私が信じるとでも思ったか」


 彼は嫌な笑みを浮かべている。馬鹿らしいと見下すような笑みだった。


 何をされているのか分からない。何を言われているのか分からない。


「どうせ、死んだアンケセナーメンに成りすますため、私の前に魔術で現れたのだろう?傷心の私に取り入ろうとしたか?馬鹿め」


 この人は、信じてない。

 私が未来から来た人間だと、私が訴えたすべてのことを、まったく信じてない。


「理由は知らぬが、その話に乗り、生まれも育ちも知れぬお前を王家に入れてやると言っているのだ。ファラオである私に抱かれるなど本望だろう。この世の女にとって、これほど幸福なことはないからな」


 私は王家に入ること目当てにやってきた、ただの人間だと。それを知った上で、アンケセナーメンという存在が必要だから受け入れてやると。彼はそう言っているのだ。


 だから自分に抱かれるのも本望だろうと。


「ち、違う…!私は本当に…」


 抑えられる身体でわずかに抵抗して反論しようとした。でも出てくる声はあまりにも弱々しかった。


「まだ言うか。ファラオである私が、そのような嘘に騙されるとでも思うか?なんと愚かな」


 ファラオという何万人の頂点に立つ人が、あんなちっぽけな携帯でいとも簡単にすべてを信じてくれると思った私が馬鹿だった。


 未来から来たなんて、嘘だと考える方が正しい判断なのかもしれない。傍から聞いていれば私の話なんて、ただの狂言。私が彼の立場だったなら、きっと信じない。


 身元も知れない、嘘をついているかもしれない私をあれだけすんなりと受け入れ、王家の姫であるアンケセナーメンと名乗らせたのは、その存在がこの人にとって無くてはならない存在だったから。


 どうしても欲しかったから、苦肉の策で私をアンケセナーメンとした。この人にとっては、ただそれだけだった。


 でも。私は、本当のことを言っている。


 本当に起きたことを、包み隠さず話している。


 なのに、信じてもらえないという事実が、あまりにも悲しい。私の悲痛な叫びが、ただの嘘としか聞こえてないことが、あまりにも遣る瀬無い。


「お願い…!やめて!!」


 手が、私の肌を這う。

 必死に抗うのに、その手が止まることはない。


 恐怖しかない。

 怖くて、怖くて、時間が経つたびに身体が思い通り動かなくなる。


「嬉しいならば素直に嬉しいと言えばいいだろう」


 笑って、彼は私の首に唇を這わせた。

 私の足に、その手を滑らせながら。知らない感触に、肌が悲鳴を上げる。


「やあ…っ!!!」


 涙が散った。

 どうして。どうして、こんな目に合わなくちゃいけないの。どうして、私はこんな場所に落とされたの。

 どうして、こんな人に襲われなくちゃいけないの。


「……お父さん…お、かあさん…」


 掠れた声。震えた声。

 涙の向こうに、両親二人の顔が霞む。

 上がる息に、震える体に、湧きあがる恐怖に、もう叫ぶことさえ出来ない。


 帰りたい。私は、帰りたいだけなのに。あの平和な世界に。当たり前の日常に。いつも顔を合わせていた、人たちのもとに。


 胸の上を這う手と、脚をなぞる指が、私を絶望の中に埋もれさせる。

 どんなに足掻いても、身体を動かそうと暴れてみても、押さえつける腕がそれを許さない。


──いや。やめて。触らないで。


 叫びが声にならない。溢れる恐怖が、舐めるような恥ずかしさが、声を奪ってしまう。

 もう駄目。こんな分からない時代で私は。

 私は、この人に──。



 絶望に沈んだのを感じた時、私の身体の上にあった手が、ぴたりと動きを止めた。

 闇に響くのは、私の荒い息遣いだけ。事態を把握できず、時間が止まったような錯覚に陥る。


「──のか?」


 上から声が降ってきた。

 涙と辺りの暗さで、自分を覗く相手の顔がどんな表情なのか、分からない。


「……本気で、泣いているのか?」


 脚から手が離れ、涙の伝う私の頬を撫でる。


「何故、泣いている」


 金色を孕む声が、闇を駆ける。

 この人はやはり黄金の人だと、心のどこかでこんな時にさえ思えた。


「私はファラオだぞ」


 言う通り、その身分以上に偉い人はいないのだろう。でも、それが何だと言うのか。


「何故、ファラオに抱かれることを泣いて嫌がる」


 不可解なものを見るような眼差しを私に向けている。


「女にとって、これほどの幸福はないはずだ。今までも、このようなことはなかった。女ならば尻尾を振って私に身を差し出す。なのに何故、お前は泣く」


 腸が煮える想いがして、勢いに任せて手を振りあげた。私の掌が生んだ音が漆黒に弾ける。


「ファラオが……ファラオが何だってのよ…!!」


 解放された身体を素早く起こして、喚いた。

 何をされたか分からないというような顔をして、彼は唖然と私を見つめていた。


「好きでもない人となんて、誰だって嫌よ!!自惚れないで!!」


 涙がぼろぼろと零れていく。


「それに……私…私は嘘なんかついてない!未来から来たのよ!!こんな場所になんて来たくなかった!!幸せに、楽しく、お父さんとお母さんと一緒に過ごしてたのよ!メアリーとも、良樹とも、先生たちとも…!!」


 この人の声さえ聞こえなければ、こんな所に来ることなんてなかったのに。こんな思いをすることもなかったのに。


 誰が好き好んでこんな世界に来るって言うの。誰がこんな乱暴な人に惚れるって言うの。抱かれたいだなんて思うの。


「あの生活が何よりも幸せだったのに、私はあなたに呼び出された!!あなたは私の当たり前で幸せな日常を壊したの!!」


 唇が這った首筋にも、撫でられた胸にも脚にも、気持ち悪いほど生々しくあの感触が残っている。感触が残る部分を擦って、自分の身体を抱きしめて、精一杯に叫んだ。


「西暦2011年!そこが私の生きる時代!!あなたが私を呼び出した時代よ!!」


 彼にとっては訳の分からない言葉の羅列だと思う。

 西暦なんて言葉もないだろうし、私の言う幸せな世界の意味さえ、分からないだろう。


 でも止まらない。怒りだか、悲しみだか、自分でも分からない感情が爆発してしまう。


「帰してよ!!帰しなさいよ…!!」


 これ以上訴える言葉が見つからない。


「帰して…!」


 帰りたい。

 それが、私のただ一つの願いだ。



「……未来の、民」


 声に顔を上げると、彼は驚いたように私を見ていた。黄金が瞳に揺れている。


「ただのエジプト王家の失脚を狙う魔術の盛んな異国の女か何かと思っていたが…考え方がまるで違う。お前の言うことは、意味の分からぬことばかり……本当に未来の…それならば、納得が行く」


 呟く声。信じられないと言った顔。


「だから言ってるじゃない…!私は未来人で、あなたは古代人!!こんな世界より何倍も進んだ、発展した世界に、私は…私は…!!」


 懐かしい、恋しい世界を思い浮かべたら、滝のように涙が溢れて止まらなくなる。そのまま寝台の上で膝を抱いて、嗚咽を漏らした。


 狂ってしまいそう。狂って、死んでしまいそうだ。


「……泣くな」


 声が聞こえ、半ば強引に引き寄せられて褐色の腕の中に沈んだ。


「や、やめ…」

「ヒロコ」


 また名前。

 弘子。私の名前。

 腕に抗おうとするのに、名前を呼ばれたせいか、腕に力が入らなかった。泣くことだけで、精一杯。


「泣かれるのは、好きではない」


 顔を上げると、目の前にあったのはその人の優しさと憐みの混じったような、それでも気難しそうな顔。

 どうしたらいいか分からないと言った、戸惑いも見え隠れしている。


「お前が未来から来た、というのは何となくだが、信じてやる」


 長い指で私の涙を拭って、そんなことを言った。じゃあ今まで流した涙は何だと思ってたの、と言ってやりたくなる。


「だが、アンケセナーメンという存在が今の私に必要なのには変わりはない。それに、お前を帰す方法を知らないというのも事実だ」


 帰し方を知らない、というのは嘘でも良かったのに。


「でも私…」

「外には出さぬぞ」


 私の言いたいことを、的確に突いて来た。憐みを消した眼差しに私が映る。


「どこの輩とも知れぬお前を、我が民の前に出すわけにはいかぬ。しばらくこの王宮で様子を見る」

「い、嫌よ…!」


 外には知っている世界が広がっているかもしれない、というわずかな希望を捨てたわけではない。


 外にさえ、行けばまた。またきっと、家族に会える。そう信じて疑わない私がいた。


「私、外に行…」

「反論は許さぬ。一歩たりとも、お前の外出を認めるつもりはない。見張りもつける」


 いいな、と彼は念を押す。黄金の混じる淡褐色に私を映しながら。それが私に口答えを決して許さない。


「……とんだ、一日だった」


 静けさを取り戻した中で、こちらに聞こえるか聞こえないか際どい大きさで彼はそう呟いた。


 私にとってもとんだ一日だったのに。家族旅行の日が、まさかタイムスリップする日になるなんて誰が想像するだろう。


「抱こうとした女に叩かれたのは初めてだぞ。いや、叩かれたなど生まれてこのかた初めてのことだ」


 はっとする。目の前に浮かぶ彼の左頬は見事に真っ赤になっている。

 ファラオを叩いてしまったら、主君に忠実なセテムがどんな反応をするか分かったものじゃない。殺されてしまう。


「案ずるな、セテムには転んだとでも言っておく。お前にいなくなられては困る」


 顔を青ざめさせた私に、彼は自分の頬を擦りながら苦笑した。


「今夜は抱かぬ。泣き喚く女を抱くほど物好きではない」


 私の頭をポンと叩いて、少し柔らかく笑った。そんな優しい綻びを見るのは初めてのことで思わず身体から力が抜ける。


「絶対に、抱かぬ」


 信じられなくて、顔を顰めると彼も顔を顰めた。


「誇り高きエジプトのファラオが嘘などつくと思っているのか」


 即答でこくんこくんと5回連続で頷く。そんな私を驚いたような目で見つめてきた。淡褐色の瞳がこれでもかと大きく開いて黄金を走らせる。


 仕方ないじゃない。

 今までのことを考えると彼が正直者とはどうしても思えない。それにファラオといったって、ただの人だろう。


「……恐れを知らぬな、本当に未来の民か」


 確かにファラオと言う人を嘘つきだと肯定する人なんてこの時代には一人もいないのだと思う。何と言っても、エジプトはファラオがすべてだから。

 やがて彼はため息をついて、私の頭を撫でた。小さな子をあやすように、よしよしと。


「ならばこうしよう」


 人差し指を出して、私を覗く。


「もし私が約束を破り、お前を抱いてしまったら明日、私は自らセテムに私を殺せと命じよう」


 殺すという言葉にどきりと目を見張る。何て野蛮な言葉を簡単に使うのかしら。

 殺すという意味がどういうことか、分かっているのかと不安になる。


「セテムは私の命令には必ず従う。私が『お前の主、トゥト・アンク・アテンを殺せ』と言えば、あの者は確実に私を殺すだろう」


 言われてみれば、あの忠犬のような人ならば、本当にやってしまいそう。

 主人を殺して、あとから自殺するタイプだ。絶対に。


「変わった娘だ。アンケセナーメンに瓜二つなのといい、変な言葉を連発するところといい、変な黄ばんだ肌といい、実に面白い。一晩くらい傍にいさせろ」


 傍にいさせろって。

 一晩だって十分に長いのに。


「私に抱かれたくないと泣いた女など初めてだ。今に見ていろ。抱いてくださいと縋りつかせてやるぞ」


 にっと口端を上げて、私の顔を覗く。

 呆れてしまう。この人はどれだけ自惚れているのだろう。

 絶句している私から目を逸らし、彼は寝台の下から何かを拾って、私に渡してくれた。


「大事なものなのだろう?」


 手渡されたのは私の携帯だった。


 白い、この時代にはない素材で出来ている未来の産物。遠くの人と連絡が取れる、私の希望。


 現代の香りを灯すそれを開けると、手の中に光を宿す。私の時代の光。


 いつもなら、何とも思わない小さな灯りなのに、ここでは目を覆ってしまうほど強い灯りに見える。彼も私も携帯を開いた途端に目を細めた。それほどにこの時代の夜は暗い。


 眩しすぎる光を胸に強く抱いて、俯いた。

 唯一の、現代と私を繋ぐもの。


 目を伏せた途端、涙がまた頬に伝って行く。ぱらぱらと、止めどなく。下に落ちては白の中に沁みこんでいく。


「ほら、泣くな」


 そう言って、彼は私をその胸に抱き寄せた。あやすように、背中をぽんぽんと叩く。


「未来の民は、赤ん坊のようにすぐ泣くのだな」


 あなたのせいよ、と言い返したかったけれど、溢れる想いに滞ってしまう。

 嗚咽まで漏らす私は、褐色の腕の中に埋もれた。


「このまま眠れ、ヒロコ」


 その声で呼ばれると、抗う気持ちが自然と消え失せる。どうしてか、分からない。あんな嫌な目に遭わされたのに。

 でも、私を包むぬくもりの中、ゆっくり瞼が閉じていく。眠りの世界に誘われていく。


 その中で、今まで味わった何もかもが夢であることを、ただただ切実に願った。このまま眠って、醒めたら実は夢でした、という結末を心の底から。


 起きたら、いつもの私の部屋で。学校に遅刻してしまうと焦って。階段を駆け下りると、朝ごはんの暖かい香りを感じて。


 お母さんが朝ごはんを作っていて、変な夢を見たと泣き出す私に、「馬鹿ね」と言う。

 お父さんが私の話を聞いて、「夢の中の古代がどんなだったか教えてくれ」と、私を質問攻めにする。


 良樹が、「弘子は夢で泣くのか、馬鹿だなあ」と私の髪をくしゃくしゃに撫でながらからかう。


 そんな懐かしい世界に目覚めることを、願い、信じながら、彼の身を包む麻に涙を沁みこませていった。



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