現代・古代
目の前に広がる空間に、私は唖然とすることしかできなかった。夢でも見ているではないかと何回頬をつねったか分からない。
目が眩むほどの高い神像に、壁に描かれた美しい壁画がある。あちらこちらにある天井を支える円柱には様々な色が波打ち踊っている。
窓はなく、空間は外に大きく開けて空間の隅に置かれた大きな炎たちが、夕暮れから夜へと変わった暗い外に赤と橙色の混じる灯りを放っていた。どこを見回しても火ばかりで電気の灯りがない。
時代が生んだ、現代人にとって必要不可欠な発明が一つもない。
そして今私が腰を下ろす白いソファーのような椅子も、ソファーのように柔らかいものではなく、何枚も絹のような布を重ね、脚のないソファー状の形にしたものだった。
私と先程私を無理に連れてきた彼を中心とし、囲むように沢山の人々が同じような椅子に腰を下ろしてくつろぎ、お酒を飲んで談笑している。
服装は腰巻、首飾り、そして頭巾。つるつる坊主の人や、おかっぱのようなカツラを被っている人もいるが、それは身分を表しているようでもあった。
広間の中心、私の目前の開かれた空間ではハープや笛のような、よく博物館で見かけた古代の楽器が奏でられ、その音楽に合わせて女性が豊かな胸を露わにして妖艶に身体をくねらせて踊っている。踊り子だろうか。
変わった、聞いたこともない独特の曲調はどこか私には落ち着かない。恥ずかしげもなく踊る女の人、それを楽しげに眺める周囲の人々。どこに目をやったらいいか分からず手元に視線を落とすと、ブドウやらパンやら、名前の知らない果物が山のように並べられ、ステーキのような料理まで置かれている。運ばれてきた時は、あまりの豪華さに言葉を失ってしまったものだ。
なんて煌びやかな世界だろう。栄華とはこういうことを言うのだ。
こんな光景を眺めている内に私の胸が悲鳴をあげた。ここは私の『時代』ではない。私の『場所』ではない。絶対に違う。
古代だ。私の前に広がる光景は、父から散々話で聞かされた古代エジプトと同じだ。
何の王朝かも、西暦何年かも分からない。信じたくないと思いつつも、私のどこかが悟らざるを得なかった。ここは古代なのだと。私は時を越えてここにいるのだと。
「いやはや、本当に甦りになられるとは!実に素晴らしい!」
「やはり人は甦ることができるのだ」
「これでエジプトも安泰というもの」
喜びに満ちた声があちらこちらから耳に入ってきた。何もかもを遮断してしまいたくて耳を塞ぐ。知らない、信じられない光景を目の当たりにするたびに呼吸が乱れ、鼓動がうるさく耳をつく。
──どうして。
どうして、私が呼び出されたの。どうやってここへ来たの。
ふと、隣に座ってお酒のようなものを口に流し込む彼を見やった。彼は自分が呼び出したのだと言った。神々に祈り、私を甦らせたのだと。
この人に、時空を超えて人を呼び寄せる力があるというのだろうか。そんな非現実的な力が。仮にそんな力があったとして、私を呼び寄せる力があるのなら、もとの時代に帰す力もあるのではないだろうか。
もう、分からない。何もかもが分からなくて気持ち悪い。吐いてしまいそうだ。苦しくて、どうにかなってしまいそうに感じて耐えられず頭を抱えた。
「ファラオ、お時間です」
顔を上げると、白い髭を生やした老父が彼の前に恭しく腰を屈めていた。人の良さそうな顔立ちをしている。
「そうだな、ナルメル。あやつに目に物を見せてやろう」
彼が頷いたのを見届けたナルメルと呼ばれた長身の老人が、私の目の前にやってきてまたもや深く頭を下げて礼をした。
「姫よ、よくぞお戻りくださった。我ら、心より祝福申し上げる。もう一度、我が国のため、ファラオのためにその御身、大切になされませ」
「あの、わ、私……」
この落ち着いた雰囲気の人なら話を聞いてくれるかもしれないと口を開きかけると横から腕が掴まれた。
「立て」
冷たい声と共に隣の彼に腕を引かれ無理矢理立たされる。腕を掴む力の強さに顔を歪めた。
「ファラオのお言葉である!しかと耳を傾けよ!」
ナルメルが高らかな声を空間に響かせる。音楽がぴたりと止み、誰もがこちらを見て静まり返った。
「ファラオ!ラーの子よ!!」
「オシリスの化身よ!」
あれほど賑やかだった空間が一変し、その場にいる人々が私たちに向かって一斉に敬意を表した。その光景に唖然としてしまう。畏敬の念が気持ち悪いほど伝わってくる。
そして私に知らしめる。この人は、本当に古代エジプト王、ファラオなのだと。
「顔をあげよ」
片腕を高々と上げ、彼は朗々と告げた。それを合図に徐々に頭が上がっていく。
「私のラーへの祈りと、オシリスとの掛け合いにより、我が姉、アンケセナーメンが我らが元へ甦った!」
間髪入れず、竜巻のような歓声が上がった。
「実にめでたきことに存じまする」
「アンケセナーメン様!!」
「これで王家の血は守られましょう」
神でも崇めるような、その光景に恐怖が生まれる。
違う。私は弘子だ。
胸に持ってきたままのバッグを抱きしめる。身体が震えはじめて、立っていることさえ辛くなり始める。でも鎖のように繋がる褐色の腕が、私が倒れることを許さなかった。
「アンケセナーメン様!なんとめでたきことか!!」
「ファラオ!ご祝福申し上げますぞ!!」
「アンケセナーメン様!よくぞ冥界からお戻りになられた!」
アンケセナーメンなどではない。私は弘子だ。工藤弘子だ。
「わ、私は」
震える声が口から漏れる。隣に立つ彼が、眉を上げたのを横目で見た。「何を言うつもりか」と訝しがり、怒っているような眼差しだった。構いやしない。私は違うのだから。
「アンケセナーメン様!」
「王家の姫君!アンケセナーメン様!」
「……ち、がう」
私の言葉が、やっとのことで空間に吐き出された。狂ってしまいそうだ。どうしてこんな所にいるのか。どうして、違う名前で呼ばれ、脅迫みたいなことをされてまでここにいるのか。
鼓動が煩く鳴り響く。息が嫌というほど乱れていく。
「アンケセナーメンじゃない!!!」
悲鳴に似た響きが、その広間に破裂した。誰もが目を丸くして私を凝視する。
「アンケセ……」
彼が私を抑え込もうとするのを振り払って叫ぶ。
「私は弘子!工藤弘子よ!!アンケセナーメンでも、この人のお姉さんなんかじゃない!!!」
ぽかんと口を開けている人々から目を逸らし、隣に立つ彼を睨んだ。私を呼び寄せたと言った人。憎くて堪らない。怒りが溢れて止まらない。
「どうして……どうして私を呼んだのよ!!」
精一杯の力を込めて、その胸を叩いた。憎いと強く思った。
「私は甦ったんじゃない!!アンケセナーメンの甦りなんかじゃない!!全くの別人なの!!」
目頭が熱くなって、頬に生暖かいものが伝って行った。
お父さん。お母さん。良樹。私の居る場所。私の、世界。
「帰してよ!!私をもとの場所に帰して!!」
アラビア語なんて崩れて、いつの間にか口を突いて出ていたのは日本語だった。
「お父さんたちのところへ!学校のあるところへ!私の時代に!!」
茫然としている彼を振り切り、走り出した。どこへとも知らずい床を蹴る。
帰りたかった。ここから離れたかった。
人々の席の間を飛び越え、侍女たちが出入りしている、部屋の唯一の出入り口に向かった。
「姫様!」
私の着替えをしてくれた見覚えのある侍女を押しやり、私は灯りのない部屋の外へ飛び出した。
走れば、この変な建物さえ出れば、変な夢のようなこの世界が消え、もとの世界に戻れるような気がしていた。古代なのはこの建物の中だけであって、外に出れば私の慣れ親しんだ世界が広がっていると思えた。そう、思いたかった。
慣れないサンダルを脱ぎ捨て、家族の姿を求めて裸足で走り続けた。
火のない廊下のような場所を満たすのは暗闇だった。唯一、巨大の柱と柱の間から漏れる月明かりが私の足下から続く道の行方を照らしてくれている。
電気が無い。携帯も繋がらない。排気ガスの臭いがない。擦れ違う人々の服も私の知っている服ではない。私を囲む光景も、周りを埋め尽くす黄金の煌びやかさも、その目映くばかりの栄華も、私の前に立ち憚る何もかもが、幼い頃に父に見せられ、聞かされてきた話そのもの。古代、そのもの。恐ろしかった。
「お父さん!!お母さん!!」
みんなはどこにいるの。私はどこにいるの。
走りながら、もう一度携帯をバッグから取り出して耳に押し当てる。
相変わらず圏外の文字を示す携帯に両親を呼んだ。通話中の音がしてそのまま切れてしまう。涙が頬へ伝って行く。
夢なら醒めて欲しい。どうか、醒めてほしい。
「待て!!どこへ行く!」
後ろから腕を掴まれ、引かれるままにいきなり壁に押し付けられた。何が起こったのか把握できないまま、痛みだけが背中と後頭部に走る。首を絞めるように褐色の手が私の首に巻き付き、自分の呻きが耳を突いた。
「自分が、何を言ったか分かっているのか…!!!」
うっすら目を開けると、涙のその先にあの淡褐色が見えた。怒りに燃えている目だ。先程振り払ったあの人が、私を捕らえていた。
「国を滅ぼすつもりか!」
声を押し殺すように、それでいて叫ぶように、息がかかるほどに顔を近づけて彼は私を非難する。
「し、知らない…!あなたのことなんて、これっぽっちも知らない!!」
名前さえも知らない人だ。絡みつく指を離そうともがきながら、泣きながら叫んだ。
「私は弘子!弘子なの!アンケセナーメンなんかじゃない!!」
どうしようもなく、彼に言い返した。
「まだ言うか!!!」
首に回る指に力が加わる。
この人に証明しなければ。私は甦ったのではなく、間違えてこんな時代に来たのだと。人違いだから帰してほしいのだと。
「わ、私、私は……!!」
思い切って、右手に持っていた携帯を開いて怒りが揺れるその瞳に突きつけた。
「私はここから来たの!!死後の世界なんかから来てない!!」
このまま殺されてなるものかと無我夢中で訴える。
「これが、これが私の世界よ!!」
両親と良樹が写っている、私の学校の前で撮った写真。私の時代の、写真。
「な、何だ…これは」
その人の声が震えていた。
私の首に回す手の力を緩め、淡褐色を丸く開き、ただそれに釘付けになっている。
「……人が…中に、いるのか…?」
最初は身構えながらも彼は瞳を揺らして、携帯の画面を恐る恐る指でなぞり始めた。
「……あなたはね!私をこの世界から呼び出したの…!!意味の分からない言葉を叫ばせて、私を呼んだのよ!!」
わっと涙が溢れて、暗い視界を霞ませていく。
「帰してよ!!私をこの世界に帰して…!!帰しなさいよ!!」
その人の胸をばんばんと叩いて泣き喚く。そんな私を、黄金の混じる淡褐色が茫然と見つめていた。動揺を隠せずにいるその色は、わずかに揺れている。
「帰しなさいよ!!お父さんもお母さんのところに!!呼び出したなら、皆の所に帰すことができるんでしょう!?私がなにしたって言うのよ!!ねえ!!」
嗚咽が漏れ始めて、言葉さえ出てくれなくなる。
「帰して…!!帰して…!!」
力が抜け、ずるずると壁に沿って、ついには座り込んでしまった。
すべてが怖い。分からないことが、怖い。
独りこんな場所に落とされ、携帯も繋がらず、変な名前の人の甦りと言われて。挙句の果てには乱暴に連れまわされて、殺すと言われ、首まで絞められて。
「……本当に」
落ちてきたその人の言葉が、掠れていた。
「……本当に、アンケセナーメンではないのか」
膝元から顔を上げて相手を見上げた。自分でも信じられないくらい涙が溢れて、暗闇に浮かぶ褐色の顔が霞んでしまう。
「確かに、アンケセナーメンは背が私ほどで、聡明で……決して人前で泣いたりなどしない強い女だった……肌以外の外見はそのままでも、中身が全く違う…」
絶望の色を孕んだ響きだった。雨のように床に落ちて散っていく声は、こちらまで悲しくさせるほどのものを孕んでいる。
「……私の事も、私と交わした約束も、知らないのか?」
「知らない…知るわけない…」
「何故、言わなかった」
「言おうとしてもあなたが脅すから…!聞いてくれなかったじゃないの!!」
冷静を取り戻したのか、彼の声色の動揺は影を薄める。
「あなたが勝手にそのアンケセナーメンだって決めつけて…!それで…!!」
訴える最中にわっと涙が溢れて、言葉が遮られる。どうしようもなく私はその場に蹲って、携帯を抱きしめながら泣き出した。
「……ヒ、ロコ」
呼ばれた名にはっと顔を上げる。片言の発音でも、それは私の名前だ。
「確か、そう言ったな」
真剣な眼差しを向け、彼は蹲る私の前に腰を屈めていた。
唇を噛みしめて、こくりと頷く。ただ自分の名前を呼ばれただけなのに、その懐かしい響きにまた涙の量が増す。面妖な名だな、と小さく呟き、彼はじっと私を覗き込んだ。
「ヒロコ」
びくりと脈打つ。目の前の彼は真剣な表情を浮かべ、私に向かってその薄い唇を開く。
「今だけだ、アンケセナーメンになれ」
また意味の分からないことを。違うと何度も言っているのに。
「わ、私は…!!」
「アンケセナーメンではないということは嫌というほど分かった。私の知るアンケセナーメンはもっと王家の誇りに満ち、神に愛された聡い女だった。お前とは雲泥の差だ」
雲泥の差なのにどうして間違えたの、と喚き散らしたくなる。その冷静な顔に拳をめり込んでやりたいくらいだ。
「だが、姿形が瓜二つなのに変わりはない。これからあの場に戻る。そこで、自分はアンケセナーメンだと名乗れ」
「何を…」
「言う通りにすれば、お前をもとの世界とやらに帰す手段を考えてやらなくもない」
突如突き付けられた提案に息を呑んだ。見つめる先の彼は口端を上げ、自信があると言わんばかりに薄笑いを浮かべていた。
やはり、この人は出来るのだ。人間を時空から時空へ飛ばすことが。
「話は宴が終わったら聞いてやる。その時に、その魔術の正体も教えろ」
彼はそう言って、私の携帯を指差す。
「いいな、命令だ」
話に追いつけない私は唖然と、綺麗な笑みを浮かべる彼を見つめ返した。
「ファラオ!」
黒に満ちる廊下の向こうから誰かが彼を呼んだ。
「いかがいたしました!」
走って来たのは、あの真面目そうな顔をした人。確か名前は──。
「セテム、宴席はどうなっている」
そうだ、セテム。
「さきほどの姫君のお言葉に宴の席が大変な騒ぎになっております」
「そうか」
立ち上がった彼は悩むように腕を組んだ。
姫君のお言葉って、私の言葉のことだろう。それで騒ぎになっていると思うと、少し申し訳なく感じた。でも、私は間違えたことは言って無い。
「早くお戻りください。只今ナルメル宰相がその場を治めようとしてくださっております」
「今戻る」
ナルメル。さっきのおじいさんの名前だ。宰相って、総理大臣みたいな存在だろうか。
「姫君はいかがなされたのです」
「困ったことに、甦ったせいで記憶を失っているらしい」
彼の言葉の羅列に、セテムと私の驚きの声が重なった。
記憶なんて失っていない。そんな私の気持ちを読み取ってか、彼は「何も言うな」という視線を私に送ってきた。その威圧につい押し黙る。
「さ、左様に御座いますか……まさか記憶を……」
セテムは悩むように首を傾げた。
「それは少々問題があるやもしれませぬ。記憶を失ったなど神官の方々に知られればたちまちこちらが不利になりましょう」
「案ずるな。今自身がどんな存在で、どんな立場だったのか最低限のことは教えた。おそらく露顕はしまい」
彼の台詞に、セテムの安堵の呼吸が続く。
「ならば、お急ぎください。ファラオが戻られ、御声をくだされば誰もが納得しましょう」
彼はうむと頷き、私に目を向けた。
「立て、アンケセナーメン」
手を伸ばされるけれど、その手を払いたい気持ちに襲われる。けれど。
『──言う通りにすれば、お前をもとの世界とやらに帰す手段を考えてやらなくもない』
私はこの言葉を信じる道しか残されていない。まるで自分は全治万能の神である言わんばかりの勝ち誇った顔で、彼は恐る恐る伸ばした私の手を掴んだ。
相手の手のぬくもりを感じながら立ち上がろうと足に力を入れた時、初めて自分の異変に気付いた。
「あ、あれ…?」
腕に力を入れてみるのに、まったく足が動いてくれない。足の感覚がない。自分でも笑ってしまうくらい間抜けな声をあげた。
「どうした」
彼が私の顔を覗く。
「こ、腰が…」
腰が抜けてしまった。あまりに色んなことがありすぎて。
間抜けな私を見て、彼は呆れ顔を見せる。
「本当に、違うのだな」
多分、アンケセナーメンという人と比べているのだ。
深くため息をつきながらも、彼は再び褐色の腕を伸ばして私の腰を絡め取った。嫌な感触に肌がざわめく。でも堪える。今だけだ。
「お急ぎください」
「分かっている」
抱き寄せられる状態になって、また暗すぎる廊下を進み始めた。
月のぼんやりとした光の宿る廊下を行く。電気がない夜は、私の目は何も映してくれない。ぼんやりと色の濃い影が揺れているだけだ。この廊下を良く走って来たものだと自分に感心してしまった。
目さえ慣れてくれなくて、私にはほとんど見えないのに、彼やセテムはしっかりと見えているらしく、迷うことなく足を進めて行く。
電気のない世界に生きる人。僅かな光を確実につかみ、暗闇でも迷うことはない。何気なく、私を抱くその人を見上げた。
一応、私がアンケセナーメンじゃないということを分かってくれた。話も聞いてくれると言ってくれた。とにかく、私を呼んだのはこの人であり、私を戻すことができるのもこの人だけなのだ。今は言うことを聞くしかないとぼんやりと思いながら、涙を拭って前に続く暗闇を見つめた。
「先ほどはごめんなさい。私、少し動転してしまっていて、ついあのようなことを」
出来るだけ丁寧に。笑顔で。
「そうで御座いましたか!!いやはや良かった!我ら一同、驚きましたぞ」
大臣の一人というおじさんがお酒で顔を赤らめながらけらけらと声をたてた。
「甦った故、あのような戯言を口走ったのだろう。王家でも、甦るなど初めてのことだからな」
隣に座る彼も口元に笑みを浮かべてそう言った。戯言なんて、私は一つも言って無いけれど。
「ええ、私もまさか甦えれるなど思いもしませんでしたから。おほほほほ…」
「その御召し物も、冥界のものでございますか?」
私の肩に掛かっているショルダーを指差して、興味津々に尋ねてくる。外せと彼に言われても、絶対に離すものかと抗議してこれだけは許してもらった。
「え、ええ!冥界の神に頂きましたの!おほほほほ」
アンケセナーメンという人が王族だという情報をもとに、少しセレブな感じを装って笑って見せる。はっきり言って恥ずかしい。正しいのかも微妙なところだ。
「その笑い方はよせ。気色が悪いぞ」
彼は視線を向けずに、微笑みを湛えたまま耳打ちしてきた。むっとして顔を向けると、彼は何事も無かったかのように微笑みを湛え、別な人と話し始める。
全くなんなのだろう。腹が立ってくる。嘘をつけというから一生懸命、全身全霊をかけて嘘をついているこっちの身にもなってほしい。
でも最初の時のような、殺気がないことだけがせめてものの救いだと肩を撫で下ろした。この人は怒っている時と平常時では性格が大きく違う人なのかもしれない。
「またアンケセナーメン様の重臣としてお仕え出来ること、光栄に存じます」
また声をかけられ、笑顔を作る。
「あ、ありがとうございます。おほほ…じゃない、うふふふふ」
この煌びやかな空間に戻ってきてから、ずっとこの言葉の繰り返し。げっそりしてしまうほど、嘘を並べていく。
でも、これさえ終われば、多分帰れる。この世界ともお別れだ。彼に元の世界に帰してもらおう。
一段落ついてから、ため息を落して横に座る人に視線を向けた。
これでもかというくらいくつろいだ格好だけど、背筋はしっかりと伸ばしているためか威厳というものが溢れている。手足が長いせいもあるかもしれない。
目はじっと、闇に包まれる外に向けられていた。
静かな眼差しだ。綺麗な人だったのだと傍から眺めていた思う。燃えるような強い意志を持ちながら凛とした人だ。
「……アンケセナーメン様、王家の姫君よ」
「あ、はいはい」
呟くような声が聞こえて振り向くと、いかにも身分が高そうで、丸々と肥えた、丸坊主のおじいさんが私の顔を覗いていた。その覗き様に一瞬心臓が止まりそうになる。
「な、何でしょう?」
丸顔で、禿げ頭。少し太っていて、背は私より少し大きいくらい。服装はそこらの人たちと比べると豪華で、豹の毛皮のようなものを肩から斜めに掛け、黄金の杖をついていた。
「本当に、甦りになられたのですな」
嫌に光る眼差しに一瞬悪寒が流れる。不気味な笑顔を浮かべている。
「……まさに、生前そのもの。なんと素晴らしい…再び命を、得られたのか…」
そう呟き、私に手を伸ばしてくる。その皺が現れ始めた、震える大きな手が急に恐ろしくなった。
「若く、美しき、神の血筋の姫よ」
身を竦めた瞬間、横から褐色の腕が素早く伸びてきて、それを叩き払った。いきなり横に引き寄せられ、褐色の腕の中に沈む。
「気安く触れるな」
守るように私を抱き寄せた彼が言った。そのまま私を庇うように前に身を乗り出す。口元は笑っていても、さっきの目とは随分違った威嚇するような瞳を老人に向けていた。
「アイ、お前が最高神官だろうと、王族の娘に手を振れることは許さぬ」
「ファラオ、これはこれは申し訳ありませぬ」
アイと呼ばれた老人は畏まった様子で深々と頭を下げた。
「失礼ながら、本当にアンケセナーメン様ご本人であるかを確かめさせていただきたい思いまして」
「何を言う。この者は私の姉アンケセナーメンに間違いない。お前も見たのだろう、あの神の生みし金色の光を」
多分、私が飛び出した光のことを言っているのだ。
彼の威嚇にも怯まず、アイは顔を上げて目を細めた。放たれる鈍い光に恐怖が走って、思わず彼に身を寄せる。
「……ですが、甦りになられるのは何度も時代が繰り返されてからのはずに御座います。お亡くなりになられ、まだ正式に埋葬もしていないのに甦りになられるのは、いささか疑問が残ります故」
低い声色で、アイは早口で静かに言ってのける。
「くどい」
彼が吐き捨てた時、セテムが走り寄ってきてアイに向かって口を開く。
「アイ殿、無礼極まりありませぬぞ。あなた様が御疑いになられたこの方は、間違いなく王家の姫君。ファラオの父君、先々代アクエンアテン様のご息女で在らせられます」
アイやらアクエンアテンやら、知っているような、知らないような名前だ。よく覚えてない。
とにかくアンケセナーメンという人が彼の姉ということは分かった。
「残念だが、アンケセナーメンが甦った以上、お前の娘とは契りを交わすつもりはない」
彼の言葉に、アイは納得いかないように顔を歪めた。
「神オシリスが妹神イシスと契り、ホルスを授かったように、私もその神の掟に従うつもりだ」
「左様ですか……失礼いたしました」
再び頭を下げ、アイは去って行った。その色んなものをぶら下げた後ろ姿を見て、やっぱり豪華な人だと改めて思う。
「あの男には気を付けろ」
「え?」
未だに私の肩を抱いたままの彼を見上げた。
「私の義理の祖父に当たる故に最高神官にしているが、中身は真っ黒だ」
あの鈍い光を見れば、その言葉も頷ける気がする。
「欲望の塊なのだ」
自分の祖父に当たるのに、そこまで悪く言えることに逆に感心してしまう。祖父とは言っても全く彼と似ていなかった。義理と言っていたから正式に血は繋がってないのだろうか。
「あのような男の親族の血を我が王家に入れるつもりはない。我らの崇める神が兄妹で夫婦になったことに習い、私はアンケセナーメンを妃にするつもりだ」
神様たちが兄妹で結婚しているから自分たちも近親婚。なるほど、とまた頷いた直後に一つの疑問が浮かび、頭を傾げた。
彼の言うアンケセナーメンはもう死んでしまったという話だ。それで今、その人と瓜二つだという私がアンケセナーメンだという嘘を言いふらしている。その存在しないアンケセナーメンを妃にするということは。
「ちょ、ちょっと待って」
「何だ、アンケセナーメン」
平然と、杯の中のお酒を口に流し込んでから私に顔を向けた。
「わ、私たち、結婚するの?」
私の裏返った言葉に、その人は口端を上げて、勢いよく立ち上がる。彼にしっかりと肩を抱かれていた私の身体も、その反動で立ち上がった。
「皆!!耳を傾けよ!!」
片腕を高々と掲げ、彼は叫んだ。ファラオという威厳をその空間全体に煌めかせる。
「ファラオのご声明だ!」
「ファラオ!」
「甦りし姫君!!アンケセナーメン様!」
誰もがこちらに目を向ける。祝福を湛える眼差しがきらきらと私に刺さるのを感じた。
「我が大いなるエジプトの栄華を極めんため、神の血をより濃くするため、我、ここに決断を下す!皆しかと心に刻め!!」
高らかな勇ましい声が、天井に跳ね返り、その嫌になるほど静けさに満ちた空間に音の輪となって広がっていく。
意味が分からなくて、慌てて彼を見やる。そんな私になど目を向けずに、彼は褐色の頬に自信に溢れた笑みを浮かべて口を開いた。
「我は神の掟に従い、このアンケセナーメンを妻に迎える!!」
私の肩を抱き、笑顔で、そして凄まじい大声で、彼はそう言ってのけた。
出逢ったばかりの私を、妻にすると。
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