夕陽

 小さな廃れた神殿の階段に涙の跡を拭いながら佇み、目の前に広がる夕陽を見つめていた。

 なんて赤いのだろう。

 なんて美しい色だろう。


 私の知らない、大きな夕陽がある。

 澄んだ赤を孕み、私とその廃れた神殿を、そして隣に立つ彼を朱色に染め上げる。


 強く威厳に溢れた太陽は、まるで神様のよう。現代という時の中で、間違いなく私が感じていた威風そのもの。いや、それ以上のものを持っている。


「……エジプトの、太陽」


 ぽつりと言った私の言葉に、彼は頷く。


「太陽神、ラーだ」


 本当に神様なのだ。

 思わず跪きたくなるそれは、神と呼ばれるに相応しい存在感がある。古代人がどうしてその光に神を見出したのか、この太陽を目の当たりにして分かった。


「……ラーって、どんな神様なの?」


 隣の人に尋ねると、傍の柱の絵を指差した。

 ハヤブサの頭をした人の絵が皆に崇められるようにして描かれていた。


「太陽の神。王家はラーの子とされる」


 何気なく、その絵に触れてみる。

 ハヤブサの頭の上にある、太陽のような丸い飾り物を、弧を描くように指でなぞった。


「太陽が朝に昇り、夜に沈むように、神ラーも日中はハヤブサの姿をして天を舞うが、夜は雄羊の姿で夜の船に乗り、死の世界、つまり夜を旅するとされている」


 絵から太陽へと視線を戻しながら彼は静かに教えてくれた。

 父ならその話に喰いついて話を広げていくだろうけれど、私はへえ、と頷くことしか出来ない。

 お父さん、そんなことも私に教えてくれていたのかしら。話をちゃんと聞いてあげてなくて、本当にごめんね。


 もう一度ラーの絵を撫でてから、小さなため息をついた。

 風が彼と私の髪を撫でて、吹き抜けて行く。柱に寄りかかりながら、夕陽の下に浮かぶ街を見やると、さっき駆け抜けてきた風景がとても遠かった。飛び出してきた宮殿も少しだけ端が見える程度だ。


 本当に、古代。

 私は今、古代にいる。

 現代なんてどこにもない、3000年も前の世界に。


 良樹の声が聞こえたのも、今では私の幻聴だったのかも知れないなんて思うようになった。

 現代に帰りたい、外に私の世界があると、あまりにも強く思い過ぎたから。あまりにも強く願いすぎたから。

 現実を突きつけられて、ほとんど過呼吸を起こして泣いていた私を、彼は落ち着くまで抱きしめてくれていた。そのおかげか、今はとても心が静かだ。

 考えてみれば、辛いことがあったと泣き出す私を、母がよく抱きしめてくれた。その時はすぐに涙が止んだ気がする。


「……本当に、未来の民なのだと思った」


 穏やかな彼の声が、穏やかな空間を流れた。

 聞き返すと、彼は少し笑う。


「我ら王家の墓のありかを知り、それほどまで帰りたいと願い、奇妙な物を持ち、誰もが知る神の名を知らぬお前は、真に未来から来たのだと今日心の底から思った。異国の女でもない、未来の女なのだと」

「……何度も言ったのに、信じてくれてなかったのね」

「まあな」


  腕を組み、短い焦げ茶の髪をそよがせて笑う。


「一国の王たる者、そこらの言葉を素直に信じてはならぬ。すべてに疑いを持てと教えられた」


 疑ってかかれなんて、まるで刑事みたいだ。

 そんなことを思いながら、赤に照らされた、褐色のその横顔を見つめる。赤い明暗がその顔を染め、彼の凛々しさを浮き立たせていた。

 この人は夕陽が似合う。

 赤く、威厳に満ちる、このエジプトの夕陽が。


 意外に綺麗な人だ。私の学校にいたらきっと女の子に周りを囲まれての登下校だと思う。性格には大いに問題ありだけれど。


「お前が帰れるか、もう一度考えてみよう」


 思いがけない言葉に目を見張った。


「何度も泣かれてはいくら私でも気が滅入る。少し考えてみようと思っただけだ。帰せる自信はこれっぽっちもない」


 まったく威張るところではないのに、偉そうに胸を張っている。


「だが、条件がある」

「条件?」


 瞬いた私に、黄金の人は頷いた。


「何度も言ったが、私にはアンケセナーメンの存在が必要だ。そうでなければ私だけではなく、このエジプトも駄目になる。お前がアンケセナーメンを演じてくれるというのなら、私も未来への帰し方を考えてやってもいい」


 瓜二つの私がアンケセナーメンとして。

 驚くような条件ではない。この短期間で、理由はともかくアンケセナーメンの存在が彼にとって必要であることは嫌というほど分かった。


「そんなにそっくりなの?」

「驚くほどそっくりだ。最初は本当に甦ったのだと思った」


 はあ、と曖昧な返事が自分の口から漏れる。


 やっぱり自分と同じ顔の人がちょっと前まで生きていたなんて、あまり想像できない。それもセテムの話だと同じ顔なのに、麗しくて、賢くて、美人。どれも私に当てはまってないけれど大丈夫かしら、と小首を傾げてしまう。


「で、どうする。乗るか乗らぬか」


 挑戦的な視線が向けられた。

 ここで首を横に振る理由なんてどこにもない。相手の淡褐色の瞳を見つめて、強く、一度だけ首を縦に振った。

 王家の人を演じるなんてきっと難しい。それでも、縋る思いで口を開く。


「……アンケセナーメンになるわ」


 すべては現代へ帰るため。


「でも、帰る方法がわかったら、演じるのはそこで終わり。それでいい?」


 私の言葉に彼も口端を上げた。


「まあ、その頃までにはアンケセナーメンなどがいなくても国を守れるくらいの王になることにする」


 笑うところじゃないけれど、彼の言葉に何故か笑みが零れた。彼も気取りながら、くっと笑う。そのまま、再び地平線に沈む夕陽に目を移した。


「綺麗なところね」


 静けさのせいか、呟いた声が周りに響き渡る。

 緑なんてどこにもなくて、寂しい茶色に覆われてしまっているけれど、夕陽がそれを埋め、茶色を赤の混じる黄金に変えていた。


「父、アクエンアテンが自ら探し出し、いくつもの境界碑を建て、新しい都であることを示した土地だ。アケトアテンという」


 アケトアテン。

 何度聞いても知らない地名だ。

 もしかしたら現代と古代では呼び名が変わってしまっているのかも知れない。考えてみれば3000年も経っているのに、変わらない方がおかしいのだ。


「アケトは地平線を意味する。アテンは父が作った神の名だ。謂わば神の地平線」


 神の地平線。

 確かに向こうにくっきりと広がる直線は、夕陽に照らされて言葉にできないくらの美しさがある。


「まあ、木のない、もともと街をつくるのに向いてない土地だがな。テーベの方がずっと緑に溢れている」

「テーベ?」

「お前の言った歴代のファラオたちの墓が治められている所だ」


 その言葉に、ルクソールだと悟る。きっとルクソールの昔の呼び名は「テーベ」。

 3000年の時を経て、名前が変わったのだ。


「諸事情で今は連れて行くことが出来ぬが、いつかテーベに都を移す予定だ。その時にでも谷に連れて行ってやろう」


 偉そうに言うけれど、私を気遣って言ってくれているのだと思う。

 私を無理に乱暴に外に連れ出して、現代なんてどこにもないという事実を突きつけた。突きつけられて、一時だけどうしようもない絶望に落された。でも、そのおかげで何かが綺麗に吹っ切れた。


 私は古代にいるのだと。


 不安がなくなった訳でも、怖くない訳でもない。それでも、ここが古代なのだと、私のどこかがそれを受け入れた。彼が受け入れさせてくれた。


「……ありがとう」


 小さな囁きに、彼は少し驚いたような表情を浮かべたけれど、やがて口に弧を描いて、いいやと言って笑った。


「アンク」


 ぽつりと、砂漠の砂が舞う中、彼は言った。


「これからはアンクと呼べ。アンケセナーメンは私をそう呼んでいた」


 アンク。

 繰り返して、小さく呟いてみる。

 トゥト・アンク・アテンの真ん中の名前。アンクとは命という意味ではなかったか。


「分かった。なら、出来る範囲でいいから、私のことも弘子って呼んで。そうでなくちゃ、私が私じゃなくなっちゃう気がするの」

「腰抜けめ」


 鼻で笑うような声に、むっとして彼の方を見たけれど、声の主は私の顰め面を見て笑いながら、分かったと頷いた。

 その淡褐色は、エジプトの神々しい夕陽をただ静かに見つめていた。


 ラーと呼ばれる赤い夕陽が私たちを染め上げる。その古代の光の中、私はそっと目を閉じた。





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