死神とまた会う日まで

札幌埴輪太郎

死神とまた会う日まで

 そよ風さざめく青々とした草原で歌う、鮮やかな宝石のような鳥のさえずりは、さながら醜い罵倒のようだった。

 小さな羽をはばたかせ、自在に空舞う彼女らは、無邪気にわたしを責め立てる。

 どうしてあなたは動かないの? あなたもこちらへおいでなさいよ。一緒に外で遊びましょう?

 無知ゆえの無自覚な悪意。その無遠慮さに辟易して、うるさい、黙って、と声を張り上げて怒鳴ろうとしたわたしは。


 わたしは目を覚ました。夢の中で怒鳴ろうとして開けた口は現実でもそのまま開いていて、喉が渇きを訴えている。少しだけベッドから体を起こして枕元のコップを手に取り、喉を潤してから辺りを見回す。そこにはいつもと変わらない白黒の世界が広がっていた。

 白い天井、白い壁、白い調度品に、薬品の臭い。窓にかけられた黒い遮光カーテンと、わたしの長い黒髪がこの部屋にある黒。わたしが見回す限りいつも通りモノクロの病室だ。夢に見た喧しいほど彩りのある世界よりも、目の前にある色味のない見慣れた光景にため息を吐く。ため息が出た理由はきっと、安堵だ。

 ……しかし一週間ほど前から、この見慣れた白と黒の世界に異物が混じりこんでいるのをわたしは知っていた。わたしは今日も「それ」が居るのかと思い、恐る恐る病室の隅へと目を遣る。

 移した視線の先には、白い部屋の隅に体育座りで居眠りをする「それ」――黒いマントに、死人を思わせる白い肌、白い髪。極めつけに物騒なまでに大きな鎌を壁に立てかけている少女が居た。それが最近見えるようになった「異物」だ。

 主治医の先生に訊いてもそんな子はいないというし、その少女は他の誰にも見えないようで、死を想起させるような出で立ちからわたしはその子の事を死神だと思うようになっていた。今のようにわたしが目を覚ますころにはいつも眠っているが、もしかしたらわたしが眠っている間には起きていて、わたしに死を見舞おうとしているのかもしれない。

 彼女が見えるようになってから考えていたそんな事を思い起こしながら、今日も眠っているその白い顔を見ていると。

 ぱちり。白黒の部屋に、突如として、透き通る空にも似た青色が生まれた。

 それは瞳だった。誰の瞳だろうか? 答えは明白だ。なぜならこの部屋には今、わたしと黒いマントの少女しかいないのだから。

「あーっ! やっと目が合った!」

 空色の瞳を持つ黒いマントの少女は、わたしと目が合った瞬間、部屋の隅からばっと立ち上がり、物騒な大鎌を放り出してわたしが横たわるベッドに向かって駆け寄ってきた。靴は履いていないようで、ぺたぺたという足音が少女の声に続いて部屋に響く。その喧しさに思わずわたしは耳を塞いだ。

「いやぁ、夜型の弊害かなあ。いっつも君が起きるころにボクが眠って、ボクが起きる頃に君が眠ってだったから、思い切って一日中眠って君の時間に合わせよう! って思ってやってみたんだけど、案外正解だったみたいだね!」

 病床へ向けられるにはあまりに元気のいい……というよりやはり喧しい、とくりとくりと興奮に脈打つ心臓のような拍子の声に、わたしは口元を歪める。

「あなた、一体何なの……?」

「ボク? ボクはフィリス、君の命を狙いに来た――死神さ」

 精一杯格好つけて言っているようだが、その表情はなぜか緩み切っており、その姿は「形無し」という言葉の標本のようだった。

「嘘吐き。あなた、ただの変な子じゃないの?」

「酷いなあ! 確かに威厳とか迫力とか、そういうのが足りないへっぽこ死神だけどさ。一応他の人には見えないし、おっきな鎌も持てるし、一通りの仕事もできるんだよ?」

 煩いものは嫌いだと拒絶しようとしてわたしが放った言葉に、自称死神の少女は文句こそたれるが、言われなれているといったふうにあっさり笑い飛ばされてしまった。確かに小柄な見た目に反する物騒な大鎌や、そんな変わった風貌なのにこの病院の人々には見つかっていない。この子の言うことも正しいのだろうか?

 真偽を推し量るべく、フィリスと名乗る少女の空色の瞳を睨むと、ずい、とそれが近づいてきた。フィリスの顔がわたしの顔に寄ってきたのだ。

「さ、ボクの自己紹介は終わったよ。今度はー、君の番! 名前は? 歳は? この病院で何してるの?」

 何が楽しいのか、彼女の表情はひたすらに明るい。おおよそ死神という単語の持つイメージや、死を連想させる見た目とはかけ離れた声音、表情、所作に戸惑いを覚えつつ、ついつい相手の調子に乗せられてこちらも口が滑る。

「……ロゼ。今年で十一歳になるわ。見ての通り、医者でも看護師でもなく、万年床の病人よ」

「うん、全部知ってる! 何せ死神だからね、君を表すための記号、数字に関する下調べは十分さ! あ、信じられないなら今の体重とか当ててあげよっか?」

「……要らない。煩いからここから出ていって。わたしの魂を刈るなら、今直ぐじゃなくてわたしが眠ってからでもいいでしょう?」

 むしろ知っているならなぜ言わせたのだろうか、という疑問と苛立ちは飲み込んで、わたしは再び拒絶の意志を示す。本当に死神がわたしの下へ来たとなれば、早くやらねばならないこともある。わたしは力いっぱい使って上体を起こし、枕元のネクタイ、針、糸を手に取る。

「まあまあ、つれないことは言わないで。ボクは君ともっとお話したいんだ! いつもお話できてもお爺さんやお婆さんの話ばっかりだから、同じ年ごろの子と話せるんだって、ワクワクしちゃって」

「わたし、多分あなたの期待するような面白い話は出来ないわ。残念ね。さようなら」

 ちくり。フィリスの話は半分だけ聞いて流して、一方でわたしは薄い青色のネクタイに刺繍針を使って糸を巡らせて、模様の続きを作っていく。一月ほど前から始めていたもので、青だけだった世界に今は緑色の樹、白い雲が出来ていて、今は赤い花を描いているところだった。

「面白い面白くないはボクが決めることだよ。なんでも話してよ。というか、死神の仕事に必要なんだ、君がどういう人間なのか知ることがさ」

「単純に、病気で死にそうだから魂もらいました、じゃいけないの?」

 ちくり。ネクタイに刺した針が、自分のこころにも刺さったような感覚があった。死。産まれてこの方、常に付きまとってきたことばだが、死神と対面した今になって、そのことばはどこか胸をざわつかせる。

 そんなわたしの心情に気付くでもなく、死神は大仰ながらどこか自然な反応でやれやれ、と不満を零す。

「そんな訳にいかないって! 色々誤解があるみたいだから説明しておくけれど、死神っていうのは魂の蒐集家なんかじゃなくって、『本当に死んでしまう人』の最期を穏やかなものにして、次の生へ繋げる神様なの」

「そう。じゃあ、この刺繍が終わったらさっさと、穏やかにわたしの人生の幕を下ろして。この刺繍、あとは花を縫えばお終いだから」

「そんな訳にいかないって! 色々誤解があるみたいだから説明しておくけれど」

「それ、さっきと同じ話じゃない?」

「違う話! でも、突っ込んでくれてちょっと嬉しい……」

 突き放した態度は意に介さず、てれてれとフィリスはことば通り嬉しそうな顔をする。わたしはこの死神がどんな人格を持っているのか解りかねていた。しかし同時に、突き放しても突き放しても話し続けるフィリスに対して、わたしも少し興味を持ち始めていた。

「そうじゃなくて! 話を戻すとだね。さっきも言った通り、ボクたちが刈る魂っていうのは『本当に死んでしまう人』のものなんだ。『本当に死んでしまう人』っていうのは、既に生きる気力もなく、自身も死を受け入れている人のこと。その条件に当てはまらない人の魂を刈ってはいけないっていう規則が死神にはあるんだ。だから、君が『本当に死んでしまう人』なのかどうか、それを知るためにボクは君と話がしたいんだ」

「……そう、好きにすれば」

 どうせわたしはこの病院から動けない。選択肢の広げようがないし、長い長い闘病生活の中でこの病が取り除かれるような未来も霞んで見えにくくなってしまった。そして、この刺繍を仕上げたならわたしは死んでもいいと思っている。わたしはフィリスが話した『本当に死んでしまう人』の条件に相当当てはまっていると思い、軽く話すうちにそのことも伝わるだろうと、彼女の提案を安易に飲みこんだ。

「よし、じゃあ決まりだね! これから五日間、ボクと沢山話をしよう。それ以上会話をしたら、死神の特性上、ボクたちの意志とは関係なしに君が『本当に死んでしまう人』という判定になってしまうからね。だから五日間だけ。そこまで……うん、ボクたちは一緒に過ごして、沢山おしゃべりする友達だ。よろしくね、ロゼ!」

「五日間……いえ、多分三日で充分だわ。それだけあればこの刺繍も完成するし、わたしがその『本当に死んでしまう人』にふさわしい人物だと、あなたにも伝わるはず。それまで友達ごっこでもしましょうか」

「そんなの話してみないとわかんないでしょ? 人間て、案外自分の事はこれっぽっちも知らない生き物だし、自分に対してたっくさん嘘を吐いてる生き物なんだから」

 ちくり、ちくり。この喧しい死神からも、意味のない人生からも解放されたい。そんな事を思いながら縫う調子を早める。

 けれど、なぜだろう。フィリスのことばが胸に痞える。

 ちくり。わたしは産まれてからずっとわたしで、誰よりわたしを知っている。

 ちくり。わたしは嘘を吐くほど大した望みも持っていない、嘘を吐く理由がない。

 ……ちくり。

 そうして、死神と過ごす五日間が始まった。



 初日――つまりフィリスと出会った日は、わたしのつまらない身の上話をするくらいだった。

「ロゼはずっとこの病院に居るの?」

「ええ。多分産まれてすぐに。物心ついたころにはこの部屋に居て、ここが生まれ育った家みたいなものだわ」

 刺繍を続けて、花をいくつか完成させた頃。目と身体が疲れてきて作業を中断した時に、すかさずフィリスは話しかけてきた。わたしも特段隠すような事でもない、当たり前のことだったので素直に話す。

「珍しい胸の病気でね、歩いたらすぐに息は切れるし、走ったりなんかしたら喘息も。体に血を巡らせるのも上手くいかないみたいで、ほら、手も死神のあなたと同じくらい白いわ」

「ほんとだ! お揃いだねえ」

 自分の青白い手に、フィリスの青白い手が重なる。彼女の掌はわたしと同じくらい冷たかったが、その表情はとても暖かかった。いつも遠目で見ている暖炉の間近へ行ったら、こんな風な感覚なのだろうか。

 とにかく、他の人がするように痛ましく思い同情するでも、心配するでもない、あっけらかんとした無邪気な反応が新鮮だった……新鮮だった? 抱いた感情は少し違う気もするが、上手く言語化できない。

「それで? 治る見込みはあるのかな」

 わたしが上手く言えない感情をぼんやりと抱いているなんてことも気にせず、フィリスは続けて尋ねてくる。彼女に緩く握られた掌からは、冷たさの奥に仄かな温もりを感じた。

「……とても、難しいみたい。『症例が少ないから確立された治療法がまだ見つかっていない』って、先生が話しているのを聞いたことがあるの」

「センセイ?」

「わたしを担当してくれているお医者様よ。憶えている限りではずっと、あの人がわたしの病気を診てくれているわ。先生の言う通りにしていたら、少しは病気も楽になるし、言うことを守らなかったらもっと苦しくなった。あの人は嘘は吐かないから、治すのが難しいというのも本当だと思うわ」

 ふうん、とフィリスは言って、少し考えた後にぽつりと呟く。

「ロゼは、病気を治したいと思う?」

「……どうかしらね。でも丁度五日後、あなたとの友達ごっこが終わった後に病気を治せるかもしれない手術があるわ……成功する確率はほんの一分ほどで、失敗した場合は死んでしまうそうだけれど」

「そうなんだ……じゃあ、手術を受けるためにも『本当に死んでしまう人』になっちゃいけないね! ……っとと、あんまり本人の意志に割り込む発言は罰則、減給だあ」

 屈託なく笑った後に、すぐさま慌てて焦りの表情を見せるフィリス。出会って数時間だけれど、秋空よりも目まぐるしく変わるその表情はこの部屋に彩りを与える。そんな風に思えた。

 そんなフィリスなら色々な話も零してくれるだろうと思い、わたしはつい訊いてみてしまう。

「ねえ、わたしばかり話しても面白くないから、あなたの話を聞かせて。今までどんな『本当に死んでしまう人』に会ってきたの?」

「ええ……? 君にとってはあんまり面白くないかもよー? その話」

「いいから、わたしは聞きたいの」

 本人は乗り気ではないようだが、わたしは聞きたい。この子が見てきた『本当に死んでしまう人』はどのような風に人生の終幕を受け入れてきたのか、その話を。

「変な趣味だねぇ……じゃあ、ボクがはじめて死神の仕事で会ったお爺さんは――」

 どこか嬉しそうに「変な趣味」、と言った後に、フィリスは打って変わって落ち着いた調子で話し始めた。白黒の部屋に二点だけ存在する空色の瞳。それが写し取ってきた此岸との別れ話が、わたしの鼓膜へ静かに伝わる。海なんて見たことは無いけれど、波というものはこういう音を立てているのではないか、そんな風に思えた。

「――趣味の彫刻は完成させられなかったけれど、孫の顔も見られて良い人生だったなぁって、笑いながら亡くなったよ。凄く綺麗で……でも、ボクは肉体と魂を分つのが悲しかったんだ」

「悲しかった?」

「うん……もし、もう少しだけ、ほんの少しでいいんだ。長生きして彫刻を完成させられていたら、お爺さんの人生は満点……いや、それ以上になったかもしれないって。どうにか生きる選択肢があれば、ボクが魂を刈らなくちゃいけない状況は免れて、もっと良い終幕ができたんじゃないかなって……」

 顔もしらない老人の、その状況を自分と重ねてしまう。もしわたしも刺繍が完成しないうちに死んでしまったら。それは悔しい。せっかくここまで頑張ったのに。けれど、刺繍が完成したら……。

「……完成したらしたでそのお爺さん、また新しい彫刻が作りたくなって、また完成させて、新しいのを作りたくなって……その繰り返しで、結局その一点に関しては満足できないんじゃないかなって、わたしは思うわ」

「……そうなのかなあ。うーん」

 フィリスにはそういった趣味はないのだろうか。あまり共感できないようで、首をかしげながら呟いた。

「人生の満点って、どうやったら取れるんだろうね……」

 漠然としたその問いに対して、わたしが得られる解もなく、話はそこで途切れた。



 わたしを数値化するならば、何点だろうか?

 開いた窓から吹く風に、ふわりと踊るカーテンが、

 まばゆい光を引き連れて、わたしの無価値をあざ笑う。

 働けない、動けない、役立たず、役立たず。

 日がな陽光を遮断する彼は、商店街ではいい値だったそうだ。

 日がなベッドに横たわるわたしは、商店街ではくず値になりそうだ。

 わたしを数値化するならば、零点だろうか。


 遮光カーテンにすら嘲られるような、そんな夢を見て涙を流したらしい。目を覚ますと、傍らで既に起きていたフィリスが「だいじょうぶ?」と、ハンカチを取り、涙をぬぐってくれる。死神は他の人に見えなくても物理的な干渉は出来るようだと、目覚めたばかりの頭でぼんやりと思った。それがフィリスと過ごす二日目の始まりだった。

 その日はわたしが縫い続けているネクタイの刺繍について訊かれた。

「刺繍、綺麗だね! ネクタイの生地が空で、おっきな樹が一本、花も咲いて、雲も程々、きっと晴れの日だね。でも、ちょっと樹のかんむりと花畑の間が寂しくない?」

「……どうかしら。外なんてあんまり見たくないから、意識してなかったわ」

 刺繍の作業をする傍ら、フィリスは横で大鎌を杖にしながらその工程を楽し気に見ていた。始めは物騒な物を杖にしないでほしいと思ったものだったが、作業を続けるうちに気にならなくなった。

「ずっと気になっていたんだけど、そのネクタイどうするの? ロゼがつけるわけじゃないよね?」

「これね……これは、先生にプレゼントするの。いままでありがとうって」

 ちくり。今日も薄青のネクタイに赤い花を散りばめ、花園を作ろうとしていた。一針ずつここまで世話になった感謝を込めるように。もう少しで完成、といった風だ。

「いままでありがとうって……」

 フィリスは「それじゃあまるで手術に失敗して死んじゃうみたいじゃない?」と不満そうにぼやいていたが、そんな台詞を吐く死神というのもどこか滑稽で、少しだけ笑えた。

「でも死神が近くに来ているってことは、あながち否定できないでしょう? むしろ、わたしが死ぬ確率の方が高いわ」

「それはそうなんだけど……!」

 何か言いたげにぷるぷると震えるフィリスだったが、結局は何も言わずに飲み込んで、へにょ、と不服そうに顔を歪めるのだった。きっとまた死神の罰則に触れるような事を言いそうになったのだろう。その表情もどこか面白くて、先ほどと同じくらいには笑えた。

「笑わないでよ! ……ううんと、それで、どうして刺繍なの? プレゼントなら他にも色々あるでしょ?」

 強引に話題を戻す死神に、わたしも笑いを抑えて答えてやる。

「刺繍の入ったネクタイなら、手編みのものとかより先生も使いやすいだろうなって思ったのよ」

「そうじゃなくって、もっと手軽に用意できるものもあったんじゃないかなーって……縫うときも結構休み休みだし、体力的にもしんどそうに見えて」

 言う通り。縫う時は流石に身体を起こさなくてはならないし、その体勢は体重をベッドにゆだねているときよりもずっと疲れる。なのに、どうして身を起こしてわたしは刺繍をしているのか。少し考える。

「……ただの、趣味よ」

 ちくり。布に針を通していないのに、昨日と同じく何か自分に針が刺さるような感覚があった。フィリスも訝し気な顔をしていたが、それ以上追求はしてこなかったので、不可解な感覚を頭の隅に追いやるように、わたしはフィリスに話をまわす。

「はい、じゃあ今度はまたあなたの番ね。そうね……生きることを諦めた人間の話とか、無いかしら」

「本当に趣味が悪いよ、ロゼは!」

「いいじゃない、友達として頼むわ」

 都合の良いときばかり友だち面して、と不服そうではあったが、どこかその言葉に嬉しさも覚えているようで、フィリスは思い出すのに少し時間をかけた後、孤独のまま死んだ男性の話をした。

 昨日と同様、フィリスが魂を刈った人間の話をするときの声音は普段と違って静かなものだ。語っている間はこちらもゆっくりと耳を傾けながら、刺繍の作業を進める。

「――子供も居なかった、職もなかった、帰るべき家もなかった。その男性には何もなくって、『自堕落のツケだ。何も残せない、意味も価値もない人生なんだよ』なんて、達観……諦観? したような口ぶりで言い残して、亡くなった。彼なりに納得した最期だったのかもしれないけれど、ボクは心のなかで何かもやもやしていて、何か言いたいことがあったんだけれど、上手く言えなくて……」

 話を終える頃には、フィリスの口調は重々しく、もごもごとしたものになっていた。昨日もわたしと同世代と言っていたし、死神としての経験も浅く、あまり気持ちの整理がついていないのかもしれない。けれど。

「わたし、少しわかるかもしれないわ」

「ボクが言いたかったこと?」

「違うわよ、その男性が納得して逝った理由の方。自堕落なつもりはないけれど、意味だとか、価値だとか。そんなものはわたしにも無いわ。だって、得たものも残せるものもない無価値そのものなんだもの、わたしは。それどころか生きながらえているせいで、家族や病院の方々を悩ませてばかりだわ。なんの価値もない癖に苦しみばかり増やす益のない人間……だったらいっそ、死んでしまった方が良いって思う」

 珍しく長く一息で喋ったせいか、少し咳き込む。フィリスは背中を撫でてくれたが、表情は険しい。

「なんだろう、今、あの男性を送ったときと同じもやもやを感じるよ……意味も価値も何もない人間なんて、居るのかなって思うんだけれど、自分がどうしてそう思うのか、言葉で説明できないんだ……そういう、もやもやだ」

 意味も価値もない人間なら、少なくとも今ここに一人居る。他の誰でもない、わたしの事だ。そう思ったけれど一度咳き込むと軽度の喘息のようなものが起きて、咳が連続してしまう。そのせいで……いや、そのおかげか。思ったことはことばにせず飲み込めた。

 水を飲み、フィリスの介抱もあってか咳は早くに治まった。けれど、それきり先の男性の話をすることはなかった。



 小鳥の歌がわたしを刺す。

 自覚無き悪意がわたしを刺す。

 美しい声の罵倒がわたしを刺す。

 一昨日も見た光景だ。いい加減にしてくれ。

 苛立ちを込めてわたしが石を投げれば、鳥は容易く死に落ちる。

 一羽、一羽、殴るように。

 そうして歌が鳴り止んだ頃、苛立っていたはずなのに、

 わたしは涙を流すのだ。


 ちくり。胸の痛みで目が覚めた。きちんと薬は飲んだはずだが……とも思ったが、そういった病によるものとは別の痛みな気もする。

 ベッドに背を預けたまま首を傾けると、いつも刺繍用の針や糸、そしてネクタイを置いている場所に、にへらと笑うフィリスが立っていた。その手には針と、ネクタイの生地よりもずっと濃い青の糸が握られていて。そして三日目ともなれば彼女の扱いもだいぶ慣れてきて。

「……やめてね?」

「ボクまだ何もしてないよ!?」

 この、へんてこな死神との会話の調子も掴めてきた気がした。フィリスは「まだ」何もしていなかったようで、ネクタイは無事だった。本当に夢見は悪かったが、今目が覚めてよかった。そんなことを思う一方で、フィリスはたった、とカーテンの方に駆け寄り、首から先をカーテンの向こうに突き出して何か言っている。

「――――!! ――!」

「……カーテンでもごもご言って、何喋ってるか分からないよ」

 呆れた口調で言えば、フィリスはすぽん、とカーテンから首を引っこ抜き、今度はこちらにわかるように喋る。

「昨日ね、刺繍の柄が何か寂しいなーって思ってたけど、さっき外を見たら分かったよ! ここ、鳥がいたら賑やかになるんじゃないかな!」

 相変わらず、死神とは思えないほど快活な歩調でまた刺繍用具の方へ歩いてきて、昨日指摘した樹冠と花畑の間を指して、そんなことを言う。フィリスは一切の悪意を含まない顔で言うが、わたしの表情は自然と曇る。

「……要らないわ、鳥なんて」

「ええー? 居た方が賑やかだと思うんだけどなぁ……ってことで、ネクタイの樹と花の間に鳥を縫おうとしてたんだけど」

「必要ないって言っているでしょ」

 フィリスの話を遮り、わたしは今日も糸を手繰る。花畑も完成間際で、見込み通り今日には終わるだろう。これが終わればわたしの「意味」もなくなるだろうか。

 ちくり。どちらにせよ、三日後の手術は失敗して終えるであろう命だ。難しく考えることもない……はずだ。

「何でそんなに……縫う手間が増えるから?」

「違うわ。単純に鳥が嫌いなだけよ」

「いいじゃない、鳥。ぴよぴよ鳴いて可愛いよ?」

 フィリスは両腕を振って、羽ばたくようなしぐさをする。なるほど確かに、これは少し可愛いけれど。くすりと自分の口から笑いがこぼれたが、構わずわたしはそのまま喋り続ける。

「この部屋だって、窓を開けていれば鳥もたまに遊びに来てくれるわよ。けれど触らせてくれないし、いつも勝手にやってきて、勝手に去っていく。きっと何もできない、遊び相手にもならないわたしに呆れて出ていくんだわ」

 わたしの笑みは自嘲へ変化していく。無邪気を装った鳥もあたりまえの自由に浸りきっていて、不自由を嗤い、尊いはずのあたりまえを行使して、不自由なわたしを刺して出ていく。

 外に居る小鳥は小さい頃、この病室の数少ない訪問者だったけれど、成長してそのことに気付いてからは嫌悪と悔しさの混じった感情で鳥たちを見るようになって、ついにはカーテンで日夜外が見えないようにして、視界から追い出すようになった。

 ……ちくり。どうにも心がざわついて刺繍の手が進まない。あと少しで終わるのに。

「どうして、かしら。手が進みにくい。少し疲れてしまったかな」

「……ロゼ、その答えは多分、初めて会った日に君自身が」

 羽ばたきのしぐさを止め、目を伏せてフィリスが言う。言わんとする意味が解りそうで、けれど解りたくなくて肌があわだつ。

「ねえ、今日も話してくれる? あなたが出会った『本当に死んでしまう人』のこと。いえ、やっぱり今日は、死ななかった人の――」

 これ以上この事実を見てはいけない、目を逸らすように、わたしは話を切り上げ、または切り出し、その切り出した話さえもすり替える。

「……やっぱり、今日は話さなくていいわ。今日はゆっくり休む」

 わたしは刺繍セットを置いて、毛布にくるまり再び目を閉じる。あれだけ終わらせたかった刺繍を仕上げる気にもなれず、フィリスと話す気分にもなれず、微睡みに身をゆだねてただ時が過ぎるのを待っていた。



 きっとそれは恐れなのだろう。

 変わらぬ色のない世界に伏すわたしは、

 転変する鮮やかな世界が怖い。

 羨みと紙一重のそれが歩みを止めさせる。

 だからわたしはずっとここに居る。

 変わらない世界で、変わらないまま、いつの間にか消えたい。

 そう思う……どう思う?

 わたしの同意を求めるような声は反響して、わたし自身に返ってきた。


「よし、行くよ、ロゼ!」

 フィリスと過ごす四日目。わたしは妙な倦怠感や不快感を覚えたままで、刺繍はあと一針、といったところで止まってしまっている。もやもやとした感情が表情にも出ていたのか、フィリスもわたしに気を遣うように、なんでもない話を続けていた。

 けれど、宵の口。日も落ちて空も暗く、ランプが必要になった頃に、待っていましたと言わんばかりに手を叩いてわたしのベッドを揺すった。

「いきなり何……?」

 まずは揺する手を抑えてから、先から抱えている靄がかった心情を隠そうともせず、わたしはフィリスの空色の瞳を見る。その瞳は夜でも陽の下のように晴れており、どこか楽し気であった。

「三日間話してて思ったんだ。この部屋はあまりに狭くって、君という人間を知るには不十分だって。だから――」

 ふわり、体が宙に浮くような初めての感覚。一瞬何が起きたのか分からず、えっ、と声が漏れるが、続くフィリスの声で状況を理解する。

「外に行ってみよう!」

 今わたしが居るのは、フィリスの背中。とても少女と思えない力でわたしはおぶられているのだ。続いてがらりと音を立てたのはいつも閉じたままにしていた窓。フィリスはやはり人ではない何かなのだと思い知らされるような力強さ、身軽さで窓枠をうさぎ跳びして、わたしとともに色のない世界を突き破る。

 かつては窓越しに見ていた世界。けれど数度しか踏み入れたことのない生気みなぎる世界。ついには羨みに似た恐れからカーテンで遮った世界。そこに今、わたしは居る。絵画の中に踏み入れたような心持ちで、あふれる生命の情報を五感で受ける。

 わたしをおぶったままフィリスは風を切って走る。向かう先は根元に花園の広がる大樹……わたしが刺繍のモチーフにした風景があった。

「昨日ね、カーテンを開けて外を見たとき気付いたんだ! あの刺繍は、この風景が、元になってるんだって! 思い入れ、あるの?」

 はっはっ、と息を切らせながら、フィリスは一目に樹に向かって駆ける。背中越しに少女の拍動が、肺の拡張と収縮が、血脈の潮騒が見え、聞こえるようだった。わたしはそっとその背中に耳を預けながら、風にかき消されないようにはっきりと喋る。

「うん……小さい時、頑張ってあそこまでひとりで歩いてみようって思って、ひとりで病院を抜け出して、途中で倒れちゃったことがあったの。それ以来、外に出ちゃダメって言われて……」

「そっか……でも! 今日は、ふたりだから、いけるねっ!」

 ぴょん、と跳ねるようにフィリスは樹の根元に着地し、草花の茂る場所にわたしを下ろしてから……大きく息をついてごろんと地面に寝転んだ。死人のようだった肌はうっすら上気しており、汗までかいている。瞳だけでなく全身が色づいたようで、その姿こそがフィリスの本来の姿なように見えた。

「ふふ、死神って案外体力ないのね」

「そんなー、ボクがへっぽこっていうのも、あるけれど、人間って、結構重たいんだよー?」

 軽くおちょくると、息を切らせたままフィリスは笑う。それにつられてわたしも表情が緩む。そして、しばらくしてから昨日今日とふさぎ込んでいた自分の口からそんな冗談や笑みがこぼれたことに驚くのだった。

「ロゼも寝そべってごらん、すっごいよ」

 にへら、と笑いながらされた提案にわたしは頷き、全身を草木に預ける。そこでは幾重にも重なる生命の息吹が噪音となり、拍子を刻んでいた。

 樹の冠が揺れれば若葉がほろりと地に落ちて、ゆらり、さわりと大河のような草原の表面をなぞるように渡っていく。風は草花を撫ぜながらその航路を示し、わたしが見たこともない彼方へと若葉を運ぶ。それぞれの事象が自由に動きながらも噛み合うその様に、わたしは息をのんだ。この彩りの世界は、どこまでも自由だ。

 心のどこかで恐れを抱えていた部屋の外は柔らかくわたしを包み込む。ふわふわとした心地の中、もう眠っていたと思っていた鳥が樹の冠からぱたぱたとわたしの腕に降りてきた。随分夜更かしな鳥だけれど、色のある世界に包まれている今なら、この小さないのちとも仲良くできるかもしれない。

 そう思いそっと腕を持ち上げ、顔を近づけようと――すれば、鳥はまた羽ばたいて樹の冠へ戻ってしまった。けれどそこに寂しさや悲しさは無かった。

 前までは鳥たちがわたしの部屋への訪問者だったけれど、今はわたしたちが鳥の家への訪問者だ。鳥たちはわたしと同じように、自分の過ごす場所でいつも通りを過ごしていて、わたしたちは鳥たちと同じように、自由にこの場所に遊びに来て自由に去るだけだ。

 つまりはこの鳥も、わたしも、今この瞬間は何も変わらない、自由に隣人にちょっかいをかける存在なのだ。それに気づくと、胸の内からことばが溢れそうになるけれど、これは、言ってはいけないことだ。言ってしまったら、わたしは。

 ぐっと言葉をのみこむと、横からフィリスの声が聞こえる。

「明日で、ロゼのところで過ごすのも最後だね」

「……うん」

「ボクは君の素直なことばを待っているよ……じゃあ、あんまり長く居ても風邪ひいちゃうから、戻ろうか」

 フィリスはにこやかな表情のままだったが、その声音はどこか寂しそうだった。されるがまま、わたしはフィリスの背中に再び体重を預ける。わたしが顔を埋めたフィリスの黒いマントからは草木や土、空気の香りが染みていて、生命の動いていた残滓が見えた。



 ことばにしたくないのは、それが本当だから。

 本当は自分への嘘を引き裂いてしまうから、ことばにしたくない。

 嘘で守られた世界は自分の体温で満たされていて温かい。

 嘘を剥がした世界は外気に晒されていて、寒くて怖い。

 けれど、せめてその寒々しい世界に、縋れる温みがあるとしたら。

 もしかしたら、とわたしは思うのだ。


 昨日は外に出たせいで、知らぬ間に結構疲れていたようだった。昼間に目を覚ましたわたしは、手術前日ということで先生と話をして、夜になってようやく一人……正確にはわたしとフィリスの二人になる。刺繍はやはり最後の一針が縫えておらず、結局先生には渡せなかった。

「さて、と。いよいよだね」

 心なしか緊張した面持ちのフィリスが、大鎌を持ってベッドの脇に立つ。上体のみを起こしたわたしはその顔を真正面に捉える。彼女の空色の瞳がランプの灯りを写し取り夕暮れ空のようで、それが生と死の境界を表しているようにも見えた。

「君が既に生きる気力もなく、自身も死を受け入れている人……つまりは『本当に死んでしまう人』かどうかを決めようか。けれど、その前に。少し質問してもいいかな」

「何? わたしは、死んでもいいし、気力どころか体力がもう死人のそれだわ」

「違うよ、そうじゃなくって……何で刺繍を終わらせたくないか、自分で解った?」

 そのことばは真っ直ぐにわたしを刺す。夢の中の鳥のように。だからわたしも、夢の中と同じように声を張り、拒絶の意志であることばの石を投げる。

「そんなの、決まっているわ。わたしにはもう、針を扱うほどの体力もないの」

 見え隠れすることばをのみこみ、そう信じ切っている、という風に言う。そのことばを受けてフィリスはうつむき、ぐっと拳に力を入れて、びりびりと張り裂けそうなほどに叫んだ。

「嘘だ……いつもいつも……そうやって思ってもいないことばっかり喋って……それが本音みたいに喋って! 思うことがあるなら、『こうしたい』、『こうなりたい』って意志があるなら、話くらい雁字搦めにならないで自由にしろよ!」

 投げた石が、受け取られて投げ返された気分だった。わたしは束の間、ぽかんとする。わたしが、自由にできる? 無遠慮にさえずる鳥たちならともかく、わたしがそんなことをできる……はずが、ない。

「全部、全部本音よ……勝手にわたしを決めつけないで、わたしのことなんて全然しらないくせに。四日話したくらいで解った気にならないで!」

「嘘ばっかりで自分の事を知ろうともさせていない奴にそんなことを言う資格何て無い! だから、ボクが教える……まずは、刺繍を完成させられない、いや、完成させたくない理由。それは君自身が言っていた。お爺さんの彫刻と同じだ、完成したら、次のものが作りたくなってしまうから。次を作るなら、生にしがみつかなきゃいけない。けれど、何時死ぬかもわからないから、生にしがみつくのが怖い……だから、完成させないで逃げたいんだろ」

 違う、違う。わたしは耳を塞ぐが、フィリスの声は手で作った壁を貫通して届いてしまい、はらりと嘘の皮が捲れる。

「生きることににしがみつくのが怖い訳じゃない……人に迷惑をかけながら、生き続けるのが怖いの……わたしからは何も返せないのに、意味もなく、茫然と、生きてしまうのが……怖いの……!」

「だから、何か返そうとしたんだろ、いよいよもって死ぬかもしれないっていう時に、何も返せなかった意味のない人生だなんて思いたくなくて、先生に刺繍を施したネクタイをあげようとした。それも、きちんと『自分の努力』っていう価値をつけた刺繍で、だよ。意味を見つけながら生きようと、出来ているんじゃないのかな……それって」

 自分からあふれようとしていた理解を拒んでいたことばが、フィリスの口からあられのように降ってくる。その通り、わたしは自分の生に「人に恩返しをする」なんていう意味や、「努力をした」なんていう価値を、あの刺繍をすることでつけようとしていた。

「でも、そうやって意味や価値をつけてしまったら……死ぬのが怖いじゃない……だから、この最後の一針は、縫えないの」

「いいんだよ、意味や価値をつけて! そして死ぬのを怖がって、生きるの。それで、いいんだよ」

 張り詰めたことばのあられから一変した、穏やかな風のような声に、わたしはたまらず涙を流してしまった。思えば生きていることを肯定されたのは、初めてだったのかもしれない。

「でもっ……手術は難しいって……だから多分、わたし、手術に失敗して死んじゃうの……」

「なに弱気なこと言ってるのさ、ロゼ。難しい事なら、今日まで沢山こなしてきたでしょ? 重たい病気と闘って、今日までそれに連戦連勝で生き残ってきた! だから、手術だって耐えられる、この勝負も勝てる! これまで病気と闘ってるときに考えてたことを思いだして、それが支えになるはずだよ」

 病気と闘うときに何を考えていたか。嗚咽交じりの思考で思い出を掘り返してみれば、それは案外単純な事だった。

「外を自分の足で駆け抜けてみたかった、あの樹の下から見える景色をみたかった、お世話になった人たちにいつか恩返しがしたかった……けれど、どれも目先の目標で、それを果たした後に長く長く続く人生で、何をしたらいいかわからないの……だから、はっきりと『こうしたいから生きたい』っていうのが、見えないの……」

 今まで考えていたことは単純。けれど、その先も続く人生には、想像もつかない広い世界があって、道しるべをそれまでみたいに簡単には立てられない。その行く先の見えない不安に、再び思考は死に吸い寄せられる。

 そこに冷たい肌と、その奥から伝わる仄かな温みが差した。涙を拭って手元を見ると、フィリスの白い手が、わたしの白い手と繋がっていた。

「じゃあボクと、約束しよう。すっごく遠い未来の約束。『おばあちゃんになったらまた会おう』って! ボクたち死神は死が目前に迫った人にしか姿が見えない。だから、次にボクが見えるときがあるとしたら、お互いおばあちゃんになったときだ。おばあちゃんになるまで、死んじゃダメだ……これで、どう!」

 ただでさえ想像もつかない、未来という広い世界に結ばれる約束。けれど、変わらずにへら、と笑うフィリスの顔に、その約束なら信じられる、という確信めいた感情が生まれた。

「うん……それなら、信じてみよう、かな……」

「……よし! じゃあ、明日の手術にそなえて。最後に確認しよう!」

 つられて笑うわたしに、フィリスは満足気に頷いてから、部屋の遮光カーテンと窓を開ける。外は青い月が昇っており、変わらない様子で樹や花園が風に揺られていて、美しかった。

「まず一つ。死ぬのを怖がるために、君の人生に、自覚ある意味と価値を刻もう」

 言わんとすることを理解し、わたしは刺繍セットを手に取り……最後の一針を縫って花畑を完成させた。これでネクタイは外の風景と似た、空と雲と樹と花のある、鮮やかなものとなった。これが、わたしが努力して、恩返しをした証だ。

「次に、手術が終わった後すぐに、元気になったら何したいか、考えてみて」

 終わったらまず、自分であの樹の下まで歩いて、いつか病室に鳥たちがふらりと遊びに来たみたいに、わたしも彼らの下へふらりと遊びに行こう。大丈夫、わたしも鳥も同じ生命で、自由なものだから、怒られることなんてない。そうしている自分の姿を想像して、強く頷いて見せる。

「うん、じゃあ、最後に――」

「待って」

 最後の確認を終えてしまったら、彼女に会うのはずっと遠い未来だ。その前に聞きたいことがあって、ことばを遮る。

「どうして、わたしを生かそうとしたの? 嘘をそのまま受け取っていたなら、わたしはあなたに魂を刈られるはずだった……でも、わたしが生きるように促して。これって、前も言っていたけれど、規則違反よね? どうして、そこまでして……?」

 死神なんて、沢山の人の最期を見送る者で、「減給」と前に話していたのだから、きっとあくまでこれは仕事なのだろう。なのに、彼女は真っ直ぐにわたしに向かって、嘘を剥がして、生きることを支えようとことばをかけてくれた。それが不思議でたまらず、訊いてしまった。

 フィリスは規則違反、ということばに引きつった笑みを浮かべたが、質問自体にはあっさりと答えた。

「ボクはさ、先輩方に比べたらまだまだだけど……それでも色々な人の最期を見てきたし、刈るべきかどうかの判断をするために色々な人の物語を聞いてきたんだ。そのどれもが……とってもきれいで、勇ましくて、かっこいいものだった。君自身も知っているように、生きるのってすごく苦しくて、辛い闘いなんだ。そんな今日までを戦い抜いてきた戦士に引導を渡すのは、ボクにとって苦痛なんだ。ボクは、そんな戦士たちの明日が見たい、その先の未来をいつだって見たいんだ。この先どんな勝利をおさめて、どんな困難にあたって、どんな幸せを勝ち取るのか。そんな物語を見たいから、ついついもっと生きてほしい、って思っちゃうんだよ」

 お給料は少なくなっちゃうけれど、と照れ笑いをする彼女のことばに、わたしは返す。

「じゃあ、わたしもあなたが見て驚くような物語を描くわ」

「……うん、見たい。とっても、見たい! だから、ロゼが描くその物語を見るためにも……最後に約束をしようか」

 相手が差し出す小指に、自分の小指を絡める。

「ロゼ、『おばあちゃんになったら』」

「『また会おう』、ね、フィリス」

 その言葉に泣き笑いのような表情を浮かべて、フィリスは言う。

「やっと、ボクの名前呼んでくれたね……!」

 ふわりと外から風が吹き込む。昨日嗅いだ自然の生気あふれる香りと、強風に目をつむり、再び目を開けた時には既にフィリスのすがたはなくなっていた。それは別れではなくて、わたしが生きる意志を得た証であり、遠い未来への約束を結んだ証拠だろう。

 冷たいような、けれど仄かな温かさを持ったフィリスの体温が、わたしの空になった小指にいつまでも残っていた。



 手術の際は麻酔で眠りにつく。その際に、少しだけ夢を見た。


 自由にさえずる鳥と共に歌を口ずさむ自分を。

 やっと始まった元気な自分が歩み始める、数値化できない自分だけの人生を。

 鳥に投げるのは石ではなく、心からのことば。理解を拒絶する前に、わたしが彼女のように自分から歩み寄るすがたを。

 転変する世界でわたしは生きたいよ、と反響する自分の声に確信めいた回答をする自分を。

 そうして嘘を剥いだ吹き曝しの世界で、何時までも絡めた小指に残る、冷たいような、仄かな温みを。

 走馬燈かとも思ったが、違う。そのずっとずっと先に、しわくちゃに老いた老婆が二人、肩を並べて語り合う姿を見た。

 大丈夫、死神とまた会う日まで、わたしは負けないよ。

 見えないけれど、どこかで見守っているかもしれない彼女にわたしは心の中でそうつぶやくのだった。

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死神とまた会う日まで 札幌埴輪太郎 @HaniwaSafari

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