十七章 朝焼けを待たずして

「もうご出立なされるのですか?」


 陽はまだ地の底。あたりは微睡を残して暗く、しかし地平線には微かな青みが滲んでいた。


「ええ。突然の訪問にもかかわらず、ご親切にありがとうございました」


 と、テリア。

 大吾たちはろくに休息もとらず、グランパスへ急がねばならなかった。魔導に関する知識を得た以上、次になすべきはぬくぬくと眠る事ではない。ただちに〝英輝〟の許へ馳せ、衰えゆくその力を活性させることだ。


「ぼくからも、ありがとうございます。このご恩はいずれ必ずお返しします」

「いえいえ、お二人からの感謝など恐れ多い。あなた方は、われわれ民草の希望です。ただ在るだけで、感謝以上の悦びたり得るのです」

「だとすれば、期待に応えるだけのはたらきをします」


 シデリュテは淡く微笑み、大吾の手を握る。


「これ以上喜ばしい言葉はありませんな。どうかお気を付けて」

「はい、サドさんもお元気で」


 手を握り返し、大吾も微笑む。

 今度はいつシデリュテに会えるか分からない。この世界は懸念なく再会を約束できるほどやさしくはないのだ。だからこそ、そんな世界を取り戻さなければならない。このような思いを抱えるすべての人々のために。


「……それでは参りましょう」


 姿勢を低くしたマズが促す。

 テリアはすでにその上。ヘズの姿はどこにもなかった。


 名残惜しげに背をさらそうとすると、その手を掴まれた気がした。


「あ」


 見れば、それがシデリュテのものでないとすぐに判る。そもそもそれは手ですらなかった。


「マァイ、ロォォォド」


 大吾の魔術によって生みだされた羊皮紙の棒人間だ。


「結局、その魔術がどのような効力を持っているのかは解りませんでした」

「そうなんですか」


 棒人間は必死に腕をはって、肩のうえに乗る。描かれた術式は不気味だが、なかなか愛嬌のある奴だ。


「それが解明できれば、きっと役立つ力となるでしょう。どうかその子を大切にしてあげてください」


「はい。君も一緒に行こうか」


「イギッ、イゲ、ェェェ、ッス」 


 相変わらず言葉は不明瞭で、何を言っているのか分からない。それでも首肯の意思だけは伝わってきて、大吾はその頭部と思われる筒の先端を撫でてやった。

 そうして新たな仲間とともに、大吾はマズへと飛び乗った。テリアに引き上げられ、高くなった視線を尊ぶべき師へと向けた。


 目があうと、シデリュテは手を振ってくれた。大吾もそれに応え、別れを惜しんだ。


 そしてマズが駆けだした。

 かろうじて街道と判る暗闇へ向けて。

 輿望の象徴をその背に負って。


 首都グランパスまでの道程はまだ遠い。

 だが、もはや立ち寄るべきところもない。

 あとはマズの神速にまかせ〝英輝〟の許へと馳せるのみである。


 まずはこの大陸を守るんだ。ぼくの力で、魔物の恐怖をとり払ってやる!


 異形の虎の背で、大吾は使命に奮い立つ。〝英雄〟に選ばれた驕りなどなかった。むしろ、自分が特別な存在として選ばれたことに未だ実感はなかった。それでも、ただ告げられた言葉を信じ、目にしてきた不幸の数々が連鎖することない世を望んだ。彼が目の当たりにした現実は、あまりに惨たらしく虚しさに充ちていたから。


 もうすぐ、もうすぐだ。


 マズの足は驚嘆をはく間も与えぬほどだった。林にかこまれた街道は輪郭などもたず、深緑を塗りたくった下手くそな絵画のようだった。村や街の篝火も、星の瞬きのごとく刹那に燃えあがって、気付けば背を灯している。


 その輝きのすべてが、大吾の守らねばならない希望だった。人々の営みの証だった。〝英雄〟に選ばれた意味だった。


 しかし、希望と絶望は表裏一体である。

 人々のきらめきが、一瞬にして後方へと流れ去ってゆくように、その手に掴める命の数は限られている。


 二の街、三の街と縦断し、いよいよ割れた空が白みはじめる頃。


「え……?」


 突如、晴れることない闇に波紋がうった。

 虚空に虹色のきらめきが浮かびあがり、それがオーロラのごとく天を這ってゆく。

 空は千にも万にも分かたれる。その歪みから滲むように瘴気が垂れこめた。


「な、なにが……!」

「……」


 狼狽する大吾に応える声はなかった。ただマズの筋肉が隆起し、空を馳せるがごとく地を蹴るだけだった。

 誰しも何が起きたのかくらい理解していた。理解しているからこそ、口にはしなかったのだ。


「「「ジリャアアアアアアアァァァッ!」」」


 大吾にも、その意味がようやく理解できてきた。方々で魔物の咆哮がとどろき、天の闇と結びあうように共鳴した。


 白む空に影がよぎる。

 一、十――百と膨れあがる。

 夥しいシミが空を侵してゆく。


 その日、タナキア大陸に朝が訪れることはなかった。

 人々は明日を想うことすら忘れ、ただ絶望とともに空を見上げた。

 朝食にありつくことなく、田畑に向かうはずの足はくずおれ、吟遊詩人は世の終わりを謡った。


 城塞都市グランパス崩壊、前日のことである。

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