十六章 魂の残滓

 大吾がシデリュテから学んだことは幾つもある。

 タクァと〝枷の世界アドヴェーニュ〟の違い。

 魔力マナによる世界の成り立ち。

 そして魔法と魔術――魔導。


 眼前にせまるあぎとを前に、過剰分泌されたアドレナリンが時間を鈍化させる。無数の映像が、情報がシャッフルされ、脳裏をめぐる。引き延ばされた刹那に、本能が最適の一枚を探る。


『魔法とは――』


 やがて、記憶の奔流がほとばしる。


 術式を必要としない、瞬発の超常。

 己はインクに、言葉はペンに、世界は紙に。

 理に記す、世界への誓約――魔法。


『生まれながらに魔術を知るように、魔法もまた内在魔力に刻まれている。あとはその魔力を、直感の筐から抜き出してやるだけでいいのです』


 教えに従い、大吾は未知にして既知、記憶の最奥に封じられた筐に手をかける。


「ジイイィィィ――」


 そして時間は、


「リャアアアアアァァァッ!」


 加速する!

 閉塞する牙の群れへ向け、大吾はその腕をねじりこむ!

 今、筐がひらかれる!


「――エギレムッ!」


 刹那、大吾の虹彩を黒曜石のきらめきが覆った。

 闘志が融けだし、その腕から黒い瘴気として吐きだされた。瘴気はたちまち螺旋をえがき、闇夜の槍を編む!


「ゲリャアアアァッス――!」


 ビチビチと植物の肉がわれ、絶叫とともに弾けた!

 穂先が果てなき咽頭をさき、絶えず生みだされる螺旋の力が牙を、肉を、粘液すらも吸引し捻じ曲げていく!


「ガアアァ、ッス……!」


 魔獣は触手の一本を喰らい返され、たまらず跳び退いた。


 直後、闇夜の槍が霧散する。

 魔法はあくまで瞬発の力。その効力も一瞬に過ぎない。


 憤怒の眼差しはそれを見逃さなかった。

 魔獣は着地と同時、跳ね返るように地を蹴ったのだ!


「……」


 しかし魔獣の敵はひとりではない。

 空へ駆けだした魔獣を迎えたのは、地から湧きだした十にも二十にもなる黒き手だった。

 魔獣は触手で打ち払いにかかるが、あまりに数が多すぎた。死霊めいた手の群れは、次々と掴みかかり、魔獣を空中に縫いつけた。


 間もなくその背後に超重量の影が躍りでた。紫と灰の縞模様が、殺意の幾何をかたどった。


 篝火の視野に一閃。

 双眸の残光が尾をひき、大吾の正面で地面が爆ぜた。


「ゲッ……」


 闇に浮いた影が二つに割れた。

 正中線からまっすぐに骨肉を断たれた。


 それも次の瞬間、黒い球体と化した。粘液が屍を覆ったのだ。魔物の血が大地を腐らせるより前に、ヘズがその血肉を喰らい尽くしたのである。


「お怪我はありませんか!?」


 呆然とする大吾の許へ駆け寄ったのはテリアだった。

 腕を掲げたままの大吾は、そこでようやく我に返った。

 胸に手をあて、背後に庇ったカーナを見る。


「よかった……」


 今度は届いた。助けられた。

 心臓はまだ烈しく拍動している。今更ながら無茶をしたと思う。だが、シデリュテに教えられた事は解った。正しく使うこともできた。とても一人であれを倒すことはできなかっただろうけれど、カーナを守ることはできたのだ。


 大吾はテリアへと向き直る。


「ありがとう、テリア。ぼくは大丈夫」

「もう……。心臓が止まるかと思いました」


 そう言ってテリアが手を差し伸べた。大吾はそれをやんわりと拒否して、カーナへと促した。


 するとテリアは、物憂げに目を伏せた。

 大吾は首を傾げる。

 その真意を尋ねる間もなく声がかかる。


「ダイゴ様、娘を守ってくれたのですね……」


 振り返ると、戸口にシデリュテが立っていた。

 大吾はおもむろに立ちあがり微笑みかける。


「結果的には……。実際は危ないところでした。ご心配おかけして申し訳ありません」


 大吾は選ばれた。〝英雄〟の器として。

 彼はこの世界になければならない希望なのだ。

 それがこんな無茶をしたとあっては、咎めの一つや二つ覚悟すべきだったろう。


「……」


 しかし誰も大吾を叱責する者はなかった。

 誰もが疲れ切ったように俯いていた。


 救いを求めるようにカーナのほうを見ると、


「あれっ?」


 そこにカーナはいなかった。


 シデリュテに視線を戻す。

 けれど彼は、カーナの姿が見えずとも取り乱すことはなかった。

 それどころか目があうと「こちらへ……」と、中へ引っこんでしまった。


 大吾は抗議の言を呑みこんで、それに続くしかなかった。

 そうして導かれたのは、例の本棚の奥だった。ぽっかりと口を開けたままの闇には、薄暗い階段が続いていた。石組みの頑強で冷たい壁が、奥におくに伸びていた。


 そしてすっかり闇に包まれた最奥には、地上のかすかな明かりに濡れた鋼の扉があった。シデリュテはそれを肩で押しあけると、来訪者を迎えた、いっそう深い闇へ向けて右手をかざした。


「……はぁ」


 小さな吐息の漏れた直後だった。

 シデリュテの右手が、疼いたように紅く脈動をはじめた。それは未知の言語で記した文言のようにも、太古の壁画のようにも映る、奇妙なパターンを描いていた。術式であった。


「ダムロン」


 そして魔を語れば、術式は空へ融けるように流れ出した。尾を噛む蛇のごとく輪となり、べつの輪を繋いでめぐり球と化す。それが一際つよく発光したとき、球の輪郭が式でなく炎に燃えた。


「わっ……!」


 大吾は驚嘆を吐きだした。

 だがそれもすぐに絶句に潰れる。

 赫々と燃える火の玉が映しだした景色に、心臓を鷲掴まれる思いがした。


「ダイゴ様の勇気に感謝いたします」


 そう言ってシデリュテは、そこここに術式の刻まれた小部屋の中央へと進んだ。彼の屈みこんだところには、術式の縛に鎮座した髑髏しゃれこうべがあった。


「……カーナです。あの子はすでにこの世には在りません」

「え……」

「あなたが会ったのは、わたくしの固有魔術が生みだした魂の残滓に過ぎません。術者の記憶をもとに複製された幻です」

「……」


 大吾には返す言葉がなかった。

 花畑で出逢った、あの無垢な少女が幻。魔術によって複製された残像だなどと、すぐには信じられなかった。


 だがテリアのあの表情、魔物が現れたときシデリュテがカーナの名を呼ぼうともしなかった事も、そうと受け止めれば辻褄が合う。


「どうして、ぼくにそれを……?」


 髑髏の頭をなでる姿から、その悲しみの深さがうかがい知れた。この部屋を訪れるのも、この事実を自ら語るのも、きっと大吾には想像も及ばない苦痛を伴ったはずだった。


「あなたの勇気に魅せられたからです。果敢にとびだして行ったあなたに、この真相を隠し通そうとするのは不義だろうと」


「そんなことは……」


「あなたはカーナを守ってくれました。その命を賭して。結果としてあれが幻に過ぎずとも、わたくしにとっては愛しい娘なのです……」


 その時、髑髏から影が滲みだした。火の玉の明かりがそこに色を塗り、幼女をかたどった幻が憔悴した男の頭に手をおいた。


「お父さん大丈夫?」

「ああ……何も心配いらない。お父さんは大丈夫だよ、カーナ」


 幼女の頭をなで返し、シデリュテが立ちあがる。


「ダイゴ様」

「はい」

「その勇気を以て邪を晴らしてくださいませ。娘のようなものがない世界を、どうか……」


 シデリュテが重く頭をさげる。その隣で、不可解そうにしながらも、幼女もまたぺこりと頭をさげた。


 大吾は奥歯を噛みしめ、固く拳を握った。


 この世界はあまりに残酷だ。

 あの黒い波に、ドッジたちが攫われていったように。


 けれど、それだけではなかった。それ以上に世界は無情だった。

 この目の届かない場所で、あるいはすでに経過してしまった過去で、多くの命は奪われているのだ。


 それを知った上で、大吾はますます恐れていた。

 魔物という脅威に。それに苦しむ者たちの現実に。

〝英雄〟という平和の鍵として選ばれ、救いを求められることの重圧に。


 いつかの失敗のように、ここで返すべき首肯が、また嘘になってしまわないだろうかと。


 それでも大吾は、目の前の親子の実像へ、そこに燃える魂へ向けて頷く。


「……きっと。いや、必ず。ぼくはこの世界から闇を晴らします」


 信じるべきものは、どこにあるのか。


 内省した過去の自分か。

 過ちの呵責に苛まれる自分か。

 カーナを庇い、運命に反旗を翻した心か。


 そんなものは、改めて問いかけるべくもない。

 

 ついに緊張の糸をきり、くずおれたシデリュテを前に、大吾の心は沸々と滾るようだった。

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