十五章 蛮勇
古びて黄ばんだベッドの上、テリアはテーブルの上に置かれたランプの淡い光を見つめている。その傍らにはカーナの用意してくれた料理がある。贅沢な品ではないが、魚肉や野菜を煮詰めたスープで、たいそう美味だ。だが、もうすっかり冷めている。
『召し上がらないのですか?』
「今は食欲がね……」
壁際に膨れあがったテリアの影が、一瞬ぞわりと蠢いた。どこからともなく聞こえた声は
『お疲れになりましたか?』
「……ええ」
『〝忌血〟たちのことは、私も残念に思っています』
「嘘の慰めなんて聞きたくないわ。あなたは彼らのことを嫌ってたじゃない」
『いいえ、私が嫌っていたのは魔物の臭いに過ぎません』
「屁理屈よ……」
使い魔は人間ではない。実体をもたぬばかりでなく、その精神構造が同じとも言えない。主人が落ちこんでいれば、自らも感情を反復し、それを修正できるよう振る舞う。そのような理のなかに生きているとしか思えない。
『ふむ』
そう言ったきり、マズは黙りこむ。図星なのだ。使い魔にとって、主人以外の人間の生き死になど大した意味をもたないのだろう。ましてそれが忌み嫌う臭いでしかないのなら、消えてくれて清々しているに違いない。
『……しかし希望もあるではありませんか』
ふいにマズが言った。今しがたそれに思い至ったというより、まるで端からそれについて話すために口を開いたという風だった。
「英雄様のこと……?」
テリアは震えた声で答える。
『ええ、タクァの悲願は叶ったのです』
「胸を撫でおろすには早いわ。あの方を〝英輝〟の許へ送り届けるまで油断できない」
『うむ。他大陸にも渡航せねばなりませんね。〝英輝〟の力を復活させた後、あの魔物の大群を討ち取る術を考えていかねば』
「……ええ」
テリアの声は、重い憂いに沈んでいた。
目的を果たせば、この心を蝕んだ桎梏を払拭できると思っていた。しかし問題は、むしろこれからなのだ。世界はあまりに翳りすぎた。
『ダイゴ様は立派な方です。前をむく心を具えている』
テリアはランプの眩さに目を眇めるようにした。
「あの方と話したの?」
『ええ。少々ですが』
「そう……。あの方は〝英雄〟に相応しいと思う?」
それは裏を返せば、自分が〝宣告者〟に相応しいかという問いだった。
『口にするのも恐れ多いことです』
「ここに私以外の耳はないわ。あなた個人の意見でいいの」
テリアはあくまで食い下がった。
『ウゥ……!』
それに対する答えは唸りだった。相応しいとも、相応しくないとも返ってこなかった。
だがそれは逡巡ですらもなかった。
唸りは次第に獣のそれへと近づき、テリアの影を慄いたように震わせるのだった。
『来ます! このニオイ……〝
◆◆◆◆◆
「ジリャアアアアアアアァァァ……」
闇を裂き、家々の壁をつらぬき轟いたのは、正体不明の叫びだった。それは羊皮紙から形作られた棒人間の不鮮明な声ではない。まぎれもなく
「この鳴き声っ……!」
シデリュテが弾かれたように立ち上がり戦慄する。口許に手をあて、焦点の定まらない瞳で背後の本棚をふり返った。
「ダイゴ様、こちらへ!」
鬼気迫る様子に、大吾とて恐怖を感じないではいられない。だが、何が起きたのくらい確認しておきたかった。
「待ってください、何が起きてるんです?」
シデリュテはなぜか棚の本を並べ替えながら、背中で答えた。
「魔物、〝変異種〟です。それも先の鳴き声、とびきり素早く獰猛な〝狗型〟に違いないでしょう」
〝変異種〟。
大吾は亀の怪物の熱線を思い出しおののく。
「ジリャアアアアアアアァァァァァ!」
その短いやり取りの間に、鳴き声はすぐそこにまで迫っていた。
悲鳴のような声も混じり、足音がドタドタと恐慌を踏む。
その時、シデリュテが濃緑の本を棚におさめると、緩やかな振動が立ちのぼってきた。
「今度はなんです!?」
その問いの答えは、眼前に現れた。
狼狽える大吾の前で、本棚のひとつが床へ沈み始めたのだ。
シデリュテのギラついた双眸が向けられる。
「これは地下室へ続いています。仮に嗅ぎつけられたとしても、堅牢な作りです。そう易々と破られることはない!」
シデリュテが手を伸ばす。こちらへ来いと眼差しが叫ぶ。
大吾の胸は早鐘をうつ。外から突きつけられる悲鳴が、拍動を加速させる。
「ダイゴ様、早く!」
痺れを切らしたようにシデリュテが叫んだ。魔物の咆哮はいっそう激しくコムサの村を戦慄させた。
「……!」
しかし大吾の聴覚は、次第にそれらの音を置き去りはじめる。耳に水の膜を張ったようだ。唾をとばし、こちらへ駆け寄ろうとするシデリュテの動きまで、緩慢に、鈍重に見えた。
やがて像は融け、過去を編み始める。
すべてをさらう黒い波。命を屠る魔物の群れ。温もりを奪う世界の闇。
「……マァイ、ロォォォド!」
そして今に馳せろというように、棒人間の声が過去から大吾を引きずりだす。
手首をつかんだシデリュテを振り払い、瞠目する師に毅然と告げた。
「ダメです、ぼく行かなくちゃ!」
「なにをっ……!
「一人でも助けられるかもしれない」
大吾は棒人間をつかみ、部屋からとびだした。「お待ちなさい!」の声には従わなかった。気持ちを裏切るようで申し訳ない。けれど、それに甘えて安全なところに引きこもっていれば、多くの犠牲が出してしまうかもしれないのだ。
「……ッ!」
いざ外へでてみれば、そこはすでに惨状だった。
テリアたちが先に駆けつけていたものの、篝火に濡れた景色に映るのは、赤、赤、赤だ。横たわった亡骸が、虚ろな眼差しで自らのはらわたを見つめ、井戸に紅がしたたる。
こみあげる嫌悪感と吐き気をのみ下し、大吾は井戸の縁に足をかけた異形を認める。
「ジィィ、リャアァァ……!」
それは一見すれば巨大な狼のようだった。すらりとした褐色の胴を支えるのは細い四肢で、血に飢えた双眸は
テリアから肩越しの一瞥がある。
「ダイゴ様、ここは危険です。下がっていてください」
「でも、」
「サガッ、テ……」
足許に生じた黒い粘液が手をかたどる。テリアの隣の猫背の少女、ヘズが寄越したものに相違なかった。
結局、出る幕はなさそうだ。ここは手練れのテリアたちに任せたほうが、却って危険が少ないだろう。
「あ、あぁ……!」
しかし視界の端に、小さな悲鳴が湧いた。
見れば、腰を抜かして涙を流す幼女がいる。
その顔に見覚えがある――。
「カーナッ!」
大吾はまっ先に駆けだしていた。
魔物が疾駆を打った。
虎型のマズが距離をつめた。
ヘズの黒い泡がはじけた。
テリアが叫んだ。
「ダイゴ様ぁ!」
振りかぶったマズの爪は、身を沈めて躱された。
触手が黒い泡をはじいた。
さらに触手が地をうち、異形が高く跳ね上がった。
大吾はカーナを抱き、地面を転がった。
その背に魔物が着地した。爪先が背をかすめた。燃えるような痛みを頼りに、大吾は振り返る。
そこにすでに触手があった。粘ついた唾液の糸をひいた植物めいた
その喉はどこまでも暗かった。底の見えぬ井戸のようだった。
大吾とカーナは死を目前に目を見開いた。
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