十三章 知に充ちる夜
カーナの父親の工房は、街の中央にもうけられた井戸をかこむ住宅のひとつだった。廃材や葉を編んで作られた〝忌血〟の家とは違い、そこは大吾の感覚で「家」と認識できるものに相違ない。日本家屋とは大きく趣が異なるけれど、通用口があり屋根もある。屋根には煙草でも吹かすように、煙突が伸びていた。そこからもくもくと立ちのぼる鈍色の煙が、瞬く星の空へと吸いこまれていくのか、暗黒へと呑みこまれてゆくのかは分からない。
ただ単にタクァには、このような普通の生活もあるのだと、しみじみ思わされた。
「お父さん、ただいまーっ!」
カーナはドアを叩きあけるなり、夜も飛び起きるような大音声をあげた。家々はほとんど密接するように連なっているので、隣家の住人が怒鳴りださないかとひやひやした。が、特に変化はない。明かりの消えた住宅に、ふたたび明かりが灯ることもなかった。おそらくカーナはいつもこうで、住民たちは慣れているのだろう。あるいは諦めているのか。
幼女を叱りつけるのは、だから彼女の父親だけだった。
奥からドタドタ足音を鳴らして、狐目にしわを寄せて現れたのがその人だった。
「……カーナ」
カーナの父親は、娘を叱咤するつもりでいたらしいが、こちらの姿を見るなり言葉を呑みこんだ。
「テリア様ではありませんか」
先の怒りの気配はどこへやら、彼は従容として言った。感情のコントロールが上手いのか、端から怒ってなどいなかったのか。どこか感情の輪郭が模糊とした印象を受ける人だった。
「お久しぶりです、シデリュテさん」
テリアがぺこりと頭をさげる。
するとシデリュテは大吾を一瞥して、誰何の言もなく「とりあえず中へ」と促した。
カーナがぱたぱたと父親の脇を通りすぎ、テリアが一礼して踏み入った。大吾もそれに倣って「失礼します」と床を踏む。
そう、床だ。日本では靴を脱ぐ習慣があるが、どうやらこちらではそれがないらしい。玄関はカーペットが敷かれているだけで、目の前にすぐ居間があった。部屋の奥はカーテンがかけられていた。窓があるわけではなさそうだ。おそらく台所を仕切っているのだろう。
どうも落ち着かない場所だった。家の作りが粗雑だとか不気味だとか、そういう事は一切ないが、人様の家に土足で上がりこむというのがどうも慣れなかった。礼を失しているというか、とにかく申し訳なさがこみ上げてくる。
「お好きなところへどうぞ」
シデリュテがテーブルの席を示して言う。
椅子の数は三つだ。いつの間にかカーナの姿はない。
テリアが「お言葉に甘えて」と二つ並んだ椅子の一方に腰かける。大吾は必然、その隣へ腰を落ち着けることになった。
対面する形で、最後にシデリュテが着席した。表情に動きがなく、静謐に過ぎてかえって剣呑な雰囲気があった。
「……魔導具ですか?」
なんの脈絡もなくシデリュテが切りだした。そこにはやはり感情の動きを感じられない。
「ええ、そうです。この方はシモツキダイゴ様といいます。彼のためにひとつ用意していただきたくて」
大吾は居住まいを正し「霜月大吾です。よろしくお願いします」と形式ばって追随する。シデリュテはそれに軽く頭をさげてから返した。
「なるほど。珍しいですな。貴女の旅の供は二人だけだと思っていましたが」
「つい先刻まではそうでした。ですが、事情が変わったのです」
「事情?」
「彼は〝英雄〟です」
凛とした声が、一瞬すべての音を消し去った。あるいは時そのものが止まったのかもしれない。
一拍おいてシデリュテの瞠目があった。
「……ついに、見出されたのですね」
「ええ、これから彼にはグランパスまで赴いてもらいます。ですが、まったく魔の知識がないのでは〝英輝〟を覚醒させる障害にもなるかと」
「なるほど、〝渡り人〟ですか」
大吾に怜悧な眼差しを向けたシデリュテは、ずいぶんと察しが良かった。それだけ大吾の服装や態度が異質なのかもしれない。実際、シデリュテもカーナもやたらと襟の大きなシャツを着ていた。カーナに指摘されたとおり、名前も奇妙に聞こえるだろう。大吾が同じことを感じているように。
「となれば、まずは色々と学習が必要ですな」
「ご教授いただけますか?」
「もちろん。今すぐにでも」
そこでテリアは、白皙の頬をほころばせた。
「では、さっそく今からお願いできますか?」
「えっ!?」
仰天する大吾をよそに、シデリュテが深く頷く。
◆◆◆◆◆
睡眠どころか食事もなく、大吾は別の部屋へ通された。
そこはシデリュテの書斎なのか、壁という壁が書棚に埋めつくされ、中央に置かれたテーブルにまで、山と書物が積まれていた。
「どうぞ」
着席を促され、大吾は腰をおろすしかない。
緊張が鉛のように胃の腑を転がる。
失言ひとつこぼれれば、千の刃で斬られるような怒りにさらされるのではないか。そう思わずにはいられない、厳粛な空気がシデリュテの周囲には張りつめていた。
「そういえば、自己紹介がまだでしたな。わたくしはシデリュテ・モレンベイクと申します。気安くサドと呼んでいただいて結構です」
サドという略称は、シデリュテの人柄に似つかわしい名かもしれない。単に感情の起伏の少ない人なのかもしれないが、こうして相対しているだけで、ある種のいじめを受けているような気になるからだろう。
「ぼ、ぼくは霜月大吾です。よろしくお願いします」
「先程お伺いしましたな」
「あ、そうでしたね……」
大吾は苦笑する。どうにも話しづらい相手だ。
だがシデリュテは、すぐに本題に入ろうとはしなかった。
「ダイゴ様は〝渡り人〟でしたね」
「ええ、どうやらそう呼ばれているみたいです」
テリアにも同じことが言えるが、敬称をつけられるのは慣れない。面映ゆい気持ちになるというか、いっそ申し訳ない。けれど「やめてくれ!」という勇気もなかった。
「あちらは平和な世界だと聞きます。蒼穹は常、魔物はいないのだと」
「はい、魔物はいません。人間同士の諍いはあったりしますけど、現代の日本は戦争のない国です」
「なるほど。ダイゴ様はニホンのご出身でしたか。〝渡り人〟は、ちうごく出身の者が多いのですが。どうやら、あちらには星の数ほど国があるようですな」
大吾は意外に瞬いた。シデリュテは多少あちら側の世界について知っているようだ。
「よくご存知ですね」
「わたくしは魔導具を仕立てるかたわら、この村で教鞭を振るっております。本来は魔導学の教師ですが、情勢に関することも多少は。その一環で近頃は、〝渡り人〟についても調べていたところでして」
シデリュテは慇懃で表情も変えないが、その口調はどことなく穏和だ。抑揚に富んでいるわけではないが、こちらを和ませようとする機微を感じられる。次第に大吾の肩の力は抜けてきた。
「サドさんは先生なんですね。魔導学というのは、魔法や魔術に関する学問ですか?」
「その通りです。ここタナキア大陸の首都グランパスには〝渡り人〟を受けいれる施設があります。異邦庁といって、〝渡り人〟に魔導や世情を学ばせ、職業訓練、就職斡旋などを行わせるところです。わたくしはいずれそこで働くため、今は子どもたちを相手に勉学を教えているのです」
話はやや脱線したが、異邦庁なる施設があることも、シデリュテにそのような夢があることにも驚かされた。
「夢があるんですね。それにしても異邦庁が設けられてるってことは、それだけ〝渡り人〟も多いってことですか?」
「ええ、近年は特に増えていると聞きます」
「どうして〝渡り人〟はやって来るんでしょう……」
「現段階では解りません。ただ
「マナ……。そういえばテリアも言ってました。それって何なんです?」
大吾は次々と疑問を投げかけていく。シデリュテはそれに淀みなく答える。勉学ではなく、あくまで日常会話のような体裁を崩さず、自然にタクァについて学ぶことができる。
「それについては長くなります。ゆっくりとお話しましょう。簡潔に言ってしまえば、魔力とは万物を構成する要素です。すべてのものは魔力から成り立っています」
それを聞いて大吾は元素を思い浮かべる。次いで素粒子に解釈を移した。この世界における魔力とは、あるいはそれを言い換えた言葉なのではないかと考えたのだ。
しかしその可能性を読み取ったかのように、すぐにシデリュテから補足が入る。
「魔力は形なきものです。物もそうでないものも、すべて魔力から成っている。肉体のような形あるものも、精神のような形なきものも、等しく魔力によって成り立つのです」
魔力とは、あるものを構成する単位というより概念的なものらしい。精神でさえも魔力が形作る。なんだかよく解らない話になってきたが、そもそも精神がどのように作られるのかは、あちら側の常識を用いても解らない。だがタクァにおいては、それが魔力によって形成されるという点だけは確からしい。
「無論、この大地も魔力が成した形です。この家も、本も、わたくしもダイゴ様も、等しく魔力によって構成されています」
大吾は自分の手のひらを見下ろして、それすらも魔力によって形作られているのかと、怖いような感慨深いような気持ちになる。
そして自然と疑問も湧いてくる。
「でも待ってください。ぼくはあっちの世界からやって来た〝渡り人〟です。こちらには魔力が満ちている。それはよく解りました。だけど魔力は、魔法とか魔術にも関係するんですよね? ぼくのいた世界にそんな力はなかった。つまりはぼくの世界の構成要素は魔力とは異なるものだった。それなのに、ぼくもまた魔力でできた存在だと言い切れるんでしょうか?」
反駁めいた問いを投げると、初めてシデリュテが微笑んだ。教えるということを、心底楽しむ者の表情だった。
「いい質問です。たしかに最初〝渡り人〟が現れたとき、魔導学の学者たちは大いに混乱しました。あちら側には魔法も魔術もない。まるで理の異なる世界だった。魔力によって成されない存在が、しかし魔法や魔術を教えれば、難なく行使することができた。それは魔力を信仰してきた学者たちにとって、これまでの常識を根底から覆しかねない、知の脅威でした。しかし現在では、ある仮説が有力となっています」
「ある仮説?」
大吾には想像もつかない。元の世界には魔法も魔術もない。マジシャンを名乗る者がいても、真実、魔法を操るのではなく手品を操るのがそれだ。虎の化け物や不気味な少女が影から生じることなどあり得ない。
いつの間にか前のめりに次の句を待っていると、シデリュテが一言一句ていねいにこう言った。
「ア、ド、ヴェー、ニュ」
「アドヴェーニュ?」
「どうやら聞こえたようですね」
安堵したようにシデリュテが脱力した。
「どういうことですか?」
「あなたは解語の術を施されている。なのでこちらの言語を伝えようにも、魔術が自動的に翻訳してしまうんです。今のはこちらの言語で〝枷の世界〟を意味します」
得心が入った。
たしかに、そのまま伝えようとすると「枷の世界。枷の世界という意味です」という言葉の重複した文章ができあがってしまう。
「そのアドヴェーニュ――〝枷の世界〟というのが、あっちの世界の名前ですか?」
「そうです。魔導学者たちは、魔力の概念に齟齬なく〝渡り人〟の存在を証明する方法を見つけました。そうしてあちら側の世界に名付けられたのが〝枷の世界〟です」
「つまり?」
「その前にもうひとつ」
シデリュテは焦らすように人差し指をたてる。本来なら勉学など楽しいものではないが、こうして知識欲をそそられると、不思議と情報が水を吸うスポンジのように染み渡っていくのを感じる。
「世には役割があります。雲が雨を降らせ、地を潤わせるように。物は魔力が形を与えた姿。精神も形ないものですが、人格として魔力に与えられた形です。力もまた魔力によって生まれるものです。ですが、すべてが形を与えられるわけではなく、魔力がすべて物や精神、あるいは力として存在しているわけではありません。中には純粋に魔力としてたゆたっているものもある。絵を描くにしても、絵具をすべて使いきれるわけではないように、魔力もそのすべてが消費されているわけではないのです」
余剰の魔力が存在するという事らしい。だがそれが存在するからと言って、どうして〝枷の世界〟と魔力の実存を証明する理由になるのか見当もつかない。
そうして腑に落ちない様子で黙りこんだ生徒を見るのが、シデリュテには大層愉快だったらしい。対面時には想像もしなかった笑いが、くつくつとその肩にこみあげていた。
「……失礼。では、余剰魔力はどのように存在しているのか。それが答えです。タクァにおける余剰魔力は、単に魔法や魔術の媒体となります。形なき魔力に形や役割を与える、それが魔法や魔術の性質です。あるいは、
妙に得心が入った。シデリュテはそこまで説明しなかったが、たとえば生命が死んだとすれば、それは余剰魔力となるだろう。肉体はともかく精神はそうなるはずだ。そうでなければ魔力はいつか枯渇してしまう。
そして生命の営みや、あるいは自然が新たな精神を形作るように、魔法や魔術は人為的に形を付与するわけだ。世界が魔力によって形作られたように、新たな命――使い魔が生じるというのも、理屈で言えば不自然な話ではないような気がした。
だが、魔力に保存則が成り立つのだとすれば、タクァにおける命や物の数は一定数増えないことになる。そもそもこの世界の人口は、あまり多くはなさそうだが、いずれ命の飽和状態に至ることもあるのだろうか。
その答えはついに得られないまま、シデリュテがいよいよ〝枷の世界〟に回帰した。
「一方、〝枷の世界〟です。単純に考えれば、あちら側には余剰魔力がないと考えることができる。ですが、それはおそらくないと断言できます。余剰魔力が存在しないとすれば、命や物に飽和状態が訪れるからです」
それは大吾が今しがた考えた内容と酷似していた。たしかに余剰魔力に焦点を当てれば、そういう理屈になる。では、何故あちら側に魔法も魔術もないのか。
「しかし、そのような事実はない。つまり〝枷の世界〟に余剰魔力がないと考えるのは誤りです。だとすれば、答えは一つしかないと魔導学者たちは考えました。形のおよそ完成した世界に、使い魔が現れるように、あちら側にも使い魔に代わるものが生じているのです」
「使い魔に代わるもの?」
ますます解らなかった。二つの世界には類似点が多い。ほとんどの物理的な成り立ちは同じだと言っても過言ではなさそうだ。だが魔力によって生じる超常は、あまりにも異なっている。使い魔に代わる存在など、あちら側にいるはずがない。
大吾はその考え自体が根本的に間違っていることを理解できなかった。
魔力とは概念。それ自体に形があるわけではない。
使い魔に本来の肉体がないように。あちら側に存在する、使い魔に代わるものが形を有しているとは限らないのだ。
そして、いよいよシデリュテが答えを寄越した。
「〝
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