十章 門出祝う者なし

 マズとヘズは魔力マナとして待機させてある。


 使い魔ファミリアというのは、もともとタクァに満ちた魔力そのものなのだ。何らかの要因によって意思を獲得したものだけが、そう呼ばれる。ゆえに、彼らに形というものはなく、姿を成そうとすれば、それだけで僅かながら力を消耗してしまうのだった。


 迫りくる魔物の群れ。

 殺戮に飢えた闇をむかえ撃つためには、少しでも使い魔の消耗を抑える必要があった。契約によって結びついたテリアは、使い魔の力を借りうけることができるからだ。


 そして彼女には〝宣告者〟としての力の他に、もうひとつ特別な力がある。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ――!


 今、大地さえも喰い破り、殺戮の悦びに狂うものどもを前に。

 彼女は虚空へ指をすべらせた。そこから光の粒子が散ったと見る間に、象牙の杖が現出する。さらにローブの袖をまくり、その腕に絡みついた虹色の紋様に杖の先端を当てると言った。


「退けなさい」


 そのめいとともに紋様の一部が杖の表面へと吸いついた。

 彼女の中では使い魔たちの魔力が炎のように燃焼をはじめる。


 そして叫ぶのは、この術式に命を芽吹かせる名だ!


「ハイオラン・ベクテーラァ!」


 黒き波がうねり、咆哮めいた哄笑に震える。テリアの一寸先は、すでに闇。万の爪牙が大地をきり裂く!


 しかしその時、すでに世界は二分されていた。

 テリアと魔物の群れの間には、虹色に脈うつ壁が縦横はてなく続いていたのだ。


 紫に色づいた双角に血色の瞳。漆黒の双翼と肌。紺の舌を蠢かせ、怒りに吼える魔物たちは、しきりに爪を突き立てるが傷ひとつ付けることができなかった。


 これがテリアのもつ固有魔術。

 ハイオラン・ベクテーラ。

 一時的に〝英輝〟と同等の力を発揮する破邪の結界である。


「村人たちは……逃げられたかしら?」


 テリアは内なる同胞に尋ねた。


『臭いはまだ。あまり遠くへは行っていないようです。我々も早々に動きだしたほうが良いかと』

「解ってるわ……」


 テリアとてここが安全でないことくらい理解できている。魔術の効果時間は永遠ではない。もって二十分と言ったところだろう。


 だが、これだけ大規模な魔術を展開したのだ。マズとヘズの魔力を借りうけたとはいえ、消耗した魔力は尋常でなかった。身体中に鉛のベルトを巻かれるような疲労に、テリアは顔をしかめながら立ちあがった。


『お運びしましょうか?』

「まだそれだけの魔力があるの?」

『ほとんどはヘズの供給でしたので。あれはしばらく身動きできんでしょうが』

「じゃあ、頼むわ」

『承知いたしました。しかし暫し時間を。繋がりの均衡が乱れておりますので』


 マズとヘズは別個の使い魔である。

 しかし同時に契約を結んだ使い魔は、主人だけでなく使い魔同士でも繋がりをもつ。ゆえに一方が弱れば、もう一方も不安定になる。今は、その調整が必要らしかった。


「ええ、それまでは自分で歩く」


 テリアは杖を支えに、歩きはじめた。

 身体がふらつき傾いで、なかなか前に進まない。

 それでも距離をかせいでおかなければ危険だ。


 魔物一体いったいは、テリア一人でも難なく討伐できる。それどころか、魔法や魔術をたしょう学んだ者であれば、平民であっても血肉に還すことができるだろう。

 しかし敵は一体ではない。空をも覆うほどの、無限にも等しい数である。接触を許した瞬間、血濡れの雑巾にされるのは目に見えていた。


 唇を噛んで血を流しながら、テリアは懸命に踏みだしてゆく。

 百、三百、五百――。

 どれだけ進んだか知れない。


 はるか後方で壁が軋みだしたのはその時だった。


「マズ、まだなの……?」


 ところが、ズズズと音をたて、影から虎の異形が姿を現したのもその時であった。


「お待たせ致しました」


 テリアは「遅い」と悪態をつきながら、毛皮をつかみ背中にまで這いあがる。

 するとマズは、身構えることなく駆けだした。疾風迅雷のごとく、荒野に灰色の風が吹き抜ける。急速に黒き壁がとおざかる。


 しかしその数瞬あと。

 虹色の結界に亀裂が生じ、けたたましい破砕音とともに魔物の濁流があふれだした!


「魔物が押しよせてくるとは驚きました」


 マズは余裕の声音で言った。彼の足は空を翔ける魔物よりなお速かった。


「まさか〝英輝〟の輝きが失われたのかしら……?」


 テリアは疲労と絶望に蒼白をゆがめた。


「そう考えるのが妥当でしょう。〝英輝〟の力は未だ収縮を続けているようです。聖の気が遠ざかってゆくのを感じます」


 マズは無感情に答える。感情をもたぬわけではないが、その起伏に乏しいのだ。そもそも実体をもたぬために、死に怯えるということがない。


 テリアは心底、使い魔を羨ましく感じた。と同時、迫りくる死の感触に叫びを催しそうだった。


 しかしマズはなおも全力で駆けながら「ん」と短くもらした。


「……どうしたの?」

「〝英輝〟の収縮がとまりました。気は弱く不安定に感じますが、力はまだ消滅していないようです」


 そこに逃げ惑う村人たちの背中が見えてくる。

 さらに向こうには、荒野の終わりがあった。深緑の森が地平線を埋めつくす様が見てとれるのだ。


「ガエンの森。あの中途で力が維持されていますね」

「そこまで行けば村人たちも助かる」

「理屈ではそうですね。しかし」


 マズが促すように言った。

 テリアは重い頭をもちあげ辺りを見回した。


「……!」


 その時、村人の一人がマズに追い抜かれ、一瞬にして後方へ置き去られていった。

 一人、また一人とマズが追い抜く。

 その様をふり返って追えば、村人の背後にはすでに漆黒の壁が迫っていた。


「彼らの足では助かりませんね」


 マズはあくまで抑揚なく言う。

 しかしテリアの胸は今にも張り裂けそうだった。

 

 〝忌血〟として厭われ、人里を追われた者の末路がこれなのかと。


「お願い、マズ! 一人でも多く助けて!」

「私の背中には精々あと二、三人しか乗りませんよ」

「二、三人でもいいわ! お願い!」

「では、誰を選ぶのです?」

「……ッ」


 あまりに残酷な問いに、テリアはすぐに言葉を返せなかった。だが「二、三人でもいい」と言った真意は、まさしくそれなのだ。逃げ惑う村人たちの中から助けだす者を、あるいは見捨てる者を選ばなくてはならない。


「た、たすけ――!」


 背後で小さく救済を叫んだものがある。

 しかしその声は、すぐに大地の爆ぜる音によってかき消された。


 テリアは声の主を探したが、黒い壁はその視界のなかで、次々と村人たちを呑みこんでいった。


「ただ、一人だけ選ばざるを得ない方がいますね」


 マズはそう言うと、不意に進路を変えた。徐々に横へ逸れながら速度を落としていくのだった。


 魔物の壁は猛然とせまる。もう幾許の猶予もない。

 それでもマズは、なお減速する。

 そして一人の村人と少年の隣を並走した。


「英雄様だけは、お助けせねばなりません」


 マズは躊躇なく、その額から生じた角で少年を掬い上げた。


「うわあッ!」


 その落下地点へ滑りこみ、無理やり背に乗せる。

 テリアは咄嗟に、ずり落ちそうになる大吾の腕をつかんだ。


 少年はすぐには這いあがらなかった。地上を駆けるドッジへ向けて、もう一方の手を伸ばしたのだ。

 ドッジもまた、その枯れ枝のような手を伸ばした。


 しかしその時、魔物の爪牙がマズの尾を捕らえようとしていた。

 マズは〝英雄〟がテリアの手に繋がれているのを一瞥すると、ふたたび全速力で駆けだした。


「あ……」


 大吾の指先を、枯れ枝の指先がかすめた。

 それらは決して結ばれることなく虚空を掻いた。


 ドッジの姿が急速に遠ざかり、マズはガエンの森に突入した。

 木々が背後の景色を覆い隠したのは一瞬だった。

 そして木々の間隙を縫うようにして馳せるマズの背後から、森の悲鳴が轟いたのは一呼吸もおかぬ間の出来事だった。


 テリアは反射的に大吾を引きあげ、あとは憮然とするより他なかった。

 マズの毛皮に顔をうずめた大吾が、自ら喉を裂くように慟哭した。

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