九章 名ばかりの英雄

 いよいよ空の半分が明るみはじめると、突如、甲高い打撃音が村のなかに弾けた。

 こめかみを殴りつけるような激しく不快な音に、大吾は覚醒を余儀なくされた。


「んん……なんだ?」


 呻きながら身を起こすと、外から迷いこんだ明かりで狭い部屋の様相がうっすらと見てとれた。


 そこへ泡を食ってドッジが駆けこんできた。目が合うなり肩を掴まれる。その相貌は焦燥にゆがんでいた。


「な、なんです?」

「のんびりしてる暇はないぞ、ダイゴ! 速くここを出るんだ!」


 唾を飛ばしながらドッジが叫んだ。

 そこでようやく、ただならぬ事態が起きているのだと察した。


 大吾たちは着の身着のままドッジの家からまろび出た。

 村のなかに〝変異種〟が現れたのだろうか。

 そう気を揉んでいた大吾だったが、いざ村のなかを見渡してみても、それらしき姿は確認できなかった。ただ村人たちが右往左往して、何人かが鍋をしきりに叩いていた。


「あっちだ!」


 ドッジが海と反対の方向を指さして言った。

 すると、そこには険しい顔で闇の空を睨みつける少女の姿があった。


 彼女の名はテュールノエ・ウォルシュモンド。略称をテリア。

 〝英雄〟を見定める重大な役目をもつ者の証として〝宣告者〟と呼ばれるのが、彼女の本性であった。


 昨夜の宴の際、大吾は彼女と旅にでることを了承した。

 彼女の告げる『役目』についても、時間をかけて咀嚼していくしかなかった。


 きっと名残惜しく、逡巡しながらこの村を去るのだと思っていたのに。

 現実は急くように、大吾の運命を促すのだった。


「速く逃げろォ! 奴ら、じきに森を突破するぞッ!」


 ドッジとともにテリアの脇を通過したとき、大吾は思わずその声に振りかえった。


「……そんな」


 すると今まさに、黄金の渚へとつづくあの丈高い森が爆ぜるように散っていくのを見てとった。


 その膨大な力の奔流は闇だった。


 いや、この世界における闇とはただの暗闇ばかりではない。

 あれは空を覆う絶望と同じ色だ。まったき漆黒のようでありながら、実際はわずかに紺を帯びている。絶えず濃淡が変化する。わずかに赤黒いものが黒き波のなかを蠢く。


 大吾はその名を知らない。

 しかしほとんど解りかけてもいた。


 タクァが暗黒の巨手に握りつぶされようとしているのは、すでにテリアから聞いた話だった。魔物と呼ばれるそれによって、世界は滅亡の危機に瀕しているのだと。


 猛烈ないきおいで雪崩れ込むあの黒き波は、おそらくそう――魔物の群れなのだ。


「もっと速く走るんだ、ダイゴ!」


 肩が抜けそうなほど腕をひかれて、それでも大吾は前を向けなかった。

 滅びの化身が迫っているから。それだけではない。テリアの背中が少しずつ小さくなるのを見過ごせなかったからだ。


「テリアさんはどうなるんですか!」

「あの方には優秀な使い魔ファミリアがついている! 今はとにかく走れ!」

「でも……!」


 その時、ドッジが熱い手を握りこんだ。腕にめりこんだその感触が、あまりに悲痛だった。


「いいから走るんだ! 死にたいのか!?」

「……ッ!」


 死ぬ。 


 その言葉は大吾をひどく恐れさせた。

 どこかで自分が生きる残るのを当然だとでも思っていた。ドッジやテリアがいるから、と安堵していた。


 だが、そんなものは幻想に過ぎないのだ。

 この世界には飢えも渇きも、魔物もあるのだから。


『あなたに伝えなければならないことが――』


 正面へ向きなおり、肺が破れそうなほど走った。

 そして昨夜のテリアの言葉を思い出していた。

 

 彼女の長い名前。テリアという愛称。

 タクァという世界。グランパスという大陸。

 魔物。〝英輝〟。〝英雄〟。〝宣告者〟――。


 彼女には特別な才がある。

 この世に安寧をもたらす唯一無二の存在。

 〝英雄〟を見定める力が。


 テリアは温かな手を重ねると、嗚咽をこらえるように俯いた。その震える肩に、これまで歩んできた懊悩の日々が透けて見えるようだった。


『……ついに、見つけました』


 早鐘を打つ鼓動とともに、彼女の声もまた鐘のように響いていた。いくら走っても、肺が痛もうとも、足が破裂しそうでも、彼女の声は消えてくれなかった。


『わたしたちと来てください、ダイゴ。このタクァに君臨した、新たなる〝英雄〟として』


 〝英雄〟は魔物を討ち、闇を晴らす存在。

 今ここで勇み立ち、魔物と対峙すべきなのは大吾のはずだった。


 しかし少年は無力だった。

 己の命惜しさに震えながら、背を向けて走ることしかできなかった。


『……もう二度と話しかけないで』


 たった一人を救えなかった。

 そんな人間が。

 世界などという大それたものを、救えるはずなどないのだ。

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