八章 平穏なき世界

 夜になると、辺りはいっそう暗かった。

 この村には光源がなく、だからと言って篝火を焚くこともない。火は食事の際にしか用いられず、食事が終われば早々に消してしまうのだった。


 理由は「安全のため」だそうだ。

 この世界に関する知識はまだまだ足りない。魔物の他にも脅威となる獣がいるのか。敵対する国や勢力があるのか。


 しかし大吾は、それについて追究しなかった。今はただ疲れていたし、整理しなければならないことが多すぎるからだ。元の世界に戻れないという事実を咀嚼するだけでも、多くの時間を必要とした。


「……眠れないのか、ダイゴ?」


 暗闇のなかで、ぬらりと二つの目が煌めいた。渚で出逢った村人、ドッジのものだった。


 闇がふかく、シルエットさえ判然としないが、ここはドッジの家である。大吾は彼の住まいを借り、夜風をしのいで明日に備えるところだった。


「起こしちゃいましたか?」


「いいや。俺もなんとなく眠れなくてな。あんまり静かなんで、まだ起きてるかと思って話しかけてみた。迷惑だったか?」


「いえ、全然。むしろ話してるほうが落ち着きます。黙ってると、延々考えちゃいそうだし」


 思い悩むのは、あまりにも辛い。考えるべきことはいくらでもあるけれど、忘れることはできない。ふとした瞬間、心に忍びこみ、胸のなかを汚泥に満たしていく。


「なるほどな。俺にも、お前の気持ちがなんとなく分かるような気がするよ」

「……」


 そう言ったドッジの声は、闇の中にとぷんと沈んで哀しげだった。その気遣いがありがたかったけれど、感謝の言葉はかすれて出てこなかった。この気持ちを理解できるはずがない。どこかでそう思っていたのかもしれない。


 静寂に風の音が混じると、ドッジはやがてこう切り出した。


「……俺にも故郷があった。ここからほど近い、コムサって村だ。俺はそこで家畜商の真似事をしながら警備を務めてた」

「え……? 元々ここに暮らしていたわけじゃないんですか?」

「いいや。ここに住んでる連中は、みんな故郷を追われてやって来たんだ」

「……」


 衝撃的な告白に、返す言葉が見当たらなかった。たしかにここは貧しく不便そうな村だが、まさか彼らに元々ほかの居場所があったとは、想像すらしていなかった。


「俺たちは〝忌血いみち〟と言ってな、魔物の血をあびて穢れちまった人間なんだ。べつに病のように移ったりしねぇし、魔物のように大地を涸らしたりもしねぇ。それでも気味が悪いからよ、村を出されちまったんだ」


 大吾はすぐに後悔した。

 ドッジに自分の気持ちが解るはずがないと思った自分を恥じた。


 彼の故郷は、この大地のどこかに存在する。けれどそれは却って、彼の心を苦しめるのではないかと大吾は思った。


「そんなのってひどい……。迫害じゃないか」

「魔物は、それだけ恐ろしい存在なんだ。もちろん、コムサの連中を恨む夜もある。だが俺が逆の立場だったら、同じことをしたかもしれない」


 あるいは、そうしたくなくても、そうせざるを得なかった人がいたのではないか。

 大吾は痛む胸を押さえ、そうも考えた。


『……もう二度と話しかけないで』


 大吾は彼女を積極的にいじめたりしなかった。けれど、周囲の反応を恐れて、いざというとき助けることができなかった。ドッジが迫害を受けたとき、きっとそんな心理もあったのではないだろうか。


 それでも大吾は、憎しみにも似た怒りを抱いた。自分自身があの日の行動を許せずいるように、ドッジを迫害した人々を許せないと思ったのだ。


「だから分かる気がするんだ。故郷を失った奴の気持ちが。それでダイゴの心が癒えるわけじゃねぇだろうが、俺はお前の味方だって胸を張って言ってやる。いつか元気になって欲しい、そう思ってるよ」


 その優しい言葉に、熱いものがこみあげてくる。

 この貧しく厳しい村で、きっとたくさん苦しんだ夜があっただろうに。今も苦しむ瞬間があるだろうに。ドッジは、この苦しみに寄り添ってくれるのだ。


 大吾はますます自分が恥ずかしくなった。

 愛されたい。

 そんな身勝手な欲望のために、くだらぬ嘘を吐きつづけてきた自分が恥ずかしくてならなかった。


「……ドッジさん、ありがとう。この恩は決して忘れません。誰があなたを差別し貶しても、ぼくはずっとあなたの味方だって誓います」


 そこに笑いの返事があった。


「そうか。嬉しいよ」

「ぼくにできる事なんて、何もないかもしれないけど……」

「人にできる事なんて、そもそも多くないさ。ダイゴのさっきの言葉だけで、俺は充分な力を貰えたよ」

「本当に……?」

「仲間に嘘なんか言ってどうする。お前の言葉で、また明日も生きていけるさ。人生なんて、そんなものだよ」


 ドッジは恥ずかしげもなく大仰なことを言う。けれど彼の口から出てくる言葉は、どれも嫌味がなくて純粋に思えた。大吾は素直にその言葉を信じ、それゆえに暗闇のなかで静かに泣いた。


「さて、眠れそうか?」

「いや、どうだろ……」

「眠れたら眠ればいい。辛ければ、話し相手になってやる。ダイゴの好きにしな」

「ありがとうございます。本当に」


 ヘヘっと笑って、ドッジはそれきり何も言わなかった。

 大吾は今度こそ眠るつもりで目を閉じた。たちまち様々な思いや疑問が浮上した。やはりすぐに楽になることはなかった。


 それでもドッジとの時間は、タクァに来てから張りつめていた心を確実に解きほぐしていたようだ。身体中によどんだ疲れは、やがて思考にまで融けて、大吾を夢のなかへと誘っていった。


                 ◆◆◆◆◆


 その日、タナキア大陸の空に陽光の切れ目が生じはじめた頃。

 〝忌血〟の村人ジェナンは、黄金の渚へ向かおうとしていた。

 かれこれ、もう五日も水浴びをしていない。水もじきに切れる頃だった。


 ジェナンは水瓶を背負い、それを器用に縄で固定すると、村の石ころの敷居をまたいで荒野を横断しはじめた。


 空はまだまだ暗いが、目は闇に慣れているし、〝変異種〟は闇のなかで目の利かないものが多い。夜行性の獣はそろそろ寝静まる頃で、村を出るには絶好のタイミングだった。


 だからしばらくは、何もない時間だけがあった。岩から水が滲みだすように、疲ればかりがじわじわと溜まっていくのを感じていた。


 黄金の渚へつづくあの丈高い森。

 あいつを見ていると、なんとなく励まされるような心地がする。「オレはいつでもお前を待ってるぞ!」と自然に受けいれてもらえているような気がするのだ。


 警戒に警戒を重ねたジェナンは、やがて赤黒の森へとたどり着く。

 なおも警戒を怠らず、しかし美しい海の景観を脳裏に思い描きながら森の草地を踏んだ。中はあまりにも暗い。闇に眼が慣れていても、天さえ穿つような背の高い木々の枝葉が光をはばんで、あたりを奈落のように黒ずませてしまうのだ。


 それでも彼は光を発生させる魔法を用いず、森のなかを進んでゆく。今は眠りに就こうとしている獣を起こすべきではないし、道なら身体が覚えているからだ。さらに言えば、視覚の不足は却って他の感覚を鋭くする。獣の呼気、足音、殺気――それらを実際に目にしたときには手遅れになっていることが多い。


 その経験則は、ジェナンを無傷で森から吐きだした。


「……イイ景色だ」


 彼は一面に広がる湿ったなぎさと黄金の海の織りなす大自然の絵画に、うっとりと吐息をもらした。自分自身もこの絵画の一部になれるのなら、この腐った人生も悪くない。そう思えるほどに美しい情景だった。


 ジェナンは海に魅せられながら、水瓶をおろし衣服を脱ぎさって、その腰までをとっぷりと沈めた。五日ぶりの水の感触と言ったら、女の愛撫よりもよほど気持ちが良い。顔を水面につっこんで、がぶがぶ水を飲むと、自分という存在が新たに描画されるような心地がした。


 生きているのは苦痛だと思い続けてきた。

 何気ない日々を生きるのも、魔物に怯えるのも――〝忌血〟になって迫害を受けるようになってからは、本当になんども自ら命を絶とうと考えた。それを行動に起こした事もあった。


 けれど、ジェナンは生き残った。


 そしてあの村に居つき、この黄金の海を見るたびに、生きる活力を得てきたのだ。

 自分という惨めでちっぽけな存在でも、あらゆる負をこえて「美しい」と思える場所がここにある。

 生きているという、その望まぬ偶然に、これ以上ない感銘を受けるのだった。


 やがて水浴びを終えたジェナンは、装備をととのえ水瓶にいっぱいの水を汲んだ。今日はあと二度もこんな作業をくり返さなければならないが、生きるためには仕方がない。生きたいと思える自分がいる限り、また黄金の渚は迎えてくれるだろう。


「よいっしょっと!」


 水瓶を担ぎなおしたジェナンは、名残惜しく海をふり返った。

 そして後悔した。


 その情景があまりに美しく、索漠とした心境を誘ったからではない。


 生きたいと思ってしまった、あるいは愛してしまった世界に、裏切られるような思いがしたからだ。


 海のはるか向こう、水平線すら闇に没する、〝英輝〟に阻まれた黒き壁が。


「……ちくしょおおおッ!」


 黄金の渚ごとジェナンを押し潰した。

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