七章 生きる場所

 その少女は、あまりにも美しかった。

 荒野の真ん中に咲いた一輪の花のようだ。


 卵型のあたまは一流の画家が仕立てたような見事な流線をえがき、黄玉色の瞳は春の陽光よりなお柔く、鼻梁は芯がとおったように歪みがなかった。桜色の唇から発せられる言葉は、やはり理解不能の言語だったが、それが一層奏楽的で神秘的であった。


 だが何より彼女の神秘性を引き立てているのは、その髪だ。金糸と絹を織りあわせ梳きなおしたようなその髪は、微かな風に吹かれるだけでふわりと舞いあがり、大吾の心をくすぐるのだった。


 大吾はとても彼女を直視できず、曖昧な微笑をうかべて足許を眺めるしかなかった。村人や少女の言語を理解できない以上、この場を去る口実もくちにできない。しばらくは気まずい心持ちのまま、謎めいた会話の流れを聞き流していた。


 ところが二人の会話がひと段落すると、少女のほうから肩を叩いてきた。ハッとして顔をあげれば、女神めいた美少女がいるものだから緊張してしまう。まっすぐに見つめられるだけで、背筋がぞわぞわと粟立つようだった。


 そこへ村人からのフォローがある。肩を軽く押しつけて「座れ」と促してきたのだ。大吾はおもむろに腰を下ろし、少女もまたその純白のローブが汚れるのも厭わず腰を下ろした。


 そうして二人向かい合って座ると、村人は微笑んで立ち去ってしまった。大吾はそれを引き留めようとしたけれど、言葉は通じないし、とにかく喚き立てても笑いで受け流されるだけだった。


 余計に気まずくなって、大吾はうつむく。とても目を合わせていられない。

 しかしまた少女のほうから、小さく肩を叩いてくる。

 一瞥のつもりが、少女の微笑にうっとりとして、つい目を離せなくなってしまった。手をさし出して、わずかに首を傾ける仕種は、なお可憐だった。


 不覚にも見惚れていると、少女はさし出した手をさらにこちらへ寄せてくる。

 握手、ではなさそうだ。手のひらは上向いている。手を出せということだろうか。

 大吾が恐るおそる手を伸ばすと、柔らかく温かい感触が重なった。


「あ……」


 大吾は赤面した。小学生以来、女性の手をとったことなどなかったからだ。


 一方、少女は一切動じることなく、自分の膝に空いた手を滑らせた。その動きに合わせ、指の下からするすると筆のようなものが姿を現す。


 突然の手品に、大吾は目を剥いた。注意をひきつけられた。

 その種を明かす間もなく、筆をとった少女は、大吾の腕に呪文めいた紅い何かを描きはじめた。この世界の文字なのだろうか。腕の筋をつたい、血管のうえを横切り、驚くほど流麗に描きこまれてゆく。

 

 こそばいな。


 そう感じたときには、すでに腕が蔦のような紋様に囚われていた。

 少女はそっと筆先をはなし、それを再び膝のうえへ戻した。その上に手を滑らせると、今度は指の下に呑みこまれていってしまう。そこに筆に用いられた紅い色など付着しておらず、やはり筆は忽然と姿を消していた。


 大吾は「えっ?」と声をあげる代わりに、小さく身動ぎした。


「こそばかったですか?」

「えっ?」


 しかし今度こそ驚きの声がとびだした。

 ハッと顔をあげれば、微笑む美少女の姿。

 その唇が小さく息を吸った。


「驚かれましたよね? ごめんなさい」

「え、言葉が……」


 少女の口の動きに合わせ、はっきりと理解できる言語が滑りこんでくる。それも流暢でよどみがない。


「解語の術をほどこしました。あなたを中心に発動される魔術です。その腕に術式が組まれている限り、あなたは、わたしたちの言語を理解できるし、あなたが発する言葉は、わたしたちにも理解できます」


「え、じゃあ、ぼくの言っていることが解るんですか?」


「ええ。はっきりと聞こえていますよ」


 少女はいっそう柔和に笑んだ。

 大吾は驚きを隠せない。唇に触れ、耳に触れ、胸に触れた。

 夢であって欲しいと何度も願った世界に、突如、一筋の希望を見出したような気がした。


 大吾は身をのりだし、自ら少女の手をとった。


「あ、ありがとうございます! ずっと、ずっと不安で堪らなかったんです。ここどこか判んないし、言葉は通じないし、怪物は出るし……。もう本当にどうなっちゃうんだろうって。でも、せめて言葉が解れば気が楽です。これからのことは、まだ分からないけど……」


 早口に吐露すると、少女のほうから手を重ねてくれた。その温もりから彼女の優しさが伝わってくるようだ。


「大変な思いをしたと思います。あなたは〝渡り人〟ですから」

「〝渡り人〟?」

「この世界、タクァとは異なる世界からやって来た者のことです」


 大吾はますます驚かされた。


「どうしてそれが……? ていうか、ぼく以外にも同じような目に遭った人がいる……?」


「衣服が特徴的ですから。こちらで見られるような装いではありません。残念ながら、〝渡り人〟は度々タクァへ流されてくるのです」


「なるほど……。でもこっちへ流されてくる以上は、元の世界へ帰った人だっているんですよね?」


 恐るおそる訊ねると、少女の動きがひどく緩慢に見えた。彼女は俯くように目を伏せると、躊躇いがちにかぶりを振るのだった。


 こめかみを殴りつけられるような衝撃があった。視界がゆらぎ、血の気がひいて、胸のなかに空洞を感じた。暗闇に射した光を塞がれてしまったような気分だった。


「〝渡り人〟を元の世界へ帰すための研究は行われています。ですが、今のところ芳しい結果は得られていない状況で……。〝渡り人〟が帰ったという記録もありません」


「そうか……。ぼくは、帰れないんだ……」


 大吾は元いた世界について思いを馳せる。


 最初に思い浮かんだのは、子どもたちのために、必死に働く母のことだった。

 こちらに流されてきて、どれだけの時間が経ったのだろうか。今ごろ、きっと心配しているだろう。夫を失い、息子まで失った母の心情は計り知れない。大吾は母に会えなくなる苦しみよりも、母の苦しみを苦しんだ。

 高校生になって、これからアルバイトを始めるつもりだった。少しでも母の負担を減らせればいいと。そう考えていたのに。


 どうして、こんなことになっちゃったんだろう……。


 妹のことも心配だった。

 彼女はまだ中学生になったばかりだ。「勉強についていけるか心配」と不安を吐露していた。交友関係についても不安があるようだった。人付き合いに関しては、大吾から言えることは何もないけれど、勉強くらいは教えてやれるはずだった。


『……二度と話しかけないで』


 あの子にもまだ謝っていない。

 謝ることが正しいのかどうか判らないけれど、それを考える意味も失くしてしまった。

 

 これからは、このタクァと呼ばれる世界で、生きていかなくてはならないのだ。


 また涙がこみあげてきた。

 女の子の前で泣くものかと歯を食いしばるけれど、悲しみも寂寥も不安も、なにも去ってはくれない。


 ただその心に、少女の言葉だけが優しかった。


「もうじき宴が始まるようです。わたしたちも行きましょう?」


 少女は大吾の手をひいて、村の中央まで歩いて行く。

 二人が近づくと、村人たちは笑顔を咲かせ、輪のなかに受け入れてくれた。何人かは地べたに座りこんで、炎にさらされたでこぼこな鍋をかき混ぜていた。ぷんと甘い匂いが香ってくる。中を覗くと、クリームシチューのような粥のような白く濁った液体に満たされていた。


「さあさ、お二人とも座って!」


 女性が半ば強引に大吾と少女をすわらせた。さらにその女性は「どうぞどうぞ!」と、手にもっていた大きな葉を分けてくれる。


「これに食べ物をよそって食べるんですよ」


 少女が教えてくれた。貧しいこの村では、葉っぱが食器の代わりらしい。


 宴と聞いていたので、どんな音頭があるのかと待っていたが、村人たちは各々鍋のなかをあさって食べ始めていた。みるみるうちに中身が減っていくので、大吾も身をのりだした。みっともないし図々しいとは思うのだけれど、タクァに来てからというもの何も口にしていないので、四の五の言ってはいられなかった。


 少女の手から葉を受けとって、彼女の分も掬った。ほんの短い間だけれど、大吾はこれ以上ない恩義を感じていたのだった。


 そうしてようやく腰を落ち着けると、葉を置いて合掌した。

 すると村人たちが不思議そうにこちらを見てマネをする。


「「「いただきます!」」」


 少女もちょこんと首を傾げていた。


「こっちでは神様に感謝しないんですか……?」

「ああ、なるほど。神の恵みに感謝するというわけですか」

「そうです。まあ、体裁上そうしてるって感じですけど……」

「あまり敬虔ではないのですね?」

「まあ……。日本人はわりとそういうところがあるっていうか……」

「ニホンジン?」

「ああ、ぼくのいた国ではってこと。本当に神様を信仰してる人もいますよ」

「なるほど。世界が違えば、宗教も様々なのですね」


 少女はそう言うと、葉をおろして合掌した。


「これでよろしいんでしょうか?」

「えっと、それでいただきますって言って、ちょっと頭を下げます」

「いただきます」


 言われたとおりに少女はぺこりと頭を下げる。


「もう、食べていいんでしょうか?」

「あ、はい、大丈夫です」


 少女が葉をもちあげ、それを一口食む姿は、なんだか見てはならないものを見てしまったような罪悪感を伴った。

 大吾はすぐに自分の食事に集中し、クリームシチューのような粥のようなそれを口に含んだ。


「ん」


 とたんに予想外の味が口中に拡がった。素朴な味を想像していた大吾は、そのむせ返るような甘さに脳を痺れさせた。たしかに甘い匂いは感じていたが、まさかいきなりデザートのような代物がでてくるとは思わなかった。これが主食なのか、単に文化の違いなのかは、まだ分からない。


 だが決して不味くはなかった。

 むしろ美味い。甘さの中にもコクがあって、滋養に満ちた食べ物であることを感じさせる。


「どうだ、ウマいか?」


 そこへあの村人がやって来た。渚で出会ったあの男だ。最初はなにを言っているのか理解できなかったが、解語の術とかいうもののおかげで、今でははっきりと聞きとれた。


「おいしいです。とても甘くて」


 男は破顔した。


「それはよかった。身体の調子はどうだ?」


 言語が理解できるようになっても、やはり男は優しかった。


「疲れはありますけど、大丈夫です。こうして食事にもありつけたし」


「それを聞いて安心した。だが、南のほうへ行けばもっと美味いメシが食えるぞ」


「南?」


「森を抜けて、街道を渡っていくと、グランパスって街がある。このタナキア大陸じゃ最も安全なところさ」


 それを聞いて大吾は、さも当然のことに気付かされた。

 この村に辿り着いた以上、ここで生活していかなければならないのだとばかり考えていた。だがタクァには、当然のことながら、他に村や街があるのだ。


「でも、ぼくお金ないです。食料だって、どうやって調達すればいいのか。そんな知恵も経験もないし……」


「心配するな。それならテリア様たちに同行すればいい」


「ちょうどお誘いしようと思っていたところです」


 少女から同意の声があがった。


「え、迷惑じゃないですか……?」

「いいえ、旅は多いほうが楽しいです」


 あくまで少女の返答は柔らかい。


「それに」


 しかしすぐに、その顔つきが変わる。神妙な面持ちで眉根をよせ、まっすぐにこちらを見つめてきたのだ。


 大吾はたまらず視線を逸らそうとするが、できなかった。彼女の眼差しには、そうはさせない不可思議な力が宿っているように感じられた。


「あなたには、何としても同行していただかねばならない理由があります」

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