六章 慰めの繋ぐ糸

 テリアは街から遠ざかってゆく。その方向に、〝英雄〟の気配を感じるからではない。期待の眼差しと糾弾の声から逃れるためだ。


 そもそも〝英雄〟に気配などというものがあるなら、テリアは迷わずそれを追っただろう。しかし〝英雄〟に、あるいは〝宣告者〟の力に、そのような性質はないのだ。両者は巡り合う運命さだめにあるのであり、ゆえに〝英雄〟は大地に君臨するのである。


 テリアは、もはや千や万では数えきれない嘆息をもらす。

 すると彼女の股のしたから人語が発せられた。


「……やはりこの大地は好きませんね」


 テリアは今、一頭の獣の背に負われている。それは額から楔型の一角を生やす虎めいた獣だ。呼吸するたびに黒と紫の縞模様が幻惑的に波打ち、地を踏むたびに大地がひび割れる。

 マオルゾフ――マズがテリアの魔力マナを媒介に現出した姿のである。


「この一帯は魔力が涸れているから無理もないわ。あなたたち使い魔ファミリアにとっては、さぞ息苦しいのでしょうね」

「仰るとおりで。真綿で首を絞められるようなものです」


 マズは大地のひびを跨ぎながら、慎重に歩を進めている。

 昨夜の寝床となった森は、背後で神の枕のように横たわっている。すでに途方もない距離を移動しているのだ。足取りが忍ぶようでも、その歩調は風のように速くよどみがない。


 新たに足跡をスタンプすると、マズは湿った鼻をフンと鳴らした。


「鼻が曲がりそうです……。魔物どもの臭いが滲みついている」

「だから大地は腐ってしまったの。ここでは何度も光魔の争いがあった。英雄様が勝鬨をあげようと、腐った大地が元に戻るわけじゃないなんて皮肉よね」

「忌々しい連中です。死肉にたかる蝿のほうが、まだ可愛げがある」

「そうね……」


 テリアは割れた空を見上げる。闇を形作るのは、〝英輝えいき〟に阻まれてなお爪牙を突き立てる魔物の群れだ。奴らは雲のようにゆっくりと形をかえ、ときにちぎれ揺蕩いながら破滅を待っている。


 あんなものが現れなければ……。


 テリアは何度となく考えた「もし」を夢想する。しかし見上げた先には、隠しようもない割れた空があり、テリアは民衆の声から逃げている。現状を嘆いたところで、それを易々と叶えてくれるほど神は優しくない。


「そろそろを起こしますか?」


 マズの声に正面へ向きなおったテリアは、荒野に生じた凹凸を見た。まるでゴミをかき集めた子どものままごとめいたそれを。


「ええ、そうしてちょうだい。彼らには、ヘズの力が不可欠だもの」

「仰せの通りに、ご主人様マイロード


 間もなく、マズの隣に黒々とした液体が湧きだしてきた。それはマズの歩調と並んで移動し、ぶくぶくと泡をたてて波紋をうつ。


「おはよう、ヘズ」


 テリアが呼びかけると、液体は泡とともに盛り上がり、人の輪郭をなしていった。重力に伴い液体は流れおちるが、人型は保たれたままだ。微動だにせず虎の異形と並び、やがて流れの中から色を刷いていく。


 まず現れたのは紅蓮。虚空に悶える炎のごとき紅い蓬髪だった。

 遅れて翠玉色の双眸がまどろむように煌めき、蒼白い唇が一文字の線をひいた。


 虎の怪物とは対照的に、ハギルゼ――ヘズの姿は線の細い少女だった。

 手足をおおう深緑のよれたローブは、やはり微動だにしない。

 歩む動作ひとつなく、依然足許から湧きつづける液体にのって、滑るように移動しているのだ。


「調子はどう?」

「……」


 尋ねるも返ってくる言葉はない。少女は茫洋として正面を見つめたまま、ただ異形と同調して移動するばかりだ。


 これでも契りを交わした使い魔である。

 慇懃なマズとは違い、ヘズは情緒を表にださない。言葉を発することは滅多になく、あったところで魔法を唱えるくらいのものだった。


「いつものは頼める?」


 質問を変えると、ヘズは浅い頷きを返した。これでも主従関係の立場にあるため、命令に逆らうことはないのだ。


 やがてテリアたちは、小さな村へと辿り着く。マズが少し羽目を外せば、それだけで荒野に沈んでしまうような村だ。ここには魔物をむかえ撃つ設備どころか、その日の飢えをしのぐ備蓄さえないのだった。


 村人たちはしかし、虎の化け物や不気味な少女を危惧しなかった。それどころか次々と家のなかから姿を現し、諸手を振って歓迎した。


 テリアが騎獣からおりると、村人たちは一斉に平伏した。


「ようこそおいで下さいました、テリア様」


 先頭の男が、砂をからませたような声で言った。

 テリアは微笑むと、その傍らで膝をおり、男の肩を三度たたいた。


「お出迎え感謝いたします。どうか面をあげてください」


 すると茶番じみて、村人たちが一斉に面をあげた。

 テリアも村人たちも、このようなやり取りに必要を感じていないのだ。だが村人たちの双眸には、テリアに対する厚い信頼が見てとれる。テリアの目にもまた、貧しい村人たちへの慈愛が濡れていた。


「テリア様のおかげで、今日も生きていけます……」


 老婆が潤んだ目を輝かせて言った。


「いえ、とんでもありませんよ」


 テリアは謙遜する。

 しかし彼女自身、老婆の言葉を大仰ではないと感じていた。

 何故ならここは、魔物の血が滲みた荒野だからだ。


 魔物は生命をむしばむ存在である。生ける者を殺し、芽吹くものを涸らせる。

 ゆえに魔物の血が滲みたかつての戦場には、緑が芽吹くことなく、命が栄えることもないのだ。


 テリアは街から逃げてきた。

 だが、それだけのためにこの地を訪れたわけではない。


 使い魔のもつ潤沢な魔力は、大地へ分け与えることで豊穣をもたらすことができる。テリアは、この村の未来を結わう生命線として、度々この地を訪れるのだった。


「ヘズ、頼んだわよ」

「……」


 ヘズは頷きすら返すことなく、村の僅かな緑へと滑っていく。村人たちは、すぐさまそのあとに続いた。村人にとって、大地を潤わすヘズは女神にも等しい存在だった。


 しかし使い魔の魔力とて有限である。芽吹く命には限りがある。永遠に留まっていることもできない。生命を維持する水がない以上、テリアたちが去れば、すぐに村は涸れてしまうだろう。


 彼らに豊かな居場所を与えられたら、どんなに気が楽だろうか。

 テリアは彼らの浅黒い肌を眺めながら、憂鬱を吐きだした。


「……やはり魔物の臭いは好きませんな」

「黙りなさい、マズ」


 テリアはきつく従者を睨みすえた。

 虎の異形は表情のわからぬ獣の相貌で、鼻だけをフンと鳴らした。

 従順な使い魔にも、珍しく反駁の気概があるようだった。


「あれを生かして何になるのです? あれは〝忌血いみち〟、魔物の穢れに汚染された人ならざるものでしょう」


 魔物の血によって大地が涸れるように、人もまた涸れることがある。そうして魔力を失い、魔法も魔術も扱えなくなった人間を〝忌血〟と呼ぶ。無論、魔物の血を宿すとして付けられた蔑称だ。


 人々の偏見と差別が、この村を生みだした元凶だった。


「なにを言うの、彼らは人間よ。たしかに彼らは魔物の血をあび、魔力を失った。だけど、彼らがわたしたちに何をしたというの?」


 笑顔でヘズに話しかける村人たちは、迫害に拳を振りあげる街人よりも、むしろ善良だ。それを魔物の気を帯びているというだけで差別するなど馬鹿げている。


 しかしマズは引き下がらなかった。


「何もしていませんとも。人を襲うことも、大地を涸らすこともない。しかし魔物については解らぬことも多い。奴らがどこからやって来るのか。なにを喰って生きているのか。〝英輝〟に隔てられていながら、この荒野を闊歩する〝変異種〟たちにしてもそうです。〝忌血〟に危険があっても不思議ではないでしょう」


「屁理屈よ。あなたは魔物の臭いが嫌いだから、彼らのことも嫌う。それだけじゃない」


「たしかに詭弁かもしれません。如何にも、私は彼らの臭いを嫌います。腐った果実を好く道理などありません。私は蝿ではありませんから」


 テリアの中の熱は、急速に冷めていった。それはマズへの凍えるような軽蔑であったし、怒りよりも辟易としたものが勝ったのだった。


「もうやめましょう、この話は。悪いけど、命令には従ってもらうわ。しばらく我慢してちょうだい」

「使い魔というのは因果なものです」

「あなたたちがわたしを選んだんじゃない」

「テリア様には〝忌血〟を憐れむ以外に役目がおありですから」

「あー、もう……黙ってちょうだい」


 テリアはマズの傍を離れ、苛立たしげに頭を掻いた。役目についてなど考えたくもない。だから、ここへやって来たのだ。


「そうよ……」


 だからここへ来た。


 テリアは無償の慈悲からここへ赴いたのではない。

 彼らを憐れむというのは方便に過ぎないのだ。


 しょせん、これは慰めである。

 憐れな命を繋ぎとめ、純粋な村人たちに感謝され、結局は自分を慰めている。善い行いをしたと己を肯定し、現実から目を背けているのだ。真になさねばならぬ役目は他にあるのに。重責に耐えかねた心は、こんなにも卑しい善の押し付けに歩を踏みだす。


「ああ……」


 テリアは自己嫌悪に胸を炙られる思いがした。〝英雄〟を見出そうとして、それができるわけではないが、こんな辺境の地で悦に入っている自分がひどく醜いもののように思えた。


 しかし彼女の慰めは、実際に村人の命を繋ぎとめ、ひとつの出会いに線を結んでいた。


 子どもの隠れ家めいた拙い様相の家から、老いた男と少年が現れたのだ。

 男のほうは、他の村人となんら変わらぬ浅黒く痩せた体躯だった。


 ところが少年のほうは、明らかに趣が異なっていた。

 まず、肌が白い。〝忌血〟ではないのだ。

 そのうえ中肉中背である。窮屈そうな衣服に袖を通した腕は、筋張って力強い印象こそ受けないが、骨と皮のあいだに若々しい血肉を実らせているのだった。


 だが何よりもテリアの興味をひきつけたのは、男との間に交わされる会話だった。二人はほとんど身振り手振りで意思を伝えあっているようだった。時折、少年の口からもれる言葉には、まったく聞き覚えがなかった。


 やがて二人はテリアの許にまでやって来た。

 少年は目があうと、緊張した様子で背筋を伸ばした。


「これはこれはテリア様。ご挨拶が遅れて申し訳ございません」

「いいえ、ドッジ。それより、そちらの方は……?」


 挨拶もそこそこにテリアは尋ねた。少年の正体は、もはや確信的だったが、村人の口からそれを聞きたかった。


 間もなく村人は、少年の肩に手を置いて答えた。


「この子は〝渡り人〟です」


 テリアの身体に電流が駆けめぐった。

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