三章 割れた空、爆ぜる大地

「ん、んぁ……」


 目を覚ますと、ひび割れた視界に優しい光が揺れていた。

 赤子をあやす母の手のように、頬を、鼻先を撫で、また愛でるように唇を撫ぜた。

 

 大きな何かに背負われながら、大吾は濡れた瞼を拭った。視界が明瞭になると、途方もない不安と寂しさに、心臓の血を抜かれたような思いがする。月明かりめいた柔い光に濡れ、赤黒い葉が揺らめている。やはり夢ではなかったのだ。


 それでもまた泣きださずにいられたのは、腹の下に温かな人肌を感じていたからだった。渚で出会った、あの男の背に負われていた。灰色の蓬髪が頬やあごを掻いて、こそばゆくも微かに痛かった。


 何もしたくなかった。また眠ってしまいたかった。

 けれど男は、うら若い男子ではなさそうだし、贅肉もなく細い。この草木に覆われた道なき道を歩くだけでも大変だろうに、人と水瓶を負っての行進などどれほどの負担か判らない。大吾は男の腕をたたいて、ジェスチャーで「下りる」と訴えた。


 すると男は微笑んで、ゆっくりと大吾をおろした。

 また「アバナ?」と尋ねてきたので「あ、あばな」とマネて答えると、バンバン肩をたたいて笑われた。意外にも力強く痛かった。


 ともかく意思は伝わったらしい。男は森の奥を指さして、謎めいた言語を発すると歩きだした。やはり言葉は詳細に理解できないが「あっちだ」とでも言ったのだろう。いま頼れるのはこの男だけだ。浮かぶ疑問はそこそこに、大吾は男の背中を追った。


 そこで初めて気付いたのは、男の傍らに鬼火めいた光が浮遊していることだった。明らかにドローンか何かが飛行しているのではない。光そのものが浮いているのだ。

 その上、光は男が歩をすすめる度につられて動いた。男が足をとめれば、光もまた止まった。まるで見えない針金か何かで吊るされているように、男と光の動きは完全に同調していた。


 大吾は眩暈をおぼえながら歩いた。

 黄金の海に、不気味な樹木の森。ようやく人間らしい生き物と出会えたかと思えば、今度は光のペットを飼っているときた。わけが分からない。けれど言葉が通じない以上、それを尋ねる術もなかった。


 意外にも敏捷な男のペースに合わせ、大吾は枝葉をかき分ける。景色はずっと同じようにしか見えないが、男の歩調に迷いはない。時折、足をとめて辺りを見回すこともあるが、道に迷っているというより、警戒からそうしているように見えた。


 彼は普段から森のなかに住む部族なのかもしれない。

 大吾はそう考えた。

 しかし森の中ならば危険も多いだろうに、男の持ち物に武器らしきものは確認できなかった。あのミノムシめいた外套のなかに隠しもっているのだろうか。ますますこの世界は謎だ。


 そんなことを考えているうち、ふいに森が開けた。

 明かりが蒸発するように霧散して、一面の荒野が明らかになる。


 そう、そこは荒野に他ならなかった。

 大樹など以ての外、草葉の一枚すら見当たらなかった。


 だが何より大吾を驚かせたのは、その光景に形をあたえた空からの明かり――いや、空の様相そのものだった。


「なんだよ、これ……」


 空が、割れていた。

 半分に割れていた。


 森のなかにいる時は、今は夜なのだとばかり思っていた。

 ところが今は、どうやら昼だ。この状況を昼と呼んでいいのか判然としないところもあるが、少なくとも地平線と融けあった空は、青々として眩い光を抱いていた。


 手前にある空が闇なのだ。夜よりも深い闇なのだ。

 暗雲が手を拡げているのではない。とても濃淡など感じることのできぬ、深淵の闇が広がっているのだった。


 男は、大吾の驚愕に気付いたようだった。

 憂う眼差しで空を見上げると、なにも言わずかぶりを振った。それは男の諦めのようであり、優しさのようでもあった。


 乾いた風がふく。

 砂埃が舞いあがる。


 荒野を歩きはじめると、いよいよ喉の渇きが深刻になってきた。茨を呑んだように痛むのだ。

 それをジェスチャーで伝えると、男は外套の下から葉っぱをとり出した。大吾も見慣れた緑の葉だった。どことなく色素がうすく、葉脈の筋が太く浮きあがって見える。


 男はこれをジェスチャーで噛めと示す。

 大吾は言われたとおりに葉を噛んだ。


 次の瞬間、


「うぶ……ッ!」


 悶絶した。

 しみ出したエキスは、舌が痺れるほどの苦さだった。


「ん、んん……?」


 だが苦味に耐えてしゃぶり続けていると、意外なほど水分が滲みだしてくる。かれた喉に潤いが満ち、胃の中で膜を張るようだ。


 男も同じものをとり出して咥え、


「うッ、へば……ッ!」


 たちまち咽た。

 どうやら慣れていても苦いものは苦いようだ。


 可笑しくなって大吾は笑った。

 すると男も笑った。


 ほんの束の間、大吾は憂いも恐怖も忘れた。

 しかし、それは男の瞠目とともに破られた。


「エギラッ!」


 唾とともに葉がとんだ。

 骨が軋むほどつよく腕を掴まれた。


 その真意を確かめる間もなく、男が駆けだした。

 大吾はほとんど引きずられるように続いた。

 口から葉っぱがこぼれ落ちた。踏むとべしゃりと飛び散った。エキスの色は赤だった。


 それを確かめるように振り返ったときだった。


 矢のような赤が目を射って、


 キュンッ!


 荒漠の大地が焦土と化した。

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