二章 それでも帰りたい場所
砂地はゆるやかな坂になっていて、海の反対側は、赤黒い不気味な葉をしげらす樹木が並んでいる。その背丈は空をも穿たんばかり。あるいは本当に空を穿っているのかもしれない。
その足許を埋めつくす灌木は、冬の夜空にも似た紫紺だ。赤黒の樹木とは対照的に、高いものでも、せいぜい大吾の膝上ほどしかない。
他にも様々な樹木があった。そのどれもが毒々しく陰鬱な色にあふれていた。
それでも空腹を覚えた大吾は、食料を求めて歩みよる。
果実は。
木の実は。
キノコは。
森めいた木々のなかを覗きこみ、舐めるように地を這う。すぐには見つからなくとも、きっとどこかに食べられるものがあるはずだと盲信した。
大吾はほとんど本能だけで行動した。疲れに任せて思考をはらい、恐怖を殺した。ただ肉体の求める場所へおもむいた。
苦しい記憶も、何もいらない。今、そんなものは必要ない。
ひたすらそう言い聞かせながら。
しかしその間にも、飢えはじわじわと胃の腑を炙った。草木をかき分ける手から、活力が灰に朽ちていくようだった。
肉体的な苦痛は、たちまち精神にまで伝播していった。暗示の障壁など、易々と打ち砕いた。
自分は何故ここにいるのか。
ここはどこなのか。
現実なのか。夢なのか。
こんな謎めいた、抽象画のような世界で、生き残ることなど可能なのか。
ふとした瞬間、樹木のささくれだった肌に肩を寄せたとき、それらは波のように押しよせてきたのだった。
「お腹空いた……怖いよ」
恐怖は密度をまして胸を押し潰そうとする。ぶくぶくと泡になって、目頭にはじける。彼女に拒絶された以上の『逃げたい』が脈を打つ。
潮騒は、そんな大吾を嘲笑うかのようだった。
ここはお前の知らぬ世界だと。
お前もまた誰にも知られることない存在だと。
ただただ一定の間隔で波は押しよせ、引いていく。
ガサ。
だからその時、森の中から響いた音は、憔悴がまねいた幻聴だと思われてならなかった。希望など湧かなかった。むしろ、自ら希望をふり払っていた。静かに目を伏せ睡魔にさらわれ、さっさと眠ってしまいたいと思うばかりだった。
ところが、
ガサ。
また同じ音がする。
草木を踏む音。あるいは草をかき分ける音だろうか。
とにかくその音もまた一定に鼓膜を掻いて、
ガサッ。
少しずつ近づいてくる。
大吾はびくりと震え、辺りを見渡した。空を覆った闇はふかく、よほど暗雲が濃いのか月もない。そもそもこの世界に月があるかどうかも定かでない。海から発せられる黄金だけが明かりのすべてであり、森のなかはまったき闇にとざされていた。
ガサッ!
音はさらに近づく。
大吾は本能的な恐怖を感じる。
適当な樹木のかげに隠れ、音から遠ざかるように地を這った。
すると森の奥地に、ぽうと光が灯った。月が地表に落ちてきたような温みのある光だった。光が揺れると、足音がつづいた。誰かが明かりを掲げて行進しているのかもしれない。大吾はしばらく様子を窺った。
やがてそれは森から歩みでてきた。
小枝を編み合わせた、大きなミノムシのようなシルエットだった。
けれどその頂点には、確かに人の頭部がのっていた。明らかに日本人とは違った男の顔立ちだ。彫りがふかく肌も浅黒い。だが、目が異様に大きかったり触覚が生えていたりと、化け物じみた印象は受けなかった。
「……」
大吾は動かない。まだ観察を続けた。
同じ人間のようでも、友好的な相手とは限らないからだ。己の利益のために他人を利用したり、儀式やしきたりのために人を生贄にするような輩かもしれない。フィクションの影響を受けすぎているのかもしれないが、こんな訳の分からない場所だ。慎重を期すべきだろう。身に迫る恐怖があればこそ、大吾はかえって冷静になっていた。
男はしきりに辺りを見渡すと、やがて砂地を横切りはじめる。爪先が波頭をさき、徐々に海のなかへと沈んでいく。大吾は「入水か……?」と気を揉んだが、男は腰まで浸かったところで歩みをとめ水を掬った。一口含んで吐きだすと、また一口含む。それも吐きだすと、また含んで今度は飲んだ。
そうして男は、肩に提げた釣瓶のようなものを水中へ突っこんだ。「ンン……!」と力んで、結った縄をひき重そうに担ぎ直す。
水瓶が満たされれば、あとは早いものだ。栓をすると、さっさと踵をかえしてしまった。自分の足跡をなぞるように砂地を横切り、森へと引き返していく。
まずい、行っちゃうぞ……!
大吾は咄嗟にそのあとを追った。
木陰にしのび、息を殺して、男の背後についた。
しかしそこで奇妙なことに気付いた。
男の持ち物は、水瓶だけなのだ。
森からやって来るとき、男は間違いなく明かりを掲げていた。あれと足音があったからこそ、大吾は身を隠すことができたのだ。
ところが男の手には、無論、スマホや懐中電灯などなく、ランタンに類するものさえ提げられていなかった。
一瞬、思考が空白になった。
その時だった。
バタバタと虚空を蹴るように、無数の鳥が樹冠を飛びだしたのだ。
「わ……!」
大吾はたまらず声をあげた。
しまったと口を塞ぐが、もう遅かった。
男が弾かれたように振りかえり、
「……ッ!」
二人の視線が交錯した。
男は警戒心をあらわに目を剥いていた。
大吾は恐怖のあまり息を止めていた。
数瞬の硬直が、十分にも一時間にも感じられた。
大吾は首筋に、死神の冷たい鎌の感触をかんじとった。
ところが男は、ふいに緊張をといて胸を撫でおろした。
「マーミヤ……」
「え……?」
呆然と首をひねると、身体から一気に力がぬけ落ちた。自分を支えていた芯が抜かれ、たまらずくずおれる。
まだ安心できない。
胸の奥には警鐘めいた鼓動があるけれど、完全に腰が抜けていて立ちあがることなどできそうになかった。
「アバナッ!?」
そこへ男が水瓶を放りだして駆け寄ってくる。細い枯れ枝のような手が、ぺたぺたと大吾の肌を叩いて「アバナ?」と繰り返した。
男の言語は、まったく聞き覚えのないものだった。しかしそれが「大丈夫か?」とでも言うような態度であることは容易に想像できた。
大吾はへらへらと笑い、今度こそ倒れこんだ。自分の中の何かが音をたてて断ちきれる感触があった。
「はは、はは……うぅ……!」
そしていつの間にか泣きだしていた。
身体中が燃えるように熱く、胸がえぐられるように痛んだ。
男の背中に腕を回して、こみあげる嗚咽をそのまま慟哭にした。
「帰り、たい……帰りたいよぉ……!」
帰っても居場所などない。
大好きだった父は、とうにおらず。
一緒に笑ってくれる友達も失った。
それでも帰る家がある。
母がいて、妹がいる。
これからの高校生活、新しい友達だってできるかもしれない――。
背中をたたく男の温もりは優しく。
だからこそ、何もかも虚しかった。
大吾が迷いこんだこの場所は。
まぎれもなく異世界なのだ。
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