一章 願いの叶った日

 ちゃぷちゃぷと鼓膜にキスをする。いつか聞いた海の音。

 

 綿のような疲れに倦んだ身体はそのままに、霜月大吾しもつきだいごは聴いている。十年前に蒸発した父との最後の思い出。それから二度と聞くことのなくなった、消失の音を。


 ここはどこだろう。


 そう考えたのは、いよいよ水の冷たさが肌に沁みはじめた頃だった。

 濡れ雑巾のような瞼をもちあげ、渇いた口のなかから砂利を吐きだし、ようやく自分の置かれた異状を認めた。


「え……。本当にどこ、ここ?」


 黄金こがね色の渚だった。

 塵ひとつない砂地に、見たこともない黄金の波が打ち寄せていた。金が浮いているわけでも、融けているわけでもない。たしかに透けたその水は、掬えば指の隙間からこぼれおちて湿った砂のうえに弾ける。それでも遠く拡がる水平線は、天の闇とまじりながらなお、胸を焼くような黄金の美しさに満ちていた。


「嘘……嘘だよ」


 そう、嘘だ。何もかもが。


 大吾はこの十年を、そうやって生きてきた。失った父に与えられるはずだった分の愛を求めて、たくさんの嘘で虚像を練りあげてきた。

 そして愛を失った。誰からも愛されることなく、嘘を吐くたびに嫌われていった。それがまた彼の欲望を爆発させ、新たな虚言を編みだし――欲しいものは何一つとして手に入らなかった。


 だからこれは、嘘をつき続けてきた自分のなれの果てに違いない。

 ついに自分を愛すために、自分すら騙し始めたのだと彼は思った。


 けれど詰襟シャツに滲みた水の冷たさ、口中の水分を吸いあげる砂利の舌触り、鼻腔に膨れあがる磯の香り――そのすべてがあまりにもリアルで。錯覚や夢のたぐいには思えなかった。


 大吾は疲れに押しつぶされそうになりながら立ち上がる。視線が持ちあがると、ひどい頭痛がした。頭のなかを稲妻に裂かれるようだ。たまらず、くずおれた。


「なんなんだ、一体……」


 なおも波とともに打ち寄せる睡魔、脳を焼く頭痛のなかで、混乱と恐怖が膨れあがってゆく。大吾はなす術なくスラックスを掴み、激痛に悶える頭で、思い出せる最後の記憶をしぼりだそうとした。


 しかし痛みからなのか疲れからなのか、時間軸が判然としない。昨夜の夕食がすぐに思い出せないのに、一昨日の夕食なら憶えているというような。最後とはとても思えない、曖昧な記憶ばかりが意識のなかに滑りこんでくる。


「思い出せ……ぼくは何をしてた?」


 痛む頭をたたき、なお跳ね上がるような激痛のなかで、大吾は記憶と格闘する。

 来いこい、と念じながら。

 助けてくれと足掻きながら。


「あ……」


 そして思い出されたのは、侮蔑と憎悪の眼差しだった。

 己にもてる至上の愛で、あるいは友情で接し続けてきた相手からの、


『……もう二度と話しかけないで』


 死刑宣告だ。


                ◆◆◆◆◆


 彼女といる時だけは、嘘を吐かずにいられた。大吾は満たされていたから。

 愛も友情も形は見えないけれど、彼女と交わす言葉のなかに、視線のなかに、たしかな繋がりを感じたものだった。


 父が蒸発したとき、彼女は真摯に寄り添ってくれた。『お父さんのいなくなったクラスメイト』に、興味や好奇心から向けられる建前ではなかった。彼女の言葉はまぎれもない本心で、親友の悲しみをともに憂える真実の悲哀があった。


『ツラかったね……。あたしも一緒に悲しむから。元気になったら、また遊ぼうね……』


 大吾にとって彼女は、残された家族と同じくらいに、あるいはそれ以上に大切な存在だった。大吾は彼女を信頼していたし、彼女も大吾を信頼していた。


 男女という隔たりに、距離を感じることもあった。年を経るごとに、人前で話すことは少なくなっていったし、小学校高学年にもなると外で遊ぶことはめっきりなくなった。

 だが、そんなことは些細なことだった。結局、人目を気にしていただけで、彼らの絆には僅かな綻びもなかったのだ。二人には二人にだけ許された距離があり、男女をこえた友情があり、互いを信じられるだけのかたい芯があった。


 だから中学生になって、彼女がいじめを受けるようになると、大吾はまっさきに救いの手を差しだした。


『無理する必要なんかないよ。学校なんて行かなくていいから。勉強ならぼくが頑張る。それで君に教えてあげるから。寂しくなったら……退屈だったら、また一緒に遊ぼう。ぼくはずっと君の味方だから。君の苦しいときは、必ずぼくが助けてあげるから』


 本心のつもりだった。

 嘘ではないはずだった。

 どんなに愛が欲しくても、心の隙間を埋めて欲しくても、彼女にだけは嘘を吐かないと決めていたから。


 けれど大吾は、彼女を助けられなかった。

 恐怖を押し殺し、学校へやって来た彼女に、挨拶のひとつもしてやれなかった。

 水浸しになってトイレから出てきた彼女に、その口から漏れた「助けて」の一言に、応えられるだけの力など持ち合わせていなかった。ただ立ちすくみ、震える肩を見つめることしかできなかったのだ。


 その日を境に、彼女は学校へ来なくなった。

 二人が遊ぶことも、連絡をとり合うことさえなくなった。


 ――そして長い月日を経て、高校一年の春。

 再会した大吾は、成長した彼女の姿をみて歓喜に震えた。


『久しぶり!』


 しかし彼女の口から発せられた挨拶は、今度こそ二人の終わりを告げるものだった。


『……もう二度と話しかけないで』


 その夜、大吾は神に願った。何度もなんども『お父さんを返して』と願った、意地悪な神に願ったのだ。


 ぼくを、どこか遠いところへ連れて行ってください、と。

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