第2話 一章 うちの元魔王が隠居してから文句ばかりで困ってます(2)


カッと目を見開いて突然大声をあげたメイアに、ルシエは飲んでいたお茶を吹き出した。


「――っ、いきなりどうされたのですか、メイア様?」


ガバリ、と起き上がったメイアにルシエは咳き込みながら尋ねる。


先程まで穏やかに眠っているように見えたメイアの顔はいつのまにか剣呑な表情を浮かべていた。その険しさは、往年のメイアが一人の勇者と死闘を繰り広げたノルギスの谷もかくや、といったものであった。


「どうもこうもない! かつて歴代魔王の中でも最も畏怖と尊敬を集めたわたしが! どうして今ではこんな辺鄙な地で朝な夕なお茶ばっかり飲んでいるのだ! 人間たちとの争いは終わってなんかいないのに、平和過ぎだろ!」


メイアはデッキチェアを蹴飛ばす勢いで猛然と立ち上がった。ルシエは宥めるように近づいていくと、


「まあまあ、メイア様……お茶のお代わりはいかがです?」


「いらん! 他にすることがないからってお前はお茶ばかり淹れて。飲み過ぎでわたしのお腹はもうたぷたぷだ! 茶渋も付くし、夜も目が冴えて眠れないし、うんざりだ!」


ふん! とメイアは腕組みしてそっぽを向いてしまう。


ルシエはため息を吐くと、駄々っ子をあやすように「何がそんなに気に入らないんですか?」と尋ねた。


「何が、だと?」


メイアは火竜が火を噴く直前のように鼻を膨らませる。せっかくの可愛らしい顔立ちも、そんな顔をしては不細工まっしぐらである。


そんなことは意にも介さないように、メイアは憤怒の形相のまま不満を爆発させた。


「全てだ! 全てが気に入らない! まず、いきなり魔王を引退させられて隠居するしかなくなったこと! 一体誰がこの数百年、荒くれ者どもをまとめ上げて魔界を統治してきたと思っている? わたしだ! 人間との戦いだって、わたしがどれだけの勇者たちを相手に死線を潜り抜けてきたか、知らない者はいないはずだ!」


それなのにっ、とメイアは怒りに任せてごりごりと歯軋りをする。「あぁ、メイア様の顎がしゃくれてしまう」というルシエの嘆きも耳に届かないようであった。


「あのたかだか数十年前にできたような、ぽっと出の議会の連中め……なぁにが『魔界もそろそろ旧態依然とした制度を改革すべきです。そのためにはまず、魔界の頂点である魔王、これを従来の世襲制ではなく、民の皆で選ぶ公選制にしようではありませんか!』だ! あいつら、自分たちが権力を持つためにわたしを蹴落としたかっただけだろうが! 魔界の民にはわたしが必要だということがどうしてわからないんだ⁉︎」


「……けれど、民たちが投票した結果メイア様は落選したのですよね? 本当に必要とされていたんですか?」


地団駄でテラスの床をぶち抜いているメイアに、ルシエはザクリと切り込んだ。


メイアは地団駄をやめると、のたり、とルシエに幽鬼のような顔を向けた。


「それはあれだよ……ほら、情報操作とかそういう……みんな議会の奴らに騙されてたんだよ……?」


さっきまでの怒りはどこへやら、今にも泣きそうにもごもこと口ごもるメイアにルシエは再びため息。


「はぁ、そういう子どもじみたところが不支持の理由だったんじゃないですか?」


「うぐ、うるさいなぁ。……ばあやのくせに」


不貞腐れたようにメイアがぼそりと呟く。


「もう、ばあやはやめてください! だいたいいつまでもメイア様が子どもっぽいから、私がお世話してあげてるんですよ?」


ルシエは少し耳を赤くして抗議する。ばあやというのは側に仕えて色々な世話をする者のことで、決してルシエが老いた婦人というわけではない。むしろ外見は人間の齢でいうところの十八、九くらいで、涼やかな目元と肩の辺りで切りそろえた漆黒の髪が上品な印象を与える少女、といった風情であった。


しかしメイアは聞く耳持たないというふうに鼻を鳴らす。


「ふん、このままこんなところでルシエの世話になり続けていたら今に血管の中にもファーストなんたらのお茶が流れるようになるだろうな。まったく結構なことだ!」


「ファーストフラッシュですよ、メイア様」


メイアの憎まれ口にも慣れ切っているようにルシエは軽い調子で応じる。


「ええい、なんでもよい! そもそも味の違いなどわからんのだ!」


「メイア様はお砂糖をたんまり入れないとお茶も飲めない子ども舌ですからね」


「なっ、甘い方が美味しいだろう!」


「はいはい、お子様、お子様」


「あ、頭を撫でようとするな! 子供扱いしおって!」


「それが嫌なら大人らしく落ち着いてお座りになられたらどうです?」


やんわりとではあるが的を射たルシエの指摘に、メイアは膨れっ面のまま再びデッキチェアに沈み込んだ。


「……だってわたしにはまだやり残したことが沢山あるんだ」


それまでただの駄々っ子のようであったメイアの顔に憂いの色が滲んだ。


「メイア様……」


「北の大地では兵糧への徴収と凶作の影響で今年の冬を越すための備蓄もできないと、嘆願書に書いてあったな……戦の前線はいつだって増援を求めているし、医師や医療器具の数も圧倒的に足りていない。食糧だってほうぼうから徴収してやっとなのだ。そして戦に駆り出される者たちが増えれば、その分内陸での経済活動は衰えていく。そんな悪循環を断ち切ろうと奔走してきたが、結局わたしには何もできなかった」


挙句、こんな実質島流しのような形で隠居させられてしまっている。これが憤らずにいられるか。そう言ってメイアは唇を噛み締めた。その顔には少女のひたむきさと、現実を知る者の諦念がないまぜになって浮かんでいた。


ルシエはそっとメイアの横顔を窺う。


つまるところ、メイアは自分自身に怒っているのだろう。


魔王として果たすべき責務がありながら、それを果たせずにその座を退いてしまった、そんな自分を責めているのだ。


幼い頃からずっとメイアを見守ってきたルシエには、今のメイアの苦しみが胸に迫ってくるようだった。


元来メイアはとても真面目であった。先先代の魔王の末っ子(しかも女児)として生を受けたメイアが、当時世襲制であった魔王の座を継ぐなど誰も予想だにしなかったはずである。けれど、一度魔王になると決めたメイアはひたすら真摯に勉強や特訓に明け暮れた。誰よりも強くなり、誰よりも魔界を良い方向へと導くために。


ルシエはそんな彼女の姿を誰よりも近くで見てきたのだ。


だからこそ、メイアが魔王を引退して隠居することになっても、ルシエは迷わず彼女についてきたのであった。

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