第5話 つまらない

 千里が楔から逃げるように早々と急いで蒼と別れ、千里が教室に入ると、まるで図ったかのように一時間目の授業開始を知らせるチャイムが鳴り、生徒達は蜘蛛の子を散らすようにクラスを慌てて出て行く者、自分の席へと座っていく者に分かれる。ただ一人千里を除いて。千里は悠々とした態度でゆっくりと自分のペースで席に座る。千里が席に着いたことを確認してから、少しだけ苛立った様子で片桐が日直に声をかけた。その声に応えるかのように日直の号令とともに古文の授業が始まった。

 片桐が授業で使う教科書のページ数を指定すると、皆も開き始める。千里も片桐に言われたページを、蒼の教科書で開いた。いや、開くまでは良かったのだ。千里は蒼の教科書を借りようと思った自分を怨みたくなる思いでいっぱいだった。それぐらい蒼の古文の教科書は漫画(ページの端はパラパラ漫画)や肖像画には落書きまみれだった。それも漫画なんかはかなり傑作だ。思わずこの先はどうなっているのかと気になるほどに。

 もちろん千里の中で今は授業中だということはすっかり頭かっらぬけている、つまり意識の外だ。笑い声を漏らさぬようにこらえてはいるが、こらえようとすればするほど、肩が震える。その様子を見ていた古文の教師である片桐俊郎は手でチョークを握りしめて折ると、こめかみをぴくぴくとさせながら黒板に問題を書くと振り返る。片桐の怒りがマックスになっている事も知らずに千里は肩を震わせながら蒼の教科書を見ていた。それを隠すかのように片桐は千里の机にゆっくりと近づきながら、口調も同じくらいのスピードで話し始める。

「えー、かの夏目漱石はI LOVEYOUをなんと訳したか、という問題だが……。じゃあ、そこで、蒼の教科書を見て笑いを堪えるのに一生懸命な地雷。答えろ」

 千里の席に着くと同時に問題も読み終わり、爽やかな笑顔を浮かべた。こめかみをぴくぴくと動かし、机をこんこんと叩く。千里はいきなり声をかけられ、机を叩かれたので、一気に現実に引き戻される感覚が走る。普段出さないような声を出しながら返事をすると、教室からクスクスと笑い声が聞こえる。千里は大して気にもとめず、片桐が指を指している黒板の問題を読むと口を開いた。もちろんたっぷりな皮肉を添えて。

「ふぁい?!ええと……?かの有名なあの夏目漱石殿が、I LOVE

 YOUをなんと略したか、ですか。……いや、"月が綺麗ですね"……ですよね、それ普通に考えて。簡単すぎて反吐が出るんですけど、質問するならもっと難しいの寄越してくださいよ。てかそれ古典やるなら基礎中の基礎じゃないですか。こんなのわっかんないひといるんですか?」

「……いや、正解なんだが……。ううん……もう少し真面目に授業受けろ。悪かったな、簡単で。お前には特別に超難関な愛のこもった宿題を出してやるよ。あと黙ってろ」

「いやでーす、宿題に愛も何もいりませーん。……ていうか、俺サボり魔なんで?そもそもこうして授業受けてるだけでも褒め称えて欲しいくらいですよ」

 星が付きそうなぐらい軽く言うと、ぐっと親指を立てた。

 確かに千里は実際問題、本当にかなりのサボり魔だ。そもそもたまに学園にすら来ているのが怪しいぐらいだ。というのも彼女のやっている仕事の関係で来られなくなることもあるのだが――。なので今日は中学の頃とかも含め考えると、珍しく授業に出てることもあり、あまり強く言えない片桐の態度に千里はクスクスと小さく笑いながら、また席につく。

 そのあとは握り拳でチョークが一本折れたこと以外は何事もなかったかのように授業は進められていた。千里も教科書を読むことは諦め真っ白なノートを取り出すとそこに黒板の文字を移し始める。片桐はそれを横目で見ながら少し満足げにほほ笑む。

 しかし、最初はそれこそまじめにノートに黒板の文字を移していた千里だがその数分後には船をゆっくりと漕ぎ始めていた。

 理由は窓から入ってくる心地のよいそよ風と、暖かな日差し。こつこつと小気味よく黒板を鳴らすチョークの音、それからなんとも言えない片桐の上手い朗読。アルファー波が出ているような気もする。それで寝るなという方が無理な話だ。千里が意識を手放す直前にどこからか昔、良く聞いたような怒号が聞こえた気がしたが、そんなのにもいちいち反応していられるほど千里には余裕がなかった。そのまままっすぐ意識は暗闇の世界へと手放した。

 それからどのくらいたったのだろうか。誰かがどちらかと言えばやさしく千里の肩をたたいていた。ゆっくりと瞼と頭を上げると千里の目に入ったのは静かな怒りを耐えているような様子だった片桐の姿だった。千里は軽く目をこすりながら寝ぼけなまこで静かに怒りをたたえている片桐を見つめる。

「おい、地雷。起きろ」

「……あれ、俺寝てました?」

「ガッツリな。……珍しく授業に出たと思えばこれか?ん?地雷」

「いやぁ、連日仕事がたまりにたまってねぇ……。って何言わせんだよ。あー、片桐の声眠気さそう……」

「お前なぁ……いい加減にしろよ……」

 千里は軽口をたたきながら一瞬で周りを見ると、どうやら授業はとっくのとうに終わったようで、周りは騒がしい。一部は卑しい笑みを浮かべながらクスクスと笑い、こちらの様子をうかがっていた。正直そんなに嫌いなら見なきゃいいしお前らが視界に入れなきゃ良くないか?とか思いながら。横目でちらりと確認してからいつも通りおちゃらけたかんじで口を開く。

「授業終わりましたー?てか終わってますよねー。じゃあ、俺屋上行きます!」

「いい加減にしろっていってんだろ……」

「やだなぁ、片桐センセ。俺の中学の頃からの授業サボリ癖なんて、知ってて推薦したんじゃないですかぁ、それでもいいから来てくれって頭下げたのそっちじゃないですか!あの時正直j¥引きましたよ!まぁ断りましたけど!!」

 ケラケラと可笑しそうに笑っているが、その瞳の奥にあるはずの光は宿っていなかった。そして千里の瞳は顔が笑っているのに対し、笑っていなかった。片桐も始めその瞳を見たときには、かなり背筋が冷えた。何もかもを冷めた瞳で見つめ、笑っていても、その顔はいつも笑っていなかった。片桐はそのときのことを思い出し、再び少しだけ背筋が冷える。こんなにも明るく笑っているというのに、目だけはいつも笑っていなかった。

 片桐が背筋を冷やしていると、推薦の時の話になる。あの時のことを思い出すと今でも腹立たしいことがいくつも片桐はあった。冷たい瞳で千里はあの時の断りましたけど、を口にしながら、何処ぞの蒼だと言いたくなるほどうざったらしく言葉を並べた。その言葉を聞いた片桐は怒りと、あの時のことの思い出しながら握り拳を振るわせ、当時の千里のまねをしながら口を開く。

「ホントだよなぁ、お前の断り方、"あ、俺そこの高校は自力で入るつもりなんで。だって面倒じゃないですか。推薦なんかで入ったら、授業気軽にサボったり、学校抜け出したり、出来ないじゃないですか。内申点キープとか、成績常に上位-、とか面倒くさくて禿げますよ、俺。ふざけんなはっ倒すぞってやつですよおっさん。てかそもそも俺の実力を見限んないで下さいよ、俺、そこ程度なら余裕なんで"……だもんなぁ?」

「アハハ!!俺そんなこと言いましたっけ?」

「言ってたよ!!バッチリな!!」

「やだなぁオッサン、俺が片桐せんせみたいな鬼におっさんとか言うわけないじゃないですかー末恐ろしいなぁ、ねぇおっさん。それにいいじゃないですかー、一般入試で隣のクラスの縁と並んで1位で合格したんですから!」

「今2回言ったよな?!まぁ、合格したからいいが……」

 千里はわざとおっさんを強調しながら、近所のおばさん達みたいに手を縦に振る。こうして話しているのは実に珍しい光景なのかこちらをちらちらと見ながら、話しに混ざろうとしている人たちの気配がうかがえた。先ほどからちらちらと横目に入ってくるのが少々鬱陶しいのだ。

 そもそもの話し、千里がこうしてケラケラと笑いながら話す相手は教師だとしても数少ない。クラスメイトの名前すらまだ憶えていないし、今後一切憶えるつもりもない。教師だって名前きちんと覚えているのと話すのはクラス担任の遊原、それからいま目の前にいる片桐だけだ。ほかの教師に話し掛けられようとなんだろうと業務連絡等のみであまり話さないし、自分から声もかけない。

 しかし、彼女は群を抜いて成績がいい。なので下手に逆らえない教師がおおく、中々強く千里のことをもの申すひとが少ないのが問題なのだ。それでもきちんと千里に物申すのは片桐と後は担任の遊原ぐらいだろう。

「やだなぁ聞き間違いですよ、ねぇ、蒼」

「そうですよ、片桐せんせ。千里ちゃんがおっさんなんて汚い言葉、言うわけないじゃない」

「おまっ……いつから……っはぁ……お前らに突っ込んでたらこっちの体力がなくなるだけだな……、怒る気力も無くなったわ……。はぁ疲れた……」

「僕ですか?!そうですね、推薦の話ぐらいからだと思いますよ!それなら良かったです!次の授業のお迎えに来たんですが、疲れたならどうぞ職員室で休んでてください!そのまま一生休んでてもいいんですよ!」

「ふざけるな!」

 途中から蒼が入ってきたことに気が付いた千里はいきなり蒼に話を振った。そのことに片桐はいつの間にか現れた蒼の姿と、蒼の乱入により疲れてしまった片桐は、深いため息を吐いてから、職員室に戻ろうとした。そんな片桐の背中に蒼が声をかけると、ふざけるな、と言う返事が来た。蒼は「酷いなぁ、体をいたわってあげてるのにー」と言いながらむくれた。

 ずっとこのまま毎日が平穏だったらいいのに────。そう思いながら、千里はその様子を少し悲しげな瞳で眺める。

 しかし、この平穏が長くは続かないことを彼女達はまだ、知らない。この先にどんな未来が待っているのかさえも――。

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