第2話 はいはい奥さん(唯々諾々)

 東京のとある町の片隅に、妻に甘えに甘えた、どうしようもない社会のゴミクズがいた。

 男の妻は比類なきほどの良妻で、どんなに男がダメになろうとも尽くし続けた。男が自堕落になっても、仕事を首になっても、酒に溺れても妻は男を見放さなかった。

 男が耳を疑うようなワガママを言っても、彼女はいつも柔らかい笑みを浮かべて、『はいはい』と言った。

 男がゴミクズになって二年が経った。同じように、妻の献身的な愛情も二年が経った。

 世間に、友人に、家族に、妻に、酒に、自分に関わるもの全てが俺をこうしたのだと。一度たりとも自分を戒めることをしてこなかった男だったが、妻のそんな献身的な態度を見ているうちに、恥ずかしくなってきた。

 俺はなにをしているんだ、と。このままで良いのか、と。妻を悲しませたままではいけないと、ようやっと思い始めるようになる。


 いつしか妻を夫婦部屋から追い出し、一人で酒に溺れながら寝ていた男。彼は自身の行いにひどく後悔した。

 すぐさま妻に謝りに行こうと、彼女が寝室がわりにしていたリビングへと向かう。もう寝てしまっただろうか。

 すると、リビングからすすり泣く声が聞こえてきた。男は少しだけ開いている扉の隙間に、そろりと目を近づけた。

 リビングの中は、ほのかに明るかった。

「……恵美?」

 それが携帯のディスプレイから漏れる明かりだと気付いたのは、部屋の隅で布団を頭から被り、膝を抱えて泣いている妻を見た後のことだった。

 妻は誰かと電話をしているようで、消え入りそうな声で言葉を紡ぎながら、何度も嗚咽を繰り返していた。

 目を凝らして見てみると、妻は弱々しくかぶりを振っていたのが分かった。

 ふるふる、ふるふると。顔が左右に揺れる度に、透明の粒が妻の目下、頬、鼻先、顎先から零れ落ちていく。

 それらはディスプレイから漏れる光に当てられ、鈍く輝いていた。それが妻から零れ落ちると、まるで線香花火の火薬が地面に落ちていくように、光を無くして闇へと消えていった。

「いやよ。別れたくなんかない。お母さんは全然分かってない」

 相手は妻の母親だった。

「きっと疲れているだけなの。彼だって今まで何度も私を支えてくれたから。だから、今度は私が支える番なの。いつもいつも、へらへらして彼は笑ってくれたの。どんなにワガママを言っても、イライラをぶつけても『はいはい』って言ってくれたの。ずっと笑ってくれていたの。だから……私も笑ってあげなきゃ。支えてあげなきゃ。彼はいつか必ず立ち直ってくれるから」

 妻はそれっきり声を押し殺しながら、むせび泣いた。

 

 扉越しに彼女を見ながら、男も泣いた。とめどなく涙が溢れてきて、止めることができない。両手で何度拭っても、拭っても、拭っても、止めることができない。

 申し訳なかった。ただひたすら申し訳なかった。

 彼女は自分をここまで深く愛してくれていた。

 愛しているからと。辛い気持ちを押し殺して、ずっと支えてくれていた。

 それなのに、俺は。

 今すぐにでも、この扉をバンと開け放って彼女に謝罪したい。彼女を胸に抱き寄せて、おいおいと泣きじゃくりたい。

 しかし、それではいけないだろう。


 男は、暗闇の中で体を小刻みに震わせている彼女の姿に後ろ髪を引かれながらも、自室に引き上げた。

 そしてベッドのシーツに包まり、一人で「ぐっぐっ」と声を押し殺しながら泣いた。

 脳裏に暗闇でむせび泣く妻の姿が浮かぶ。

 顔を左右に振る度にボロボロと零れる涙。ぐしゃりと潰れた顏。輪ゴムのようにプルプルと震える唇。

 ――そこで場面が一転した。

 真っ白い背景に浮かび上がった妻が『はいはい』と言いながら微笑んだ。

 それから場面が次々と切り替わる。

 放課後の帰り道。手を繋ぐことをせがんだ交際一年目。

 北海道、函館山の山頂。百万ドルの夜景を見ながら、キスをしたいと目だけで訴えた交際五年目。

 地上二百メートル最上階に構えたレストラン『BICE TOKYO』内でプロポーズ出来ず、その帰り道の寂れた公園でプロポーズした交際八年目。

『はいはい』

 彼女は、いつもそう言って笑っていた。どんなに駄目でも、格好悪くても、彼女は笑ってくれた。

 そんな彼女を、俺は泣かせてしまった。

 しかしそれでも、彼女は俺を愛してくれていた。どんなに辛くても『はいはい』と言って、俺の前で笑っていた。

 それが――この四文字の言葉が、現在まで培ってきた二人の証だからと、彼女は思っているのかもしれない。

 男は思い浮かぶ久遠の情景に、声を押し殺して泣くことなど出来なかった。赤子が泣き始めるように顔と口をぐちゃぐちゃにしてわんわん泣いた。

 男は泣きながら、確かな想いを胸に抱いた。揺るがない決意を固めた。

「もう、あいつに優しい嘘はつかせない」


 一週間後。男は玄関のスタンドミラーでネクタイを整えていた。リビングの扉から妻が顔を覗かせる。

「あなた。今日はなんの面接に行くの?」

「ん? 今日は飲食店のエリアマネージャー、新聞配達員、引っ越し業者、清掃業者、運送業者」

「わー。ブラックばっかりだなあ」

「今の御時世、ブラックですら落ちるからな。あちこち受けておかないと危ないんだ」

 と、ぱたぱたとスリッパの音を立てながら、妻が男に駆け寄った。

「ん? ははっ……なんだよ。別にネクタイ曲がってないぞ?」

「いいのっ。成功のおまじないを込めてるんだから」

 妻はシワ一つ無いネクタイを、改めて整えた。

「そんなことより、もっと成功率が上がるおまじないを知ってるんだけど」

「やだ、なぁに?」

 男が自分の頬に人差し指をトントンと当てる。

「えー」

「あー、このままじゃ面接全部落ちちゃうかも」

 彼女は「あははっ」と声を上げる。そして微笑みをたたえたまま、彼を見つめてこう言った。

『はいはい』



唯々諾々(いいだくだく)

 物事の善し悪しに関わらず、相手の言いなりになるさま。盲従するさま。

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