四文字の宝石箱
上坂 涼
第1話 情欲デマクリンZ(意馬心猿)
私はエロスが嫌いだ。
いや、エロスは良い。完全無欠たる美としてのエロスは、称賛に値する一種の芸術であろう。健全たる青少年の私が嫌いな類――それは卑猥で下劣に属する事柄である。ああ、汚い汚い。
今も担任の机の上に座っている女生徒の短いスカートから、何かが見えそうで、うなぎ登りのイライラが天にも届きそうな勢いである。
なにが、「めっちゃそれエロくなーい?」だ。お前の恰好の方がよっぽど「めっちゃそれエロくなーい?」にふさわしい。
……誘っているのか。片足のかかとを机の角に乗せるなんて、見せようとしているようなものじゃないか。おい。女生徒
「ええい! 忌々しい!」
「なにをまた大便している時の顔をしているんです。便秘ですか?」
「消えろ。私はお前の醜い言動を嫌悪している」
「相変わらず喋り方が気持ち悪いですねえ。さすが歴史研究部の部長だ」
「それはお前もだろう。生徒会の会長さんよ」
「これはあなたのマネをしているのです」
己の内に巣食う魔と戦う私に声を掛けてきた奴の名は
「ええい。とにかくとっとと消えてくれ。会話を交わすだけでも吐き気がする」
「そうは言いますが、あなたがいつも授業中、休み時間かかわらず漏らしそうな顔をしている方が、精神衛生上に差し支えると思うのですが如何でしょう」
私はライオンのように吠えた。「失せろ!」
「おやおや手厳しい。感情的になった時は一服するのがよろしいですよ。とはいえワタクシも聖人君子の道を歩む者。タバコや酒の類は持ち合わせておりません。……もちろん危ないクスリもしかり」
言いつつ、短く切り揃えた髪を片手で掻き上げる姿が、実に腹立たしい。
「いいから失せろ。それが一服の代わりに――」
「代わりと言ってはなんですが、富士の山から直接汲んできたというありがたい水があるんです」
森川は紺色の学校指定鞄の中を漁る。やがて奴の鞄から三五〇ミリのペットボトルが現れた。ラベルには『富士水』と書かれている。
「それスーパーで買ってきたやつだろ」
「ええ。百十七円! 高いですね。いつも損な役回りを任されるのは消費者だ。嫌ですね」
森川はいつものしたり顔を湛え、私の胸元目掛けてそれを投げつけてきた。私はそれをなんとか受け取ると、奴にチラリと目をやった。
「さあどうぞ。もう七月も半ばですからね。夏も本番になります。今のうちに水分を蓄えておきましょう」
……一抹の不安を感じなかったわけではなかったが、喉が渇いていないわけでもなかった。私は咄嗟にキャップをカシャカシャと回し開けると、飲み口を唇で覆う。
「ほーれ、イッキ、イッキ」
「……美味い」
私はごきゅごきゅと喉で音を鳴らし、それを飲み干してしまった。確かに無味無臭。水の味としか形容出来ない味わい。
しかし私はとある一つの疑問を口にした。
「いったいどういう風の吹き回しだ。お前が私に幸せを運んでくるなぞ、天変地異の前触れか」
「ひどいですねぇ。世は有為転変の理で満ちているんですよ。ワタクシだって心変わりくらいします」
森川はしたり顔を浮かべると、机の上に置かれた空ペットボトルを手に取った。
「しかし……ああ。飲んでしまいましたか。てっきり拒否されてしまうと思いましたが、やはりたまには作戦変更をしてみるものですね」
「どういう意味だ」
「こういう意味です」
森川の血色の悪い指がペットボトルのラベルをペリリと剥がしていく。露わになったラベルの下には――ああ、神様!
さて、窮地に立たされた私である。
「はああ! はあぁあ!」
「えっ! なに!? え、やっ、ちょっと……ざっけんなよ! いきなりなんだよお前! 誰かこいつなんとかして!」
私は例の水の正体を知るやいなや、名切渚のハイソックスを強引に剥ぎ取り、廊下に逃走した。
念のため述べておこう。これは私の意思ではない。今の私は、例のクスリに脳味噌を侵されているだけなのである。
しかしこのクスリ。なかなかに強力な代物のようで、いかに己を戒めようともクスリの効力には抗えないようだ。
現に私は、すれ違う女子どものスカートをめくり、胸を揉みに揉んだ。しかも一人の女子につき必ず両方である!
「幸せだから! 俺、幸せだから!」などと声を掛けられつつ、スカートをめくられ、驚愕あるいは憤怒の色に顏を染める女子の胸をすかさず二、三と揉むのだ! 猛威を奮う台風の如く逃げ去る私は、彼女らに暴言を吐く機会すら与えない。
まさしく外道! 下衆の極地なり!
ええいちくしょう。怒濤の勢いで私の手が汚れていくではないか。……なぜ私は森川なんぞから渡されたものを受け取ってしまったのだ。
――これはですね。情欲デマクリンZというクスリなんです。
ああ! 奴の憎たらしい顏にパイ生地を投げつけてやりたい!
「なんだその妙竹林な名前は」
「あなたの心に住まう狼を目覚めさせるクスリとでも言いましょうか」
「また騙したんだな」
「今回で丁度、二十回目の作戦です。あなたにはいい加減、私の同士になってもらいたい。だから少し大胆な手段を取らせていただきました」
「私はお前から何の同士かも説明されていない。……嫌がらせもいい加減にしろ。うんざりだ」
「単刀直入に言いましょう。あなたはこれから欲望を抑えきれない猿になる」
はてさて。これからどうしたものか。
「くそ! 見失った!」
「ちくしょうどこ行きやがった!」
「あいつ、よくも渚のハイソックスを!」
足音が廊下を駆け抜けていく。
「……ふん。行ったか」
正義感溢れる男子どもに追われ、今しがた一階の女子トイレに逃げ込んだ私は、洋式便座に腰を下ろして名切渚のハイソックスを見つめていた。
ひとまず鼻に押し付けてみる。
「良い……匂いだなぁ」
「とんだドスケベぶりですね。名切さんをそんなに好きだとは思いもよりませんでした。とんだ誤算です」
「その声は森川!」
奴は個室の扉から顔だけ出して、私を見下ろしていた。口を真一文字に結んでいる。
「ほら。どうした。これがお前の望んだ結果だろう。遠慮なく笑ったらどうだ。……それとも。さすがのお前も私の行為に落胆したか? ふん、上等だ。お前に嫌われるなら本望」
森川が何かを言おうとするのを差し置き、私は個室から飛び出した。
後方から短い悲鳴が飛んでくる。おそらく扉にぶら下がったまま、挟まれたのだろう。少し気にならないわけでもない。だが奴は私を変質者に陥れたのだ。森川真ゆるすまじ。
しかしこのクスリ……効果はいつまで続くのか。
先ほどから胸の奥が悶々ざわざわしていけない。このままいけば停学どころではない……退学処分必須だ。
効果が切れるまでどこかに隠れるか、学校そのものから脱出した方が良いだろう。若々しい女体を一目見ると、どうしても襲い掛かってしまいたくなる。
だが。いざ廊下に繰り出してみると、さっそく私は二人の女子が階段に差し掛かるのを発見してしまった。
「それでさー」
「えーマジでー?」
私はライオンのように吠えた。「パンティ!」
「……あゆみ。あれ、なに」
「え? ……いやあ!」
逃げる彼女らの尻を追いかけ、私は蜘蛛のように階段を這い上がった。
「パンティ! パンティ!」
「キモいんだよ! 消えてしまえ!」
と、快活な印象を受ける短髪女子が突如現れたと思いきや、私の顔面に回し蹴りを放った。ゴムの匂いが鼻孔をくすぐる。
「ありがとうございます!」
「死ね!」
「ありがとうございます!」
さらに顎を蹴りあげられて、体勢が崩れる。右頬が硬いモノに触れたと思いきや、目の前の世界がグルグルと回った。
「ははは! 階段を転がり落ちると、こんなにも痛いんだなぁ! これが鉛筆の気持ちか! 鉛筆の気持ちなのだな!」
「せ、先生に言っておくからな! 覚悟しとけ!」
嬉々として階段から転がり落ちていく私の姿に恐怖を覚えたのか、短髪女子はそう言い放つやいなや、たったと走り去って行った。
鼻から垂れるなにかを指で拭う。
「あはっ。血だ」
首筋にあたる床はほんのり冷たく、二階踊り場階段の裏側はとても無機質だった。
私は達磨よろしく、ゆらりふらりと立ち上がった。
さあ次はどこに行こうか。
もはや聖人君子なぞどうでもいい。なにもかも終わりだ。今回の騒動で私に下される評価は地の底に落ちるだろう。
……それに。女子の嫌がる顏を拝見し、暴力を行使されるときのゾクゾクがこの上なく気持ちが良い。このままクスリに魅了され、溺れてしまおう。堕ちるところまで堕落し、魑魅魍魎の一員となるのだ。
と、身体がかすかに後ろに引っ張られた。
「クスリの効き目は終わりです」
「その声は森川か。なんのマネだ」
奴が背後から私の右腕を掴んでいる。ええい、触るな忌々しい。お前さえいなければ私は。
「離せ」
私は身体を反転させる勢いで、奴の白い手を振り払った。すると奴は、すぐさま抱き着いてきた。私の胸元に顔を埋める。
「あれは水ですから」
「なんだって?」
「全て嘘ですから」
短く切り揃えられたショートボブが左右に揺れた。
「森川お前……いったいどうし――」
「なぜワタクシにはセクハラしてくれないんですか」
「え?」
「ワタクシはそんなに魅力がないですか。名切渚がそんなに好きですか」
「なにを言っ……て」
強く抱きしめられる。
「こんなにあなたが好きなのに」
「……っ」
そういうことか。……実に腹立たしい。色々と。
「ふん。お前のせいで私は退学だ」
「ワタクシは生徒と教師から絶対的信頼を置かれる生徒会長です。なんとかします。なんとか出来る自信があります」
「ふん」
私は、顔を埋める奴の頭に手を置いた。想像よりも遥かにサラリとした髪触りに驚く。
「嫌いだ。私はお前のことが大嫌いだ。でも――」
「……なんで頭を撫でるの?」
恥ずかしそうに俯く姿は、とても新鮮で、刺激的で、ドキドキした。
「クスリのせいかな。今、お前が可愛らしく思える」
「だからあれはただの水……です」
私は彼女を強く抱きしめ返した。
「分かっている」
意馬心猿(いばしんえん)
煩悩ぼんのうや情欲・妄念のために、心が混乱して落ち着かないたとえ。
また、心に起こる欲望や心の乱れを押さえることができないたとえ。心が、走り回る馬や騒ぎ立てる野猿のように落ち着かない意から。
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