第3話 あいしてる人
その後も時折田沼さんに会った。田沼さんは私に懐いたのか、「智子さん」と笑顔で私を呼んで、まるで犬のように私についてきて、私の言うことに従った。
始めは田沼さんとの距離を掴みかねていたけれど、何度か会って慣れてくると田沼さんの人柄の良さが分かって気を許せるようになったし、弟が出来たみたいで嬉しかった。
その日は、仕事後に田沼さんと会う約束をしていて、ルンルンとした気分でいた。
まさか、あんな事態になるとは思っていなかった。
田沼さんの父親──田沼一彦さんの容態が急変した。
その知らせを聞いて、最悪の事態を考えてしまい、私は田沼さんのことを思った。
一彦さんは手術室に運ばれて手術を受けたが、危険な状態が続いた。病院に駆け付けた田沼さんは、変わり果てた父親の姿を見て顔を強張らせた。
「父さんっ」
ベッドで眠る一彦さんに手を伸ばして、田沼さんは祈るように彼の手を握りしめた。
「父さん……死なないで。僕を一人にしないで……!」
田沼さんは悲痛に懇願した。彼の姿を見て、彼が告げた言葉を思い出した。
──孤児である僕の家族は、あの人だけです。僕には、あの人しかいない。
胸が締め付けられるのを感じながら、私も一彦さんが回復することを祈った。
私達の祈りも虚しく、一彦さんは亡くなった。
田沼さんはただ亡骸となった一彦さんを見つめていた。一彦さんを見つめる田沼さんの目は虚ろで、声をかけるか迷っていると、田沼さんは一彦さんに手を伸ばした。
一彦さんの頬に触れて、彼の肩を抱いて──彼の体を抱きしめた。
「あいして、いました」
田沼さんは振り絞るように告げた。
「僕はあなたを……あいしていました」
此処にいるべきではないと感じて、私はそっと病室から出た。
田沼さんはやはり、一彦さんをあいしていた。彼は一彦さんが亡くなって、初めて自分の想いを口にすることが出来たのだ。
屋上に移動して、薄暗い空を見上げながら、煙草が吸いたい、と思った。田沼さんの影響かな、と思って笑おうとしたけれど、笑えなかった。
唯一の家族を失った田沼さんは一人で生きていくのだろうか。変わらず一彦さんをあいしながら、彼に囚われながら生きていくのだろうか。
私は、愛憎という名の田沼さんの想いに思いを馳せた。
今にも雨が振りそうな空を眺めながら、やっぱり煙草が吸いたい、と思った。
翌日、同僚である中橋さんから昨日の田沼さんの様子を聞いた。
一彦さんの遺体を移動させる時、田沼さんは一彦さんを抱きしめながらこの人と離れたくないと言って聞かなかったそうだ。
「今までもそういう遺族はいたけれど、彼は何度説得しても引き下がらなくて困ったわ」
苦笑する中橋さんに、唯一の家族を失った田沼さんの心情を思って胸が締め付けられた。
「彼、何というか異常よね。いくら父親とはいえ、あそこまで取り乱す人は初めて見たわ」
異常。中橋さんの言葉が引っ掛かって、眉を寄せた。中橋さんには田沼さんの姿がそういう風に見えたのだ。確かにそうなのかもしれない。でも、私は田沼さんの想いをその言葉で形容したくなかった。
一彦さんが亡くなった一ヶ月後に、田沼さんから連絡が来た。
「智子さんに会いたい」
田沼さんからのメールにはただそう書かれていた。
「久しぶり。何処で会う?」
そう送ると、直ぐに返事が来た。
「僕の家に来てください」
暫く考えてから、メッセージを打った。
「分かった。今から行きます」
田沼さんの家には一度行ったことがある。だからその日も私は躊躇いなく田沼さんの家に訪れて、チャイムを鳴らした。
扉が開かれて、田沼さんが姿を現した。彼はいつも着ているスーツではなく、ラフな格好をしていた。一ヶ月前に比べて、彼は痩せたように見えた。
「智子さん。来てくれてありがとうございます」
田沼さんは嬉しそうに笑った。私が彼を犬のようだと感じる笑顔だ。変わらないそれに、ホッとした。
田沼さんの家に上がって、リビングに移動してソファーに座ると、田沼さんはお茶が入ったコップをテーブルに置いて、私の隣に座った。
一彦さんのことに触れるか迷っていると、田沼さんから彼に触れた。
「父さん……あの人が亡くなってから」
そこで一度言葉を切って、
「何度も、死のうとした。でも、出来なかった」
私ははっとして隣にいる田沼さんを見た。田沼さんの目は、あの時と同じように虚ろだった。不安を感じていると、彼の目に微かに光が差した。
「死のうとする度に、智子さん……あなたの姿が浮かぶんだ。僕が死んだら、あなたはきっと泣くだろう。こんな僕が死んでも、あなたは深く傷付いて、悲しむんだろう。そう思うとどうしても死ねなかった」
私は田沼さんの腕を掴んで、ぎゅっと握りしめた。
「死なないで」
田沼さんは目を見開いて、「……うん」と頷いた。
「……父さんが亡くなったら、僕は独りになるんだと思ってた」
田沼さんは自分の腕を掴む私の手に右手を重ねた。
「でも、そうじゃない。僕の傍には、死なないでって言ってくれる人が……お姉さんみたいな優しい人がいたんだ」
智子さん。彼が私を呼ぶ。
「僕を、抱きしめて」
私は頷いて、田沼さんを包み込むように抱きしめた。
「…………智子さん……」
田沼さんが私を抱きしめ返して、顔を寄せた。頬をすり合わせて、やっぱり犬みたいだなと思いながら田沼さん、と呼び返すと、彼は不満そうな声を漏らした。
「そろそろ下の名前で呼んでくださいよ」
私は少し考えて、その名前を呼んだ。
「嘉治さん」
田沼さん──嘉治さんは私の頬を撫でて、そこにそっとキスをした。柔らかな感触にドキリとしていると、嘉治さんは顔を離した。
「好きですよ。智子さん」
彼は囁くように言った。
……これは、親愛のキスだ。彼は私をお姉さんみたいだと思っているから、そういう意味で私を好きなのだ。
そうだと分かっていても動揺せずにはいられなくて、私はドキドキと高鳴る胸の音を聞いていた。
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