それを愛と呼んでくれるなら

伊見地 公模

病床よりの返信来る

 拝啓

 ご連絡を有難う御座いました。こうして臥せる私には、まるで、久しく目にしていない陽光のようで御座います。

 さて、体調は如何かとのこと、お気遣いを頂き、重ねてお礼を申し上げます。

 去る21日に手術に臨み、目を覚ましましたのはその日の午後八時頃でしたでしょう。そう言いますのは、私の記憶と言うものがその辺りのことがすっぽりと抜け落ちているのです。目を覚ますと家人が付き添っており病室は煌々と蛍光灯が照らしておりましたので、今は何時なのかと訪ねますと、凡そ八時であるとの返答だったもので、あぁ、それは随分と眠っていたものだと気の遠くなる思いでした。何せ、最後の記憶は午前十時に薬を飲み、手術室に運ばれて麻酔を受けたところですから。

 それが二週間前のことですけれど、体調はと言えば決してよろしいとは言えないのでございます。括られた魚か何かのようにベッドに身体を横たえて、寝返りもかなわず、体位を変えたければ人の手を借り、そんな日々が2週間続きました。三週目に入りますとようやく車椅子への移動が許され、これで少々気も晴れるものだと、意気揚々身体を起こしましたが、それは2週間寝たきりのもの、眩暈と頭痛で五分と座っておられませんでした。さりとて三日もすれば身体も馴れるもので、五日目の今日はこうして筆を執ることもできました。

 骨を弄ったものですから、やはり痛みははげしいので御座います。滲み浮き出る脂汗は、私の身体をこうも汚すものなのですね。そろそろ自分の脚で立ちましょうと、先生が仰るのですが、非道いと思ってしまうのは、私と同じ境遇の者なら誰しもがそうでしょうね。あの方はきっとそういう意味では幾人もから恨まれているに違いないのです。とはいえ、その治療計画のお陰で私はこうして筆を滑らせているのですから、これもまた有り難いことなのでしょう。

 このところとみに思うのですが、仕事を辞めてまで手術を受ける必要があったのかしら、と。主治医の先生、看護師の方々、家人から身内のものに至るまで、現在の私に関わるすべての人間が最善を尽くしてくれ、これからもそうしてくれようとしています。自らが決め、周りを巻き込みながらも、このように辛いとなると、間違いだったのではないか、と塞ぎ混んでしまうのですよ。身勝手なものです。然乍しかしながら、何事もなければこの先六十年余りを生きるこの身体です。長い人生のなか、折に触れて、決断が正しいものだったと思い知らされるのでしょうね。子供をこの腕に抱いたとき、手を引いたとき、釦をかけてやり靴紐を結んでやったとき、そして孫を抱いたとき、私は必ず思うのでしょうね。そうであるならば、この辛い体験は必ず糧になるのだと、今の私は理解しなければなりません。

 そう、辛いのです。辛いとき、鎮痛剤を飲んで少々ぼんやりしているとき、ですからほぼ常にと言ってもよい程の時間、貴方のことを考えます。いつも同じことです。私はやはり、貴方に甘えすぎていた。初めて会ったときのこと、初めて言葉を交わしたときのこと、初めて肌に触れたときのこと、そして全てを失ったときのこと。それでも私は我が身可愛さに仕事を辞めることが出来ず、留まり続けました。それがよくなかった。よいことではないとわかっていたのに。

 恋慕、憧憬、尊敬、憎しみ、それらすべてが入り交じってしまったのです。名付けることも出来ず、何処へやることも出来ないほど膨れ上がった其れに押し潰されながらこなす仕事は、わたしを追い詰めました。括られているようでした。ちょうど二週間前の私と同じように。ですから、私はこの機会を逃せなかった。だって、そうでしょう。戻ることも望めず、進むことも望めず、ただ貴方を嫌な思いで見つめるしかないのだもの。ならば離れてしまえと、これは私のようやくの決心なのです。

 ……それでも、貴方。

 私は貴方が好きなのです。

 破綻しておりますね。私はどこかが破綻しております。

 それでもそうなのです。名付くなら愛とでも言ってもらえるでしょうか。ずいぶん汚れてしまったけれど、言ってもらえるでしょうか。


 お見舞いに、と言ってくださいました。

 有り難いお言葉でした。私を励ましてくださるのはいつでも貴方の「声」でした。「表情 」でした。

 ですが、横たえていた身を起こしていられるのはほんの少しの間なのです。あなたにお会いするならば、化粧を施し髪を漉いてお迎えしたい。それもかないません。わずかな化粧も、わずかな身支度も出来ず、みすぼらしく醜い私を、どうしてあなたが励ましてくださるでしょうか。あなたはきっと目を背けてそそくさとお帰りになることでしょう。私にはどうしても許しがたい屈辱です。

 元同僚、元恋人、ほんの少しばかり他人より深いところまでのお知り合いとして私のことを思ってくださるならば、どうぞ、どうぞいらっしゃらないで。

 そしてこの先、いかなる理由があろうとも、私のことを思い出したりなさらないで。


 いつまでも、貴方が健やかであるように。



 病床より

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