5話 私は今窮地を脱す
ドラゴンは口を開けているのだろう、上空に光が見える。そのおかげで、かろうじて近くは見ることができた。
黒がいる場所は開けた空間となっていた。そこは湖のようになっていて、黒は近くに浮いていた板に掴まって浮いているような状態である。
改めて周りを見ると、黒の前に飲み込まれたものだろう。人や獣のものなのか、骨のようなものが浮かんでいるのが見える。
「うっ...」
これまで嗅いだことのないような腐臭がする。現に、今まさに生き物だったものが溶かされているのだろう。嗅いでいるだけで意識を失いそうなほどだ。
「くっ...はっ...」
黒は近くに浮いていた、乗れそうなほどの板に捕まろうともがく。泳ぐのは苦手ではないが、先ほどまで恐怖で動けなかった身体である。思うように動かない。それでも、液体に浸かっている箇所がチリチリとして痛み、溶け始めているのを感じた黒は、それまでの恐怖を新たな恐怖で塗りつぶし、やっとのことで身体を動かしていた。
「はぁっ...はぁっ...」
心臓が破裂しそうなほどに脈動している。汗もこれまでかいたことのないほど大量に流れている。アリシアから貰ったワンピースは特殊な素材で出来ているのか、これほどの目に合っても純白のままであった。アリシアを思い出させるそれが、辛うじて黒の精神を狂わせる一歩手前で押しとどめていた。
「来なければよかった...こんなとこ、来なければ...」
初めて体感する死の感覚。それは、死とは遠い世界に生きてきたものの心を折るには十分すぎるほどのものであった。
死は刻一刻と近づいている。このままここにいれば生きたまま溶けて死ぬだろう。
腐臭にまみれ、死の感覚に身が竦む。しかし、黒は折れなかった。死ぬわけにはいかなかった。
「でも...あの世界にはいたくなかった...やっと手に入れたんだ。自由な人生、自由な世界...」
生きているのに死んでいるような生活。心が躍動しない毎日。代り映えのない世界。知りたくも、感じたくもない、黒く醜い人の心。毎日が地獄だった。毎日が苦痛だった。
やっと手に入れたんだ。縛られるもののない、この世界。手放してなるものか。
邪魔するやつは━━ス...!!!
心の内から、これまでの人生で溜まった憎悪や殺意が溢れてくるようだった。心の中がグチャグチャになる。しかし、頭の中は静かに冷え切っている。五感で感じる情報が頭の中に入ってきては、それを精査する。今扱っている情報量は普段の100倍を超える。普通の人間であれば、発狂しているレベルである。
ふと、頭の中にステータスが浮かび上がる。
━━━━━━━━━━━━━━
状態異常:黒化
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筋力:50⇒2500
魔力:100
魔量:1000
精神力:10⇒-100
物理耐久力:50
魔力耐久力:100
俊敏力:50⇒2500
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スキル:共感覚A 天使の加護-
特殊パラメータ:黒力50
どうやら、意識すればステータスを見ることができると理解する。
ステータスを見るに、今の状態は黒化というらしい。確かに体から黒い瘴気が滲み出している。傍からみたら、どこぞかの魔王のような見た目になっていることだろう。
黒は口元に笑みを浮かべる。先ほどまで恐怖に身を竦ませていた女の姿はもうなかった。
黒は板を蹴って跳躍する。それは人間とは思えないほど高く、早いものであった。
壁際にあった板に着地すると、目の前の壁に剣が突き刺さっていた。剣は両刃のもので、黒の知識では西洋のものであったはずだ。
この剣は最後まで逃げようと足掻いた者の物だろう。それを黒は引き抜く。
今の黒の筋力が人外のレベルまで上がっているとはいえ、このままではここから出られないことを理解している。
この剣では振るっているうちに壊れてしまうことを理解している。
黒は剣に手を添えて、唱えた。
「
この世界に来て初めての魔法である。使い方は分かった。理屈は分からないが、使えればそれでいい。
剣が黒の瘴気を帯びる。それは黒自身から溢れる瘴気を吸ってより強大になっていく。剣が黒く包み込まれ、本体が見えなくなる。
そのとき、空気の流れが変わった。空気が頭上から流れ込むのを感じる。次の瞬間、ドラゴンが咆哮を放った。
振動で空気が震える。身体が震える。先ほどは咆哮を聞いただけで、腰が抜けて震えていた。今の黒にその面影はない。
咆哮など意にも介さず、黒は笑みを浮かべたまま、剣を振った。
「死んじゃえ...!!!」
次の瞬間、剣の周りを渦巻いていた闇が解き放たれる。それは、津波を彷彿とさせる濁流となり、壁を飲み込み、抉り抜いた。
ドラゴンは声を上げる間もなく、絶命した。
大穴が開いたことで、胃の中にあったものが外に放出される。黒はそれに飲み込まれる前に、大きく跳躍し、その場を離れた。
○●○●
先ほど、ドラゴンを倒した場から少し離れたところで、黒は倒れた。
全身が恐ろしく怠い。それに加えて全身が軋むように痛い。ステータスを見ると黒化が消えていたことから、その反動であると考えられるが、一言でいえば、最悪な気分だった。
「...っはぁ」
どうにか身体を引きずって、木に横たわる。
黒化状態の時のことは鮮明に覚えている。記憶に障害が起きる類のものではないようだ。
黒は先ほどのことを思い返す。死に直面し、人の死体を見て、体を溶かされかけ、魔法を初めて使い、初めて剣を振るった。今更、生きているという実感が沸いてきて、涙が溢れそうになる。しかし、それ以上に自分の力に感動した。
今の私はあそこまで出来るのか。私はあんなにも跳べるのか。私はあのような力が振るえるのか。
これまで何か特別な何かを得たいと思った。自分が強くいられる何かが欲しいと思った。今の私は前の私が望んだ私だった。
もう限界だったのだろう。幸福感と倦怠感、全身の痛みに包まれながら、黒は眠りについた。
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