第3話 完璧な男の子

 結局、約束の時間まで俺は悠奈ゆうなと母さんに扱き使われ続けた。


 時間の針は恐ろしいほど早く進み、気づけば待ち合わせの三時を差していた。

 父さんは、洗車した車でとっくに駅へ向かっている。

 いつ帰って来るのか。

 俺はリビングの時計を見上げて、秒針が時を刻む度に落ち着かなかった。


 俺とは対照的に、悠奈と母さんは楽しみで楽しみで仕方がないと言いたげだ。

 仲良し母娘は、今では料理を作っている。

 それにしても今から作るなんて、一体どんな御馳走を用意するつもりなんだ?


陽一よういち君は、好き嫌いとかあるのかな?」

「無かったと思うわよ」

「じゃあアレルギーとかは?」

「聞いた事ないわ」


 談笑していても、二人の作業は的確で要領良い。

 指示を与えられないと動けない俺は、リビングで待機している。

 もう何もする事が無いのなら、自室に戻ってゲームと再会してもいいはずだが……この数時間で上げた評価は、一瞬の油断で引き下げられるガラスのようにもろいもの。


 それに、もうすぐ陽一も来る。この微妙な待ち時間……気を許してゲームに会いに行けば、キッチンにいる家族は心底呆れて、俺への心証を一変させる。

 せっかくのプラスを、わざわざマイナスにして良い事なんかあるはずもない。


 …………はぁ、めんどくせえな。まったく。


 聞き慣れた車のエンジン音に、俺は過敏に反応した。

 陽一を迎えに行った父さんが帰って来たのだ。

 同じく帰宅を察した悠奈と母さんが、一目散で玄関に向かう。

 俺は、リビングで落ち着きなく定位置に座る。出迎えは充分だと思ったからだ。


「いらっしゃーい!」


 ドアが開くと同時に出迎えにいった二人の声が綺麗にハモって聞こえた。


「こんにちは。これからお世話になります」


 ハキハキとした声が聞こえた。声変わりをしているのか、響くような低声だ。


「さあ、上がって上がって!」

 母さんの嬉しそうな声。本当に感情がわかりやすい。


 バタバタと、複数の足音がリビングに近づいて来る。

 俺は肺の中にある空気全て、そして湧き上がっていた悪感情すらも入れ替えるように、思いっきり深呼吸をした。

 リビングに最初に入ってきたのは、ニコニコしている母さん。

 次に、久しぶりの再会で照れを隠しきれてない悠奈。


 ……そしてついに、ない 陽一が顔を出した。


 背が高い。俺と同じくらいの背丈だが、細い。肌は病気なんじゃないかと思うほど色白で、手首なんか少し強い力を込めればポッキリ折れてしまいそうで。

 その細い腕は、重そうなトランクを持ってブルブルと震えていた。


 俺と目が合わせた陽一は微笑みながら近付いて来る。俺は勢いよく席を立つ。


智輝ともき君! 久し振りだね、元気だった?」


 陽一が先手を打った。

 おかげで俺は用意していた言葉を捨て、再び言葉選びをする羽目になる。


「あ、ああ! 久しぶり……」


 頭の中で言葉を羅列している途中で、無理に話す必要は無い選択肢が浮かぶ。

 陽一はウチに来たばかりなのだ。ここで長話もないだろう。

 要は、好印象を与えればいいわけだから……俺は努めて口角を引き上げた。

 陽一は、それに応えるように浮かべた笑みを深くした。


「陽一君! 荷物はコッチ!」


 お世話好きな悠奈が手招きする。


「コッチの和室が陽一君の部屋なんだよ!」


 客人が来て、一気にいきいきし始めた悠奈は陽一を連れ立ってリビングを去る。

 緊張していると言っていた割には、その応対は自然だ。

 仲良く連れ立って目の前からいなくなってくれたことで、俺はホッとした。


 最後に、父さんがリビングに戻ってきた。疲れたように深く息を吐きながら椅子に座って、そばにあったリモコンを手に取る。テレビ番組は面白いバラエティーから、堅苦しいニュースに問答無用で変えられた。


「おつかれ~」

 俺は労いの言葉を掛けたつもりだった。


「智輝。お前、最近言葉遣いが悪いぞ」

「え?」

「ちゃんと『お疲れ様』と言うんだ」


 ……また始まった。

 あ~あ。ねぎらいなんかするんじゃなかった。ポイント減点、か。

 急に全てがどうでもよくなる。今まで頑張ったこととか、親の機嫌とか。


「はいは~い」

「返事は一回だ。だらしない」

「ごめんごめん」

「智輝!」


 あえて、ふざけて返していたら本気で怒り始めた。

 いつもなら畏縮いしゅくするけれど今は、いい気味としか思わない。

 たまには反抗もいいもんだ。


正和まさかずさん」


 母さんが宥めながら、俺にアイコンタクトを送って来た。

 二階に行け、と……了解。俺は素早く廊下へ逃げ出した。


「全くあいつは、何様のつもりなんだか」

 わざわざ聞こえるように言っているのか。

 そう思わざるおえないくらい父さんの声は、いやにハッキリと聞こえた。

 俺は見えないことを良い事に舌を出す。

 母さんが、必死に父さんを落ち着かせようとしている。


 母さんは、先程の会話をどう思ったのだろう?

 言葉遣いはさておき、俺は父さんを労った言葉を掛けたのだ。

 その気持ちをを無視して不作法を叱るのは……酷いと思ってくれないだろうか?

 思ってくれているから、父さんを宥めているんだと思っていた。


「あなた……今日は堪えて下さいな。陽一君が来たばかりですから」

 母さんの言葉に、俺の都合の良い予想がぶち壊された。


 ……うん。まあ普通に考えれば、そうだよな。

 陽一に、親子喧嘩を見せられないよな。

 がっかりなんかしてない。少しはそうかもしれないと思ってたから、別に……。


「まあ、智輝も陽一君と共に過ごして、少しは我が身を省みるだろう」


 父さんは地声が大きいからハッキリ聞こえてしまうだけで、別に俺に対して直接言っているわけじゃない。俺を目の前にしては絶対に言わない。

 だからこれは本音。

 俺に、陽一のような《礼儀正しい良い子》になって欲しい……と。

 一体どれだけ一緒にいれば、同じようになるやら。


 はははは……無理に決まってんだろうが馬鹿野郎。


「智輝君」


 背中に声をぶつけられて、俺は思いっきりビクついてしまった。

 家の中で怯えるなんて、その姿を陽一に見られるなんて、情けない事この上ない。

俺は自分を内心で叱りつけながら振り返る。


「な、何か用か?」


 きゅいっ、と口角を上げて俺は自分を取り繕った。

 陽一は困ってると言いたげな曖昧な笑みを浮かべて、頭を掻いていた。何だ?


「えっと……妹の……ユナちゃんだっけ?」

「悠奈だけど」

「あぁ、ユウナちゃんね。ごめん、名前がうろ覚えだったからさ。

 智輝君は覚えていたんだけどね。えっと……」


 挨拶時の時の余裕そうな態度はどこへやら。

 自分から声を掛けてきたはずの陽一は、必死に話題を探しているようだった。

 やがて無難な事を思いついたのか、フッと短い息を漏らしてから話し始める。


「お手洗い、どこ?」


 さっきまで一緒にいた悠奈にも訊けた問いのはずなのに、どうして俺に?

 そう一瞬思ったものの、答えないわけにはいかないので俺は大雑把に答えた。


「そこ」


 指差しと二文字の返事で答えられる質問は、話題にはなりはしない。

 でも、陽一はしつこく続けた。


「あぁ、ありがとう。それで……お風呂は?」

「そこ」

「そっか。あのさ、智輝君の部屋って、二階?」

「そう」


 質問を連発しつつ話題を考えていたようだが、結局思いつかなかったのか本格的に困った顔をする陽一。そんな顔されても、俺まで困るだけだ。

 だいたい今、不愉快が渦を巻いている内心を抱えたまま陽一と仲良くお喋り出来るほど、俺は人が出来てなかった。

 この家には、俺以外にも人がいるんだ。彼等が頑張っておもてなしするべきだ。

 もう会話は終わりだ。最後のサービスで、俺から話を打ち切ろう。


「まあ、来たばかりなんだからゆっくり休んでなよ」


 無難な言葉を言った後、俺は二階に駆け上がった。

 階段から二階は、まだ陽一は来れないはず。思った通り、追っては来なかった。

 でも自室のドアに行くまでの短い時間、陽一と母さんの声が良く聞こえた。


可南子かなこおばさん、何かお手伝いする事はありませんか?」

「あら陽一君。いいのよ。お部屋でゆっくりして」

「いえ、お手伝いさせて下さい! ……わぁ、カレーだ! 僕、大好きです!」

「……それじゃあ、玉ねぎがアメ色になるまで炒めてくれる?」

「はい、わかりました」


 ――――は? あいつ、手伝うだって?

 今日からしばらくお客様扱いなんだから、部屋でまったりすりゃあいいのに。

 それが何? 手伝いますって?

 ……さすがだな。見た目にたがわず、完璧な男の子だよ。


「率先してお手伝いをして、感心だな」

 父親の笑い声を遮るように、俺は部屋のドアを強めに閉めた。


 俺の部屋には、ゲームがきちんといてくれた。

 でも、俺はあれだけ会いたがっていたはずのゲームに構うことなく、ベッドの方へふらふらと向かった。そしてうつ伏せに倒れ込む。


 起床したままになっていた乱れたベッドは、優しく俺を受け入れてくれた。

 もういいや。何も考えず、夕食まで寝よう。

 階下から聞こえる三人の明るい会話は、俺が完全に眠りの世界に逃げ込むまで、執拗に苛み続けた。

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