第2話 憂鬱な気持ち

 愛しの新作ゲームに束の間の別れを告げてから、一階へ降りる。

 階段を降る足音が聞こえたのか、リビングの方から母さんの呼ぶ声がした。


智輝ともき、ちょっと来て頂戴ちょうだい


 長年一緒に暮らしていると、声音で機嫌の良し悪しが判断できるようになる。

 悠奈ゆうなから俺が手伝うと宣言したことを聞いたらしい母さんは、話し声からして上機嫌だった。


 俺は深呼吸してから、両親と妹の前に顔を出した。

 表情や声音に注意して、先程までの苛立ちが不満が悟られないように努める。

 切り出しはごく自然に。


「何?」

「これから買い出しに行って来るわ。

 その間にやるべき事は、悠奈に伝えてあるから、手伝ってあげてね?」


 俺が頷く前に、悠奈が駄目押しに言葉添えた。


「大丈夫だよ、お母さん。お兄ちゃんは今日一日ゲームに逃げないで、やるべきことをしてくれるって言ったもの!  ね、お兄ちゃん! ……ソウダヨネ?」


 悠奈の笑ってない目を見て、俺は先程の分も含めて大げさに応えてやった。


「ああ、俺にまかせろ!」


 兄妹の仲良さを両親にアピールした後、わざわざ外に出てお見送りまでした。

 車が見えなくなると同時に、悠奈はきりっと厳しい顔をする。


「さあ、やるよ!」


 腰に手を当てて威勢よく声を張り上げる妹が、一瞬母さんとそっくりで驚いた。


 悠奈は俺と違って「努力する」「頑張る」というのが好きだ。

 だから成績は学年トップクラス、部活でも顧問や先輩に一目置かれるほど優秀で、両親も鼻が高い自慢の娘。


 それに悠奈は家の手伝いをよくする為、母さんは全幅の信頼を置いている。

 休日は親子水入らずで一緒に過ごす事が多い。

 ほぼ毎日一緒に過ごしているせいか性格や口調、仕草までもが、に母親に似てきているような気がする。


 俺なんか少しぐらい手を抜いても、誰かに迷惑かけなければそれいいと思ってるもんだから、しっかりしすぎている妹が時折、空恐ろしく感じる。


 家の中に戻り、悠奈を追いかけるようについていくと、目的地は和室だった。

 確か……少し前までは物置となっていた和室。

 フローリングの床に見慣れた俺は、畳が新鮮で寝転がってみたい誘惑に駆られた。


「はい! お兄ちゃんは、布団取り出してバルコニーに干してきて!」


 苦労を先延ばしにしようとする俺を知り尽くしている妹が、即座に指示を飛ばす。

 俺は、物置の奥から長らくしまい続けていた客用の布団を引っ張り出した。

 ひんやりとした布団の感触が気持ち悪くて、背中の産毛が逆立った。

 悠奈は、掃除機を持ってきて隅々まで手際よくかけていく。本当に無駄がない。


「なあ悠奈」


 黙って作業するのもつまらないから話しかける。

 親に対して話す時よりも自然に話せるのは、気が楽だ。


「なぁに?」


 悠奈は掃除機を操作してパワーを『強』から『弱』にした。

 吸引音が心ばかりに小さくなる。

 話してOKという明確な意思表示に、嬉しくなる。


「……陽一は、何時に来るんだ?」

「午後三時に駅で待ち合わせ。お父さんが迎えに行くんだって」

「……そうか。三時か」


 俺は出した布団を見下ろした。十数時間後には使われるんだ。

 そして、これから先はずっと使用され続ける。

 もうしまわれっぱなしにはならない。

 この家に新たな住人が来る、それが今でも信じられなかった。


「それにしても、いよいよ来るんだなぁ……アイツ」

「そうだね。お父さんから話を聞いてから、なんかあっという間だったな。

 ……何だか、緊張するな」


 俺は、悠奈をチラリと見た。

 生まれてこの方、人見知りしたことない妹が緊張?


「悠奈は、陽一が来るの……どう思ってるんだ?」

「え? えっと……ね、少し不安だけれど仲良く出来たらいいなって。

 昔に、お兄ちゃんと三人で、よく遊んでいて楽しかったから。

 あの頃みたいに、仲良く楽しく過ごせたら……嬉しいなって」


 悠奈が夢を語るような口調で話した言葉は、俺を黙らせる効力があった。


 仲良く、楽しく……ね。

 きっと俺以外の家族は、時間をかければアイツと上手くやれるだろう。

 しかし俺は――――。


「――――ちょっと!」


 悠奈の声がわかりやすく変化したので、俺はぎょっとして手を止めた。


「な、何だよ!?」

「それ冬用でしょ!? 何、引っ張り出してるの!」

「え? あっ……」


 呆然としている俺の手から、モコモコの羽毛布団を奪い取り、目尻を吊り上げる。何とも、すんごい形相の悠奈はテキパキと畳み直す。


「全くもぉ~う! お喋りなんかしてるからだよ! 

 ほらっ、さっさと敷き布団をバルコニーに干してきて!!」


 ビシリ! と、SEがついてもおかしくないくらいに、キレのいい指差し。

 突き出している悠奈の人差し指の先から、いつ光線が出てもおかしくない。


「は、はい! はいはい!」


 破壊光線でやられる前に。

 俺は大急ぎで引き出した布団を抱えて、二階へ逃げた。


 やれやれ。金切り声で怒り出すのも、母さんそっくりになりやがって。


 言われた通り、バルコニーで布団を干す。

 素晴らしいお洗濯日和。これなら布団も、ふっかふかになるだろう。


「――――でもたしか、おひさまの匂いってダニの死骸のにおい……なんだよな」


 自分で思い出しておいて気分悪くなる。

 世の中、知らなくてもいい事なんてザラにある。その一つの雑学がコレだ。

 俺は気休めだろうが、布団叩きで力を込めて叩きまくる。


 小気味いい音と共にホコリが舞うのが見える。布団叩きを振り下ろせば、埃が太陽の光を浴びてキラキラと輝きながら埃やらダニの死骸が落ちる。

 『叩けば埃が出る』とは、このことだ。

 汚れが落ちていくのを見ている俺は、自分の胸の内に巣食う憂鬱ゆううつが同じように落とされていくような気がした。


 憂鬱の理由はわかっている。あと数時間で、アイツが来てしまうからだ。


※※※※※※


 今日は、父方の従兄、安河内 陽一が我が家に来る日。

 四月に父さんの口から聞いてから、今日まで本当に全く実感が湧かなかった。

 物心ついたころから変化ない四人家族に、もう一人加わる。

 それが信じられなくて。


 話の最中、俺は何度「本当かよ?」という言葉を繰り返したかわからない。

 悠奈からの強烈な肘鉄を脇腹に食らうまで、言っていた気がする。

 じんわりとした痛みは、俺の中の戸惑いを完全に打ち消しはしなかった。


 事の発端は忘れもしない。

 三ヶ月前、夕食時は滅多に鳴らない電話が鳴った。

 電話に出た母さんが短い悲鳴を上げて、まるで怯えたような目で父さんを見てから、震えた声で陽一の両親と弟が事故死したことを告げた。

 陽一の母親は、父さんの妹にあたる。

 妹の死を知った父さんの顔は、今でも忘れられない。


 他人にも家族にも、そして自分には殊更ことさらに厳しい父さんが冷静沈着な仮面をかなぐり捨て、底なしの悲しみに襲われ、絶望に塗り潰された表情をあらわにしていた。


 きっと、俺は一生、忘れることは出来ないだろう。


 その夜、俺は家族全員をうしない、一人ぼっちになった陽一のことを考えた。


 満ち足りて何の不満もない平穏な生活。ずっと続くと思っていた平和。

 家族は当たり前に存在して、いなくなる日は遠い遠い将来の話。

 何の根拠も確証もないが信じ切っていた≪それ≫が、ある日突然、何の予兆もなく壊される。

 気づいたら、いなくなっている。一人になっている。


 いきなり差し迫った孤独が、残酷な現実から逃避させないように、容赦なく、心を滅多刺しにしてズキズキと苛む。

 その理不尽な痛みは一人であることを自覚すればするほど強くなり、酷くなる。


 ……これ以上は気分が最悪になるので、考えることをやめた。

 想像はいい、簡単に逃れることが出来る。

 陽一は、どうあっても逃れられないのだ。

 だから俺が考えている以上に悲しく、辛いんだろうと漠然と思った。


 現実は俺が考えるよりも非情で、陽一の心の苦痛がえる間もなく不幸は重なる。

 一人になった陽一を婆ちゃんが引き取って、しばらく一緒に暮らしていたが、その婆ちゃんが家の階段から転がり落ち、頭を強く打ってしまった。

 すぐに病院に担ぎ込まれたものの……結局、助からなかった。


 立て続けに近しい人を喪った陽一を葬儀の時に垣間見たが、華奢きゃしゃな背中がさらに小さく見えた。

 哀れな彼を見かねて、母さんが一緒に暮さないかと持ちかけていたのは知ってる。

 しかし、まさか現実になるとは思ってなかった。


 そりゃあ陽一は、父さんにとって血の繋がる大事な甥だ。

 でも、人ひとり引き取るなんて、変わらない平穏を何よりも大事にしている父さんが決定するなんて思わなかった。


 とはいえ、家庭の重大事項を決定する権利があるのは大黒柱である父さんだ。

 父さんが決めた事には誰も反対はしない。

 陽一を引き取ることを前から計画していた母さんと悠奈なんて、もろを挙げて賛成。

 三対一だし、思い切って反対したとしても言い包められる未来が容易く想像出来たので、俺も了解せざるおえなかった。


※※※※※※


 俺は、陽一が来ることが信じられないんじゃない。

 ……そうだ、嫌なんだ。話を聞いてから、ずっと。

 アイツが我が家に来ること、そして一緒に暮らす事が、嫌なんだ。


「お兄ちゃーん! いつまでやってんのー!?」


 悠奈の声によって、思考の海から引き揚げられた。


「まだまだやることあるんだから、早く降りて来てよぉ!」


 少しは機嫌が直ったらしい。俺はホッと安堵の息を吐いて、和室へと戻った。

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