千里の航路というのはもっと現実的な距離

 沖ノ島。――

 先日、ユネスコ世界遺産に登録された。あたしもその時気になって、ちょっと調べてみたのよね。


 日本人は縄文時代より、まさに海洋民族である。先日雄治も言ってたけど、南太平洋や、遠く南米にも渡っていた形跡がある。縄文土器が、その他世界のあちこちから発掘されている、という。


 そんな海洋民族日本人にとって、沖ノ島は、太古より半島へ渡る航路の経由地だったらしい。記録にもそれが残っている。遣隋使や遣唐使の航行ルートがそうである。離島なのに縄文土器なんかも沢山見つかっている……ってことは、つまりそれは縄文時代からそうだったって蓋然性が高いわけよ。


 対馬からほぼ真東に位置し、距離は七〇km弱。帆船で日中航海し、日が落ちるまでに渡り切るには丁度良い。また宗像までが六〇km弱で、これまた程良い距離。これこそが、古代日本人が半島に渡る「鉄板ルート」だったっぽい。


 で、このルートなら、当然ながら壱岐を経由する必要がない。

 しかし魏志倭人伝を読む限り、魏朝の使者は壱岐経由のルートを通っている。「一大国」と書かれているが、記述はどう読んでも壱岐島である。沖ノ島ではない。

 いや、仮に何か事情があって、対馬→壱岐・・→宗像というルートを通った可能性はないだろうか。

 そう思ったが、これまた不自然である。


 ネットで見かけた説によると、「水行千里」というのは一種の慣用表現らしい。海路だと距離の測定は不可能である。なので日中航海し、日が落ちる前に辿り着ける距離を、アバウトに「水行千里」と表現したのではないか、というのである。


 早朝に出港することもある一方で、準備に手間取り昼前出港になることもあるだろう。夏場と冬場では日没までの時間も大きく異なる。航行時間の長短に拘らず、とにかく午前中に出港し日没前到着すれば、「水行千里」である。つまりそれが、当時の航海の「現実」なんじゃないかな。……

 であれば、千里の航路というのはもっと現実的な距離だったのではないか。千里(約七七km)という具体的数字に殊更ことさら拘る必要は、低いのではないか!?


 あたしが調べたところによると、往路・・は多分問題ない。壱岐→宗像間七〇km強というのは、帆船やボートの時速を考慮すると、日中に移動可能な距離としてはビミョーに長過ぎる気がする。しかし対馬海流の助けを受け、日没までに宗像へ渡れるかもしれない。ただ、帰路・・はどうか。海流に逆らい、強い南風を受けつつ、日没前に壱岐へ渡れるのか。シロート想像に過ぎないが、なんか無理っぽい。


 壱岐水道の風向きや風速を考えると、魏朝の使者一行が日本に渡って来れるのは、夏のワンチャンスを狙うしかない。逆風になるので、一番風速の弱い夏場、台風の来ない時を狙うのである。

 それから邪馬台国を往復すると、帰路は真冬となる。海流に逆らうことになり、かつ日没も夏場より二時間早い。帰路の宗像→壱岐間は、少々ハードルが高いのではないか!?

 いや、あくまでシロート考えに過ぎないんだけどさ。


(そう考えると、宗像が末盧国ってことはないよね……)


 あたしが思うに、こちらの説にはもう一つ、重大な問題があるのよ。

 それはつまり、伊都国のこと。


 伊都国って、邪馬台国が遠国統治のため、わざわざ「一大率」っていう長官を派遣した重要拠点だったわけだよね。

 末廬国がもし福岡県宗像付近であれば、確かに伊都国は京都みやこ郡か田川郡辺りになる。しかしその辺って、果たして重要拠点たりえるだろうか。――

(多分、違うよなあ……)

 地図をずっと睨みつつ、そう考えざるを得ない。

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