32◆32 道化師の恋
◆◆十五話◆◆
パトリックたちがイリーナたちを追い返した日の深夜。
飲み水用の水差しを手に、ロイはマルコライスの寝室を目指していた。
見回りの兵士とすれ違い、何事もなく挨拶を交わすと。
一昨日の騒動がまるで嘘のように感じられる。
長らく悩まされた山賊騒ぎが一段落し。
首都からの査察など無く。
花嫁さがしも振り出しに戻った。
問題は父親の体調くらいだろうか。
半ば昏睡状態で、物事の判断などできなくなってしまっている。
今日などは一日、寝たきりだ。
それすらも静寂の要素とばかりに、いつになく城内は平和だった。
ロイは立ち止まって窓の外、夜空を見上げた。
――泉を尋ねても。リアンナはもういないんだ。
ふと、そんなことを思う。
今となっては、夢みたいな話だ。
兄弟は同時に恋をした。
それぞれに別の女性で、かつ同一人物で。
その上、存在しない相手だったのだから。
そんな話は聞いたことも無い。
「あっ……!?」
父親の寝室のドアをくぐると、ロイは驚いた。
そこには。先程、思い描いていた人物の姿があった。
「水差し、どこいったのかと思った」
リアンナ。改め、イリーナはロイに向かって語りかけた。
「度々、入れ替えないとね」
ロイはそれを定位置に戻しながら答えた。
マルコライスは熟睡しているようだ。
「イリーナさん、だっけ。どうやって、入って来たの?」
彼女はすでに部外者であり。
夜中に訪ねてきても、追い返されるはずだった。
「未練が、断ち切れなくて」
質問の答えにはなっていない。
けれど、彼女が道化師イウだったのだと考えると。
何が起きても不思議ではないと思えた。
「キミにも謝らないといけない。ゴメンなさい……!」
イリーナは深く頭を下げた。
首都へと帰る前に、父と自分に会いに来たのかと。
ロイは理解した。
思い切った不法侵入を、棚に上げての謝罪とは。
なんだか、おかしくて肩の力が抜けていた。
「俺は、あまり気にしてないよ。
なんだろう。リアンナもめちゃくちゃな人だったし。
騙されるのは覚悟の上での付き合いというか」
何せ、正体に言及しない。それが再会の条件だったくらいだ。
「パトリック兄さんが平民の女性にプロポーズしたのは。
それはよっぽどの覚悟だったろうし、怒りも収まらないだろうけど。
俺はイリーナさんが憎かったりはしない。
て言うか、リアンナとは別人だと思ってるから」
自分はリアンナという女性に恋をしたのであって。
イリーナという女性とは初対面だと。
そのように、ロイは感じていた。
それを聞いたイリーナは、安堵か焦燥か。
複雑な表情で、自らの頬を撫でた。
「そうなんだよね……。
ボクさ。皆のことを知るほど、絆が芽生えている気になってて。
でも、皆はボクを認識してなかった訳だから、赤の他人のままなんだ。
そんなの、当たり前だし。自業自得なんだけど――」
頬に当てた手の指を握って、鼻をすする。
「もう、それが。思いのほかにショックでさぁ……」
イリーナの眼からは、涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
気が付けば、イリーナにとって兄弟たちは特別な存在になっていた。
一方、兄弟たちにとって。彼女は見ず知らずの他人になってしまった。
兄弟たちの失恋の裏で、イリーナの失ったものも大きかった。
「考えたら、父上や俺たちの相手をするのは大変だったよね。
到底、真似できそうにないよ――」
都合、四役。切り替えて。
朝、昼、晩と変わり者の相手をしてきた。
襲撃時には命懸けの場面だってあったはず。
一騎打ちで、敵大将も討ち取っている。
「なんで、そこまでするの?」
彼女は、女王の友人であり。
同性という理由からの付き人だと聞いている。
だとして、何が彼女をそこまでさせるのだろう。
「ロイくんはさ。コンプレックスについてとか。
色々と打ち明けてくれたよね。
だからこそ、ボクはここに居るし。正直に話すよ」
それは覚悟のいることなのだろう。
イリーナは深く呼吸を整える。
それでも足りず。なんども第一声に挑戦し。
ついにそれを声にした。
「崇高な信念で仕えてる騎士様たちには申し訳ないんだけど。
――彼女を、愛してるんだ」
ずっと、胸に秘めて。押さえ込んできた気持ちだった。
口にすることはないと思っていた。
すべきではないと。心に誓った言葉だった。
「本気で……?」
ロイの声は上擦っていた。
同性相手であることもそうだが、相手は女王陛下なのだ。
「本気で。もう、どうしようもないくらいに」
イリーナは、頬を赤く染めて俯く。
「女性も男性も、王族も平民も関係ない。
健気にがんばってる姿をずっと隣で見てきたんだ」
その口調はまっすぐで、淀みがない。
「でも、心配しないで。
解ってる。この気持ちは成就しない。しちゃいけない」
女王には民衆への責任があって、跡継ぎが不可欠だ。
それを、イリーナは果たせない。
この恋は、民衆すべてへの裏切り行為なのだから。
「一番好きな人と一緒になれなかったら。
その後の人生はどうしたら良いんだろうね」
ロイはついそんな愚にもつかない質問をしていた。
イリーナは答える。
「次に行かなきゃ駄目だろうね。
すっかり忘れて、新しい人生を生きるのが双方の為だよ」
だとしても。必ずしも正解を選べないのが人間だ。
イリーナは弱々しく笑った。
「ボクは賢くないから。もうしばらく、彼女の騎士を演じるよ。
彼女を護れる、本当の王子様が現れるまでの代替品さ」
報われなくて構わない。
いくらだって命を賭けてやる。
それでいい――。だって、『愛の目的』は。
自分の欲望を満たすことじゃなく。
相手の幸福を願うことなんだから。
「そんな覚悟でいられたら、俺たちの付け入る隙なんてない訳だよ」
兄弟たちは、真剣に相手を選んでいたが。
それは権力奪取のための手段という側面があった。
使命に目覚めたロイは、特にその傾向が強かった。
「まあ、オッパイ揉めてラッキーだった。てことにするか」
吹っ切れたという調子で、ロイは言った。
「ふぇっ!?」
役作りで言ってた『ふえっ』が、自然と出ていた。
あの日の夜のことを思い出して、イリーナは羞恥に硬直する。
「あ、ごめっ……!?」
相手が照れたことで、ロイも恥ずかしくなってしまう。
――沈黙。
「変な空気になったじゃん!」
「いや、和ませようと思って!」
そこで、イリーナは避けて通れない話題に踏み込む覚悟を決めた。
「――あのさ。泉の前で女の子と遊んでたって、言ってたじゃん」
気が重かった。しかし、避けては終われない。
イリーナは深いため息をついた。
「う、うん。……なに、急に」
五年前、旧国民の使用人が城を出入りしていた。
母子家庭の都合、彼女は娘を連れて働きに来ていた。
「その娘とは。きっと、深い仲だったんだよね?」
胸をまさぐられた記憶からの連想だということが。
どうしようもなく恥ずかしい。
しかし、長らく城を出てすらいないにしては。
ロイは女体に触り慣れていた。
「待って、なんの話……?」
複雑な事情から引きこもりだったロイにとって。
娘は良い遊び相手だった。
しかし、使用人の違反行為により母諸共、目の前で処刑されてしまった。
話を聞いた時点では、マルコライスの異常性が強調されただけだった。
「お父さんが、許せないくらい。本気の相手だったんでしょ?」
「いや、俺はまだなにも……」
下級民と虐げられた旧国民の使用人は、人生の逆転を夢見ていた。
そして、混血児であるロイに目を付けた。
それを恋愛と呼べたかは判らない。
娘は母の指示に従い。
ロイと性的な関係を築いた。
二人は男女の関係だった。
妊娠でもすれば、領主を脅す材料にできると考えたのだ。
十歳の子供同士。周囲は健全を疑いもしなかったが。
母親の金銭着服が発覚し、すべてをマルコライスに知られてしまう。
彼は、下級民の分際でと怒り狂ったのでは無い。
大切な息子を、復讐の道具として弄ばれたことに激怒したのだ。
「襲撃の夜。お父上は、殺されるって。ボクに助けを求めてきた。
それが引っかかってたんだ――」
ロイの口から、医者に見せた。と、言われれば。
誰も、嘘だなんて疑わない。
兄たちは可愛い弟を信頼して、父親の世話を任せたはずだ。
「それとこれと、なんの関係が……?」
「水差しの水、飲んでみてくれないかな」
お願いではない。強い口調だ。
言葉にしてはいないが。
それが、毒を盛ったことを疑っての発言であることは明らかだ。
イリーナにその確証はない。
世話係の彼が毒を盛るタイミングなんていくらでもあるのだから。
ただ、水を入れ替えるにしても不自然な時間だと感じただけだ。
「あのままでいたら!! 殺されそうだったのは、俺の方だよ!!」
ロイはイリーナの要求には答えずに。
心外だという勢いで反論した。
命を狙われていたのは自分の方だと。
稽古中、マルコライスに殺意があったというのは。
ロイの錯覚だ。
しかし、旧国民という理由で。父が使用人親子を殺す姿を見た。
そして、自分には旧国民の血が混じっている。
子供心に植え付けられた恐怖から、父を誤解せずには居られなかった。
害するのが目的ではなかった。
殺されない為だった。
翌日の稽古が無くなれば良いと考え、微弱な毒を食事に混ぜた。
そして、一度成功すれば。もう歯止めが効かない。
いつしかそれは、恋人を殺した相手に対する復讐にすり変わっていた。
彼女がたとえ、ロイと過ごす時間より。
そうした後。母が良い服を着せてくれたり。
美味しい食事ができたことを喜んでいたのだとしても。
家族のなかで自分を異物視していた彼にとって。
たとえ一方通行でも、初恋はより特別なものだったのだから。
「それはもう、自白だよ……」
ロイの反論は言い訳にすらならない。
致死性の毒では無かった。
覚悟を決めた暗殺者ならば。
何食わぬ顔で一口含んで、疑いを晴らせたかも知れない。
しかし、激情を抑制できないくらいにロイはまだ子供だった。
「父さんは俺を愛してくれなかった!!
それどころか、殺そうとしたんだよ!!」
そして、孤独だった――。
「そんなことない。そんなことないよっ!
だって王様は、後継者選抜には平等な方法を選んだじゃないか!」
マルコライスが『花嫁さがし』を提案した時。
誰もが、気でも触れたのかと思った。
だがそれは、マルコライスにとっては熟考したすえの結論だ。
後発のロイが兄たちと同条件でスタートを切れる選択肢は。
それ以外にはなかったのだから。
「妄想だ!! 俺はもう騙されない!!」
ロイは『王の剣』に刃を具現化させる。
ナージアからイリーナが回収し、マルコライスに返還されたはずのものだ。
それを手中にしている事実が、彼の野心の現れだった。
◆十六話、断罪
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