第五夜
『この部屋からはメニュー全品完食しなければ出ることはできません』
食堂の扉をくぐって一番にそのプラカードを掲げてきたのは、馴染みの恰幅のいいおばちゃんではなく、白いコック帽と白の前掛けをした二足歩行の可愛い子豚であった。
今日の昼はとんかつにしよう。そう思って足取りも軽やかに訪れたのに、なんだな出鼻をくじかれた気分だ。罪悪感がとてつもない。
「本日は! メニュー全品! 食べて頂かないと外には! 出られません! お代は全品で! 五百円!」
目の前の子豚は入り口で立ち呆けている俺を見かねて、少年のような声で訴えた。ぴょこぴょこと上下に跳ねて、その姿はなんとも幼気だ。周りに他の客はおらず、もしかしたら少し暇をしていたのかも知れない。随分と一生懸命に訴えるなぁと思わず笑みがこぼれるのは許して欲しい。
「えぇと……、」
「本日は! メニュー全品! 食べて頂かないと外には!」
「いや、それは分かった」
落ち着いて、と腰の位置ほどしか身長のないその豚のつぶらな瞳に視線を合わせる。きょとんと目を瞬かせる様が愛らしい。
「メニューの品、全部食べれば良いのかな」
「そうだ!」
「……全部で百品くらいあるけど」
「全部だ!」
「時間制限とかって……」
「五時間だ!」
とりあえず近くの席に誘導され、渡されたメニュー表をまじまじと眺めた。今こそ他に客は見えないが本来ならばここは昼時に行列ができるほどの人気店だ。品揃えは豊富で和洋中はおろかどこの国か分からない民族料理まである。しかも一品一品にボリュームがあるのだ。通常なら嬉しい仕様なのだが、全て食べきるのはなかなかの至難の業にも思えた。
そして、子豚はそれを五時間で食いきろという。
「ねえ、」
「はい!」
やたら威勢がいい子豚に、一応確認をしておきたかった。
「あのね、もし。もしだよ?」
「はい!」
「もし、……食べきれなかったら?」
「…………」
つぶらな瞳の向こうは真っ黒で、一体何を考えているかは分からない。再度呼びかけても黙ったままだから、それは秘密、ということらしい。
一抹の不安を抱えつつ、けれど後に引けないなら進むしかなかった。幸いお腹は空いている。傍に控えていたその豚に順不同で良いからでき次第に運んでくれと頼むと、彼は嬉しそうに厨房へと走っていった。
換気扇の音ばかりで静かだった厨房がとたんに賑やかになり、幾人かの怒鳴りあう声まで聞こえてくる。ああ、他にも誰か居たのだなぁと呑気に考えるが、姿が見えないため人なのかどうかは分からない。豚かも牛かも鶏かも知れない。
そうして一番始めに運ばれて来たのは、きつね色の衣とみずみずしい千切りキャベツが美しい、当初望んでいた一皿だった。
「とんかつ定食おまち!」
「……ありがとう」
よりによって、とんかつ。
嬉しいけれど、とんかつ。
豚がとんかつを運ぶ様を複雑な心もちで迎える。運んだ豚としては何も考えていないようで、テーブルの端からこちらをひたと見つめていた。……早く食べろ、ということかも知れない。いただきますと手を合わせ、サクサクの衣を箸で掴む。揚げたての、とても良い香りが鼻から抜ける。
「うん、美味しい」
絶品だ。独身一人暮らしの身に染みる味をしている。当の子豚はそれを聴くととても嬉しそうに跳ねると「今から五時間だ!」と告げ厨房へ戻っていった。
そこからはまるで怒涛のようだ。
長い八人掛けのテーブルいっぱいに次々と皿が運ばれてくる。親子丼やら一品餃子やら、それはもう沢山と。見ているだけでお腹が膨れそうなその量を、わき目も振らずにひとつひとつ、必死に箸を動かした。
ぱくぱく、もぐもぐ、ごっくん。
ぱくぱく、もぐもぐ、
ごっくん。
…………。
……。
「はぁー、お腹いっぱい」
目の前のアイスが乗ったスプーンを口に運ぶ。そうして確かめるようにお腹をさするとはちきれんばかりにぱんぱんだった。
今食べ終えたクリームあんみつが最後の一品で、ガラス器が空になった末には、横で口を開けて見ていた子豚が持っていたプラカードをぱたりと落とした。時計の針はまだ二時間回ったばかりだ。厨房の向こうではどよめきが起こっている。
さすがに量が多かったなぁ、ときつくなったベルトを緩めて、昼休憩一時間を大幅に超えてしまったことに肩を落とした。
「とりあえず、五百円だっけ」
「は、はい!」
「美味しかったよ」
硬貨を一枚手渡すと、ありがとうとどこか複雑そうに子豚は言った。まさか平らげるとは思っていなかったであろう様がありありと見えて苦笑いする。
「また今度時間があるときに来るね」
「もう来ないでください!」
泣くように叫ぶ子豚に、今度は声を出して笑ってしまった。
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