第ニ夜

 今の季節はローズガーデンの、華やかな賑わいが美しいその様を、見ながらテラスで過ごしたいと以前言ったのは彼女だった。


 時計は午後の二時半を指し示している。アフタヌーンティーにはまだ早いが、けれどそろそろ休憩も入れたいところだ。書斎の机にかじりついていた身体を起こして背中を後方に伸ばせば、ぱきぱきとなる肩首の骨が悲鳴をあげた。それでもまだ減らない書類を片目に長い長い息を吐く。そうだ、やはり休みは必要だ。


 「リサ? まだ早いけどお茶に……」


 仕事があるならこれを読んで待つわ、と分厚い革表紙の本を持って、同じく書斎に居たはずの恋人の姿は見えなかった。確かに久々に遊びに来てくれた彼女に構うことなく長い間業務にかかりきりだったのは良くないかも知れない。それでも、そんな、一言もなく出て行かなくても。

 少し涙目になった顔を擦って隠し紅茶は一人で飲もうと首を垂らして廊下に出る。そうして思いがけずに漂ってきたのは、香ばしい焼き菓子の香りだった。


 「あら、気付いちゃったの」


 せっかくサプライズにしようと思ったのに。

 そう言って白いエプロンを纏ったリサは、鼻にクリームをつけた顔でおどけてキッチンに立っていた。オーブンの中には丸型のスコーンが膨らんでいて焼きあがるにはあともう一息というところだ。きっと三時前にはいい塩梅だろう。


 「アフタヌーンティーか」

 「私の手製はお嫌?」

 「まさか! なら俺は紅茶を淹れましょう、お嬢様」


 ふふふ、とくすぐったそうに彼女は頬を赤らめて笑った。鼻にクリームが付いていると指摘すれば更に顔を赤くする。

 ハンカチを渡して辺りを目回せば、手馴れていない彼女の調理の軌跡が惨憺さんたんたる状態で見通せた。まずは散乱したボールやホイッパーの片付けかな、と視線を遠くすれば、顔を拭い終えたリサが覗くようにこちらを見ていた。


 「ねーえ?」

 「うん?」

 「たまにはこういうのも良いでしょう」

 「そうだな」

 「これから一緒に暮らしたら毎日が楽しいのでしょうね」

 「あぁ、そうだな」

 「きっと子供ができたら騒がしくなって。あなたは息子ならクリケットを教えたいって言ってたかしら」

 「あぁ……」


 くすくすと楽しそうに笑う彼女は、小窓から入る陽光に当てられて輝いて見えた。とても綺麗だ、そう思う。ずっと、永遠にこの時が続いてくれれば良いのに、と。

 ねぇ、と再度彼女が問う。


 「あなたはとても寂しん坊だから」

 「よしてくれ……」

 「そして一人で考え込んでしまう人だから」

 「……」

 「だから、必ず素敵なお嫁さんを見つけてね」

 「……リサ、」


 何で突然そんなことを言うんだと、俺はそう続けなければならなかった。だって、来月には大勢の客人を呼んで二人の式を挙げる予定なのだ。だって、君と共にあっての幸せなのだ。だって、だから、お願いだから。


 「愛してるわ」


 手を伸ばそうとして掴んだのは空だった。

 一人ぼっちのキッチンで、行き場のない腕を寄せて握る。


 お願いだから置いていかないで。


 その言葉はもう届かない。

 足元にはただ一枚のハンカチが落ちていて、溢れたミルクを拭うことはできず濡れそぼっていた。

 小窓の向こうに見えたローズガーデンの、中央に鎮座する暮石は色とりどりの薔薇に囲われて、どうやらこちらを見て笑っているようだった。

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