第一夜
俺は、長い廊下を歩いていた。
別に先の見えぬ果てしない変わり種のものではない。自分には見慣れた自宅の古い日本家屋の廊下だ。一昨日新しく畳を張り替えたばかりで、屋敷いっぱいにい草の香りが広がり心地良い。突然思い立ったように、茶会をしましょう、と普段から傍若無人な彼女が言いだしても仕様がないとは思う。
「そういえばいい茶菓子を貰ったんです」
そう伝えて彼女には先に茶室へ行ってもらうようお願いをしていた。なので今、俺の手には盆にのった水羊羹がつるりと二つ並んでいる。上等なこし餡の、それは美しい断面をしていた。
離れに設えてあるその茶室は先人の趣味で雪見障子を建てている。枯山水の庭を一望できるようにと随分粋な造りをしているのだ。だから少し手前から既に中にいるであろう彼女のその下半身が戸越に透けて見えていて、あぁ、着物に着替えたのだなぁとぼんやりと思った。
「新しくおろしたのですか?」
長い黒髪を持つ彼女は和服が似合う。普段こそ洋装を纏ってはいるが何着か着物を箪笥に仕舞ってあることを知っている。しかし今障子越しに見えるその裾は目新しい瑠璃色を呈していた。描かれた
中に居る彼女はふるりと身動ぐと、けれど返事をせずに長い脚をたたんで座ったままだった。気まぐれな女性なのだ。恐らく見目に気を遣う彼女としては、実際面と向かって褒めてみろと暗に言っているのだろう。
やれやれと首を振って障子を開けようとする。が、はたと自身が盆を持つ故に両の手が塞がっている事を失念していた。
「あの、障子を開けてもらえませんか。菓子を持って手が塞がっているんです」
部屋の中に居る彼女へ声をかけるが、けれどやはり返答は無かった。幾ら年長者とは言え少しくらい手を貸してくれても。そんな苦言が頭をよぎるが、相手は自分にとって敬うべき存在だ。過ぎた願いなのだと己に言い聞かせて、ならば盆を置かせて貰おうと膝をつく。目の前の、雪見障子から見える彼女の膝に添えられた手は白く、濃く青い着物が更に美しく彩っているようだった。
「あの、涼子さん?」
なぜだろう。異様な虚無感が駆り立てた。不安になって名を呼ぶが、返ってくるのは鳴子の鹿おどしが空気を割く音ばかりだ。
コンッと響くその音に耳が張り裂けそうになる。
「涼子さん、」
再度尋ねるが変わらず彼女は出てこようとはしない。障子向こうでひたりと座って、ただ自分が戸を開け入ってくる時を待つようだった。
コンッと鹿おどしが鳴る。
しん、と返事は無い。
不安に勝てず、勢いよく開けた障子の向こうに彼女の姿は何処にもなかった。
ただ一輪の竜胆が、そこに佇んでいたはずの彼女の代わりに、物憂げに落ちて横たわるばかりだった。
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