存在承認

才波志希

第1話 はじまり

お金は一か月半生活できる分だけ。衣類は最低限。食料と飲料は現地調達。スマホと去年購入したタブレットはすぐに取り出せるように。充電器は鞄の奥底。あとは暇つぶし用の小説と大学の講義レジュメ。


「彩羽(いろは)、他にいるもんあるか?」


佑真の隣で荷造りをする彩羽の手にはいつも彼女が身に着けているピアスがある。それを大事そうにゆるりと撫でて、ポーチの中にしまった。彩羽は佑真の方を向き、小さく微笑んだ。


「これで全部です。佑真くんも終わりましたか?」

「おう。じゃあ行くか」

「はい。お願いします」


佑真は彩羽の手をとり、立ち上がらせる。この家は彩羽の目に合わせて一階建てにしてあるので階段で困ることはない。でも小さい段差や玄関の靴の場所などはわからないことがあるから補助がいる。佑真が一緒にいられるときは必ず彩羽の誘導を行う。もっと他の子にもこんな風に優しくすればいいのに、と彩羽は苦笑いした。

佑真は顔が整っているが、いかんせん無愛想だ。いつも眉間に皺が寄っている。噂ではよく不良に声をかけられるとも言われている。彩羽はその佑真の無愛想顔を見ることができないが、まぁ悪い雰囲気を醸し出しているということぐらいはわかる。外にいるときだけだが。


「佑真」


柔らかい声が、佑真を呼び止める。2年聞き続けたが、今でもこの声がしっくりこない。なんとも言えない違和感に言葉を失っていた佑真に気づいた彩羽が佑真の腕をとんとんとたたいた。はっとした佑真は一呼吸おいて、返答する。


「…何、義母さん」

「今から行くの?新幹線の切符持った?」

「ああ。切符はさっき彩羽と確認した」

「彩羽と?見えない彩羽と確認したって意味ないじゃない。私がもう一度確認してあげるわ」


佑真の腕に、細い指が食い込む感覚があった。怒っているのではない。悲しんでいるのでもない。けれど、それでも、許容できない言葉というものもある。受け入れられない気持ちというものだって、ある。

伸びてきた母親の手を、佑真は払いのけた。それでもその行為に暴力性がなかったことを、彩羽は音で感じ取った。


「言葉に気を遣えって、俺何回も言ったと思うんだけど」

「あ…ごめんなさい」

「謝る相手が違うだろ」


母親がぐっと拳を握る。そんなにも屈辱か、と佑真は苦い顔をした。この人は自分の娘であろうと、障がいのある人間に対して何も認めたがらない。ずいぶんマシになったとは思っていたが、根本的なところで何も変わっていない。


「…ごめんなさい、彩羽」

「いいよ、大丈夫だよ、母さん」


彩羽は見えない代わりに聴覚や嗅覚や触覚、特に聴覚が敏感だ。人の声色、息遣いでその人の気分や気持ちがなんとなくわかる。だからこそ、彼女は生きづらい。母親の声色がよろしくないことを察知したのはこれで何回目だろうか。もう、それを数えることにも疲れた。諦めることも必要だと思うけれど、それができるほど優しい人間ではないと彩羽は目を伏せた。

彩羽の表情がこわばったのを見取った佑真は鞄を背負い直して家を出ようとしたが、また別の声に呼び止められる。今度は、もう聞きなれた、馴染みのある声。


「佑真、行くのか」

「…ああ」

「そうか。彩羽ちゃん、佑真を頼むね」

「はい、わかりました。義父さん」


彩羽も鞄を肩にかけて靴を履く。時間はかかるが、確かに、自分の手で。

立ち上がろうとした彼女の腕をつかみ、立ち上がらせる。二人そろって振り返り、両親に向き直る。

やっとこの檻から出られる。その気持ちだけで佑真は笑った。


「じゃあ行ってきます」

「行って、きます」


いってらっしゃい、という声は聞こえたはずだが、それを認識はしていなかった。もう聞く気がなかったからだ。この扉を開いて、外に出ることだけが二人の望みだったからだ。


二人は3年前、家族となった。だが、この家族は普通の形をしているとはいいがたいものだと、思う。唯一純粋な形をしていたのは、佑真と彩羽の新しい兄弟関係だけだ。

母親の柔らかい声も、父親の堅苦しい雰囲気も、家族を縁取る大きな一軒家も、すべておもちゃのようなもの。佑真の不器用なやさしさと、彩羽の飾らない言葉だけが、お互いのすべてで、ただ大切にしたい真実だった。


「佑真くん、今日暑いけど、太陽出てる?」


彩羽は太陽を見たことがない。けれど、羨望している。その眩しさに、暖かさに。

見上げると日差しが瞳を貫く。その眩しさが目に痛くて、手をかざす。


「出てる。今日は快晴だ」


雲一つない空が、二人の旅を歓迎しているようだった。

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