第二話 サルーンにて
『おめえ、他所モンだな?』
からん、と鳴ったベルの音に、カウンターの奥でグラスを磨いていた巨漢は不機嫌そうに呟いた。
『………………どうしてここにいるのよ?』
『店の主人がてめえの店にいて、どうして?って聞かれるとは夢にも思わなかったんだが』
『じゃなくて』
『?』
音も立てずに背後の戸棚にグラスを戻した巨漢は、聞こえよがしの溜息を吐き、戸口に突っ立ったままの少女を手招きして告げた。
『いいからこっちに来い。夜中に客を取るな、こいつはこの糞ったれた街の――』
『ルール、なんでしょ? 分かってるわ』
夜のサルーンだというのに、人影は皆無だ。
それでも律儀に店を開け、黙々とグラスを磨き続ける巨漢の商売における
『何を出してくれるの?』
『それはお前さん次第だな』
『ちなみに鉄貨一枚だと?』
『……水だ』
こと、とグラスが置かれた。
手に取り、そっと口をつける――よく冷えていた。
『もう一回聞いてもいい?』
『どうしてここにいるんだ、以外の奴なら』
『……別のにするわね』
『それがいい』
芝居がかった大きな動作で禿げ頭を揺らしてゆっくり頷くと、店の主人はブリル以外の客がいないのをいいことに傍らに立てかけてあった椅子を引き寄せそこに腰かけた。その右手にはいつの間にか半分ほど琥珀色の液体が注がれたグラスがある。
『良いお店ね』
『まあ、な』
満更でもないのだろう。片眉が跳ね上がった。
『あとは、水をご所望になる上品な客以外の呑んだくれ共さえいりゃあ完璧だ。そうなりゃなったで厄介事もあるんだろうが、今はそれすら懐かしいぜ』
『やっぱり……ミスター・ルールブックのせい?』
『おいおいおい……勘弁してくれ』
いきなりブリルの口から飛び出した言葉に慌てる。
『繁盛なしで厄介事だけ持ち込むんじゃねえ。誰かに聞かれでもしたら――』
しかし主人は恐れるどころか、にやり、と笑った。
ひょい、と肩を竦めて声を潜める。
『――ま、他の客はいねえしな。……ああ、そうだ。奴のせいさ。糞ったれのモーニングマンだよ』
『マニングマン、でしょ?』
『どっちだって構わねえさ。糞は、糞だ。糞に綺麗も汚ねえもねえだろ? 奴が来てからこうなった』
『戦わないの?』
『俺が、か? 馬鹿言え』
そう言って主人はブリルの太腿ほどの太さの、隆とした筋肉のうねる二の腕にそっと触れた。
『こんなか弱い酒場の主人に敵う相手じゃねえんだ。いや、いくら力があっても無駄だ。あいつは妙な力を持ってやがるからな。魔法じゃ……ないようだったが、魔法執行官でも歯が立たなかった』
『キャンディアのお兄さんね?』
『………………誰から聞いた?』
ぎろり、と睨み付けられ、思わずスツールの上から転げ落ちそうになるところをすんでで堪えた。
『ほ、本人からよ』
『そうか』
その本人と言うのはキャンディアではなく、むしろ加害者側のマニングマンだったが、話がややこしくなりそうなので黙っておくことにする。
『魔法執行官のラケット自らが《決刀》をするってんで、この俺が立会人になったのさ。だから他の連中より何があったのか知ってるし、知っちまった』
《決刀》の立会人は、誰よりも近くでやりとりを見ている。それを聞き、ブリルの心臓が早鐘を打った。
『この俺は、これまで幾度となく《決刀》に立ち会ってきた男だ。だからこそこれだけは言える。ラケットの命を奪ったあの一撃は、剣銃の腕の差によるもんじゃねえと。少なくとも奴の剣銃の腕前はお世辞にも褒められたモンじゃなかったからな』
『じゃあどうやって? 魔法を使ったの?』
『そうだ……い、いや、違うかもしれん』
急に巨漢の口調が歯切れ悪くなる。
『間近で立ち会ってた俺にもはっきりとしたことは言えねえ。元々、俺には魔法の才能なんてモンはねえしな? だが……俺は見た。奴に当たる筈の弾が空を切り、ラケットに当たらない筈の弾が命中する様を。そしてそのいずれの時も、奴の白い手袋に包まれた右手が妙な赤い光を放ったのを、な』
『――!?』
目の前の主人が咎めるように片眉を上げたが――幸いにして気のせいか何かと思ったのだろう。ブリルは必死に動揺を表情に出さぬように堪えながら、ついさっき耳にしたばかりの情報を
きっと――時間魔法を使ったのに違いない。
そしてそれは、ロイ・マニングマンがキャンディアの兄を殺したということだけでなく、レイの探し求める謎の襲撃者の一味なのかもしれない、という可能性をも示していた。
『……おい、大丈夫か、小娘?』
『え――ええ、大丈夫よ。平気』
ブリルの心臓は激しいビートを刻んでいた。
しかし、それはもう、恐れや怯えではない。
前へ、ただ前へ進まんとする原動力――力の源。
めら、と瞳に感情の炎を宿したブリルは、獣じみた獰猛さで、にやり、と歯を剥き出して言った。
『あたし、目標さえはっきり見えたら、物凄く頑張れる子なの。物っ凄くね。曲がったことは嫌い。だから、進むなら真っ直ぐ。ただ前へ前へ行くの』
『おっかねえ……だが、嫌いじゃねえ。好きだぜ』
店の主人は豪胆に笑った。
そして、空になったブリルのグラスに液体を注ぐ。
中身は――ミルクだ。良く冷えている。
それを、つ、と滑らせ、目つきを鋭く細めた。
『ただし……無茶はするなよ? 約束しろ』
『大丈夫。無茶をするのはあたしじゃない――あたしたちだもの。一人じゃない』
示す意味が掴めず、非難がましく眉根を寄せる店の主人に、ブリルはもう一度尋ねてみた。
『ねえ? あなたの名前って、ドング?』
『ディングだ。……ははあ、さては兄貴に会ったな?』
オールドバニー一のサルーン《火炙り酒場》の主人・ディングは、ようやく合点が言ったとばかりに、身体を折るようにして笑い始めた。
そのディングに向けて、最後にブリルは問う。
『この店、お酒の在庫はたんまりあるのかしら?』
『………………どういう意味だ?』
スウィングドアに手をかけ月光を背に受けたブリルは、影の落ちた逆光になった顔の中で、にやり、と悪戯っぽくディングに笑いかける。
『じきにこの店も忙しくなるからよ』
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