第六話 取引――否、これは契約
はあはあと肩で息を吐くレイナードの小さな姿をメイドが無感動のまま凝視している様を見て、とうとうアイリスは堪え切れずに、ぷっ、と噴き出した。
「うふふふ……! ああ、おかしいこと!」
「わ――笑い事じゃないですってば! 僕は真剣なんです! 大真面目なんですからね!!」
「そう怒るものではないわ。落ち着きなさいな」
アイリスはいずこからかレースの刺繍を施したハンカチを取り出し、目元に浮いた涙を拭っていた。
「何も馬鹿にしている訳ではなくってよ? いろいろと可笑しくて堪らない――ついね、そう思ったものですから……だってそうではなくて? 貴方たち二人は、何もかもが違い過ぎているのですもの」
「す、少なくとも同じ人間同士じゃないですか!」
「そこからもう違っているのですよ?」
「え……?」
愕然とするレイナード。
しかし、それをアイリスが語ることはなかった。
そのまま、何処か困ったような表情で立ち尽くしているメイドに
「魔法使い・レイナード、再び貴方に問いましょう。貴方はまだこの旅を続けるつもりなのですね?」
「ええ。勿論です」
「それは友の命を奪った者たちへ復讐するため?」
「それは――」
そうしたい――そう思うレイナードが心の中の何処にもいない、そんな嘘偽りを口にすることはとてもできなかった。偽ることなくそのまま口に出す。
「――かもしれません。ですが……」
「ですが?」
続きを促すアイリスの短い合槌に、レイナードは慎重に言葉を選り抜いた後、淀みなく一息で言い切った。
「僕は……憎しみの対象である彼らを罰するために、殺すことを選びません、絶対に。生きて……そう、この先も生きていくことで、己の犯した罪を償ってもらうつもりです」
揺るぎない信念を宿す少年の瞳の奥をじっと見つめ、やがてアイリスはそっと口元に添えたハンカチの背後でほくそ笑んだ。
(さて……果たしていつまでその無垢なる想いを貫けるのかしら……見物ですわ)
決して視線を反らすことのないレイナードにはそこで浮かんだ黒々とした企みを隠したまま、アイリスは微笑んだ。
「私から提案がありますの。お聞きになりたい?」
こくりと頷く。
「私は、貴方の旅の手助けをすることができるでしょう。ですが……勿論、何の見返りもなく、という訳にはいきませんわ。たとえば――」
「僕の命でよろしければ、差し上げます」
レイナードが躊躇いもなくそう口にすると、アイリスの一つきりの赤い瞳が丸くなった。レイナードは自嘲気味の笑いを張り付かせてこう続ける。
「どのみち、僕にはもう、それきりしか残っていないんですよ、取引の材料に使えるものなんて。僕が見出した《時間魔法》がありますが……きっと貴方は、あれには一切興味がなさそうですからね。違いましたか?」
「ええ。その考えは間違いではありませんよ」
思わぬ大物が釣れて、内心小躍りしたい気持ちを抑えつけながらアイリスは
「けれど……取引という言葉はいささかはしたないと思うのですけれど?」
やんわりと釘を刺してから言葉を繋げる。
「これは、契約、なのです。貴方と――私の。私は貴方の旅の手助けをして差し上げます。その代わりに、貴方も私の望むことを叶えてくださらないかしら? いかがでしょう?」
「それは何か、お伺いしても?」
「いずれ分かりますわ――いずれ」
契約というのは名ばかりの、公平さを欠いた条件であることはすぐに分かった。彼も馬鹿ではない。
だから、
「分かりました。お約束します、アイリス・マルゴットロード。僕は貴方のために尽くしましょう」
そう宣言し、座したままの魔女の前に跪き、首を垂れた。
「……」
レイナードは知る由もないだろう。
その時、アイリスの白い顔中に恍惚とした喜悦の表情が浮かび上がっていたことには。
「……よろしい。ではレイナード――いえ、レイ」
アイリスは言う。
「今、この瞬間から貴方は私の所有物であり弟子であり、手であり目であり耳となるのです。そのことを決して忘れてはなりませんよ?」
「分かりました、我が師、アイリス・マルゴットロード様――」
顔を上げ、
「様、は不要です。アイリスとだけ」
「はい、アイリス」
そして、いまだ膝をついた姿勢のレイナードの前に、ぷら、と磨き上げられたヒールに包まれた足先を差し出した。訳が分からず見上げたレイナードに向かって冷淡に命じる。
「そこに接吻なさい」
「はい……」
恐る恐る手に取り、言われるがままに口をつける。レイナードの手に、唇に、氷のような冷たさが伝わってくる。まるで痺れるような感覚だった。
「では――ねえ、お前?」
「はい」
応じたのは先程のメイドだ。
「この少年の旅の供となりなさい。いいですね?」
メイドはほんの
「あなたが一緒だと思っていましたけど……」
「違います。そうして欲しかったのかしら?」
「それは……」
そうだとも言えるし、そうでないとも言える。
言うべき言葉が見つからず黙り込んだレイナードをそのままに、アイリスはメイドに向かって続けた。
「――いい? お前はこの少年と共に行き、この少年にできないことをしておやり。その代わり……この少年にしかできないことを教えてもらうのです」
「それは何か、と尋ねても?」
「さっき言っていたでしょう? そうですね?」
アイリスは言う。
「誰かの為に泣くこと、誰かのために哀しむこと、誰かと一緒に心から笑うこと――そういうことを学び取るのです、彼から。それらは全て、貴女が人らしく振舞うためにも必要なこと。今の貴女に欠けているものなのです。よろしくて?」
「承知しました、
「……いえ。この旅が終わるまでは、この少年――レイが貴女の
聞く者によっては眉を顰めかねない言葉の数々には表情一つ変えなかったメイドは、そこで露骨に主人の口にした科白を咎めるかのように、ぴくり、と片方の眉を跳ね上げてみせた。それを目敏く見つけてアイリスはそっと口に付けたカップの向こう側から問う。
「……あら、不満?」
「いえ。それがアイリス様のご命令とあらば」
自分の意に反そうが忠実に従う――そういうニュアンスを十分過ぎる程含んだ返答である。ひょんなことから彼女に厄介事を押し付けることになってしまった訳で、気まずさを払拭しようとレイは勢いをつけて立ち上がると深々と頭を下げた。
「よ――よろしくお願いします!」
「……」
「お返事は?」
「……こちらこそ」
メイドのただでさえ無表情な顔は、ともすると路傍の石ころを見つめているかのように冷淡な色を湛えている。その丸眼鏡の奥の切れ長の瞳が再び悠然と寛ぐアイリスに向けられた。
そして、問う。
「もしも、の話です。この少年が死んでしまった場合、私はどのようにすればよろしいでしょうか?」
「帰ってらっしゃいな。わたくしの下に」
ぎょっとするレイナードとは対照的に、アイリスはくつくつと小鳩のような笑い声を漏らす。しかし、きっぱりと命じもした。
「ただし……お前も先程聞いた通り、その少年はもうわたくしの持ち物となったのですよ? きちんと奉仕をなさい。害を成すものは退けなさい――傷一つ、つけぬように。言いたいことは分かるわね?」
「……承知しました」
「では、早速準備をしなくてはね――」
アイリスは音もなく立ち上がると、傍らのレイナードの手を取り、奥の部屋へと誘った。
「旅にはそれなりの蓄えが必要です。それに……お前に見合った戦う術も必要になるでしょう。手を貸しなさい、レイ。時間を無駄にしたくなければ」
「はい」
戦う術――それは武器なのだろうか。
いかなるものであろうとも魔力を失くした今のレイナードが使えるとは到底思えなかったが、アイリスの揺るぎない言葉に後押しされるように彼は進む。
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