第五話 《魔女》アイリス・マルゴットロード

 アイリス・マルゴットロード――。

 レイナードはその名を知っている。


 しかし、


「……よもや、この世に実在している方だとは思ってもみませんでした」


 とうとうその科白を口に出してしまうと、腹を立てるかに思えたアイリスは楽しそうに笑い立てた。


「あら、正直なお方。それ、当人を目の前にして口にすべき言葉ではないと思うのだけれど?」

「それは……いまだに信じられないからなのです。この目で、今こうして確かめた後でさえも」




 レイナードがアイリス・マルゴットロードの名を知ったのは、まだ両親が生きていた頃の、本当に小さい頃の話である。その名がレイナードの世界に現れたのは、一冊の、古びた絵本の中の登場人物としてだった。


 悪い魔女――アイリス・マルゴットロード。


 そうはっきりと書かれていたものの、不思議とレイナードにはそんな風には思えなかった。それは、まだ字の読めないレイナードのために読み聞かせていた母がこう言ったからでもある。


『寂しいアイリスは――いつもひとりぼっちなの』


 妙に耳に残っている。

 今でもだ。




「私の名が書かれた絵物語があることは存じ上げていますわ。だから、驚かれたのでしょう?」

「ええ」


 レイナードは《魔女》に対する適切な振る舞いをすることにした。

 嘘や誤魔化しは――無意味だ。


「でも、聞かされていた話とは違った、そうも思っています」

「ひとりぼっち――ではなかったからかしら?」

「ええ、そうです」


 包み隠さずレイナードが答えると、アイリスは薄く笑って首を振る。


「間違いではなくってよ? 実際に、私はひとりぼっちなのですもの」

「え……? この人がいますよ?」


 腑に落ちず、小首を傾げて傍らに直立不動の姿勢のまま棒立ちしているメイドに視線を投げると、それでもアイリスは明確に首を振った。


「いいえ。その子は、寂しい私が気紛れに作ったのですわ。あとの二人もそう」

「?」


 意味が分からない。




 そう、この魔女のもう一つの名は《傀儡の女王》。

 確か、絵本の中では――。




 レイナードが思い出す前に、魔女・アイリスはもう一つの話を続けることにしたようだ。


「それよりも、私の三つ目の質問に、まだ答えていただけていないと思うのだけれど?」

「そ、それは――」


 相対しているのが《魔女》だと分かった今でも、それを口にすることには躊躇いがあった。しかし本当にこのアイリスがあのアイリスであり、この魔女が真の魔女であるならば、隠し通せる筈もない。






 しばしの沈黙。






 やがてレイナードは頷き、今まで起こった出来事を、一つ残らず全て話してしまうことにする。




 ヴァイオレットを襲った《神像化》のこと。


 その治療法を必死で探しているうちに辿り着いた、生き物の体内から時間を凝縮して抽出することを可能にする新たな術式のこと。


 彼が《結命晶エージス》と名付たその物質を、別の生き物の体内に投与することにより、今までずっと実現不可能とされていた《時間魔法》を偶然にも獲得することができたということ。


 そして――その代償として、彼が二人の親友を失ったという事実。




 最後にレイナードは、その親友のうちの一人の命を救うべく、謎の襲撃者たちを追っている旅の途中なのだ、と締め括った。


「……」


 だが、アイリスは思案する素振りを見せたきり、何も言おうとはしない。


「僕は……!」


 レイナードは焦れた。


「今すぐにでも彼らを追い駆けなければならないんですよ! どうか分かっていただけませんか!?」

「……」


 やはり答えはない。


「時間が……時間がないんです――ですから!」

「よろしいかしら?」


 なおも喰い下がるレイナードの熱意を冷ますように、冷ややかな口調でアイリスは告げた。


「それは、貴方の都合ではなくって? 私には一切関わりのないことですわ。それに、彼らを追って、彼らに追いついて……もしそれが叶ったとしたら、その時貴方はどうするおつもりなのでしょう?」

「え………………?」


 至極当然の問いだ。

 だが、その答えはレイナードの中に存在しない。


 それを見透かしたかのように、アイリスは続けた。


「憎いでしょうね? ええ、そうでしょうとも。愛する人を奪われたのですものね。けれど、今の貴方に何ができると言うのかしら、魔法使い・レイナード?」


 そう言ってから力なく首を振る。


「いいえ。今の貴方ではなくて、かつての貴方でも同じことです。貴方に何ができるというのでしょう? そう、彼らを――殺す?」

「で、できませんよ、そんな酷いこと!!」

「あら――?」


 思わず口をついて飛び出した一言で、アイリスの表情がみるみる怖いものに変化した。


「あらあらあら? おかしなことを仰るのね? 誰にだってできるのよ? 誰かを――殺すだなんて」

「やめて……ください……!」

「そんなに難しいことではないわ。やってみれば実に簡単なことなのよ? ね、そうでしょう?」


 最後の科白は、終始無言を貫いていたメイドに向けて放った一言だった。メイドは躊躇いも狼狽もせずに、こくり、と頷いた。


「――ええ。人を悦ばすことと、殺すことであれば、私にでもできます」


 顔色一つ変えずにそう答え、はじめてその丸眼鏡の奥の感情の欠けた瞳がレイナードを捉えた。


「失礼ながら、小さなお客様。きっと貴方もすぐに覚えることができるでしょう。ご不安に思うところがございましたら、この私が代わりに――」

「絶っっっ対に! 駄目ですっっっ!」

「………………はい?」


 淡々と語る科白を両断されたメイドは、レイナードの血を吐くような絶叫を耳にすると不思議そうに問い返した。


「あくまでご自身でやると仰るのであれば――」

「そういうことを言ってるんじゃないです!!」

「………………はい?」


 ますます理解ができない――メイドは相変わらずポーカーフェイスのままだったが、何処か戸惑っている風でもある。気のせいか、そのやりとりを無言で見守るアイリスが含み笑いをしたように思えた。いよいよ本気で怒り出したレイナードは告げた。


「いいですか!? これ以上、僕を怒らせないでください! 誰かを殺すだなんて、絶対に駄目ですからね! 口にするのも禁止です!」

「……はあ」

「んもう! 本当に、本っ当に分かってます? 僕は、あなたに言ってるんです! ええと……お名前は……」


 思い出せない――いや、まだ聞いていなかった。


 僅かな手間を惜しむかのようにぶるぶると首を振り、レイナードはかんかんになって捲し立てる。


「それしかできない? それは違います! あなたは何だってできます! できるんです! 誰かの為に泣くことだって哀しむことだってできます! その誰かと一緒に心から笑うことだってできるんですよ、絶対に! そんなことできない? なら、この僕が教えてあげます! 嫌って言う程ね!」



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