第三話 黒狼と謎の女

 だが、


「……」


 彼女は身じろぎ一つしなかった。


(恐ろしくて動けないんだ……!)


 黒狼は《恐怖フィアー》の魔法を使うことができる、そう信じて疑わない者もいる。それでなくても、闇夜の森で一人、黒狼に出喰わそうものなら、誰だってそうなるに違いない。


(――!)


 咄嗟にレイナードの身体は動いてしまった。


 ぱきぱき、と足元で小枝の折れる音が響くと、黒狼はその場で立ち止まり全身の筋肉を硬直させた。直後、その黒狼と謎の女性の間に割り込むようにして、レイナードの小さな身体が転がり出てくる。


「下がりなさい! 下がって!」


 ぐる……ぐるる……!


「駄目です! 痛い目を見ますよ!? 下がれ!」


 ぐる……ぐるる……!!


 邪魔をされた黒狼はなおも低い唸りを上げつつ、口の端から鋭く尖った牙を見せつけた。黒狼は群れを作ることを嫌うと聞く。だが、呼ばないとも限らない。一頭だけでもまるで敵う気はしないが、これ以上増えてしまったらなおさらお手上げだ。


「……」


 不思議なことに、女性はこの状況になってもただの一言も発しなかった。じっと口をつぐんだまま、レイナードの背後から事の成り行きを見つめている。


「ほら、いって! あっちにいけったら! ねえ、あなたもゆっくり逃げてください! 早く!」


 じれったい気持ちを抑えながら、背後の気配に呼びかけると、


「……何故ですの?」


 はじめて彼女が言葉を発した。


「な――何故って!」


 並みならぬ品性を感じさせる、凜、と高く澄み渡った声音だったものの、必要以上に落ち着き払った返答に慌てたのはレイナードの方だった。


「この状況、見て分からないんですか!? このままでは襲われてしまいますよ! 逃げないと!」

「誰が、誰に、襲われると言うんですの?」

「あなたが、黒狼に、ですっ!」


 信じられない――仕方なく分かりきった事実を言葉にして投げ返す。だが、信じられないのはまだその先にあった出来事だった。






 うふ。

 うふふふ。


「そのように見えたのですわね、これが」


 笑って――いる!?






「それはどういう――!?」


 思わずレイナードが振り返ろうとした瞬間、


 ぐるるらららっ!!

 一瞬の隙を逃さず、黒狼が宙に身を躍らせた。


「させませんよ!」


 正面に向き直り、ローブの合わせ目の間に手を差し入れ、ベルトで左腰に挟んでいたロザーリオのナイフを抜き払った。柄を握る手に痺れるような痛みが走ったが、わずかに顔をしかめただけで意識の外に追い払う。そして、そのまま顔の前で一閃した。


 ひゅん!

 ぐるらっ!


 ぐる……ぐるるるるる……!!


「お願いです! あっちにいって! 僕の方も、これ以上は加減できません! あなたもです!」

「……私のことですの?」

「そうですよ! 見たら分かるでしょう!?」


 さすがのレイナードも苛立ちが抑えきれない。今すぐ振り返って怒鳴り散らしたい気分だったが、黒狼が油断なく向けてくる鋭い視線で思い止まった。


「襲われてしまう……そういうことですのね?」


 また一しきり艶めいた声で笑うと、こう続けた。


「可愛らしい坊やに、この私が襲われてしまう……あらあら駄目よ、何ていけない坊やなのかしら?」

「違います違うんですって! この黒狼に――!」


 ――ああ、もう!

(この人、気が触れてしまっているんだ!!)


 正気でない人間相手にまともな理屈が通る訳がない。これ以上会話をしても無駄だと諦め、目の前の黒狼を追い払うことに集中しようと思った矢先――。


「――勿論、知っていてよ?」


 耳朶に触れる程近い場所から甘く熱い吐息が吹きかけられ、じっとりとぬめりを帯びた科白がぬるりと脳にまで滑り込んできた瞬間、レイナードは理解不能な恐怖に心臓を掴まれていた。


「え……!?」


 いけない――そう分かっていたのに反射的に声のする方へ顔を向けると、そこには彼女がいた。




 一つきりしか残っていない血のように赤い瞳――。

 左の眼は同じく赤い眼帯で覆われてしまっている。




「けれど……それは間違い。酷い、酷い間違い」

「あなたは一体、何を――?」


 言って――そうレイナードが続けるまでもなく、彼女は、にたり、と口元を三日月形に吊り上げる。


 そして、告げた。


「この私に、可愛い坊やが襲われてしまう――はじめから、そうするつもりでしたの。ですので――」

「――!?」


 ご……ん……っ!


 身構えることすらできず、頭部に激しい衝撃を受けたレイナードの意識は呆気なく昏い淵の底へ――。



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