第八話 変調と混乱と

 じ。

 じじ……。






「あ……?」


 何度か明滅した後、彼女の視界が正常に戻る。






 そこに割り込んできた顔は――。


「良かった。やっと気付いたのね、糞メイド」

「………………貴女ですか、漏らショタ嬢」


 珍しく苦々し気な表情らしきものを浮かべて吐き捨てたメイベルは、横になった体勢からのろのろと身体を起こそうとしたものの、それすらままならない疲労感に諦めたように溜息を吐き天井を見上げた。


 そこに再び、愛嬌のある顔が割り込んで来る。


「……鬱陶うっとうしい」

「ふん、だ。ご挨拶ね!」


 笑顔一転、むくれるブリルの顔を見た途端、何だかほっと安らぐ気さえしてしまうのは不思議だった。


「……でも、一体、どうしちゃったっていうのよ? 凄くびっくりしたんだから。具合……悪いの?」


 そして案の定、すぐにも落ち着かなげに自分を気遣きづかう言葉をかけてくるブリルの性根の優しさを痛感する。




(私は……どうしてしまったのでしょうね……)


 あの少年以外にはまるで興味がなかった筈だ。




 それは、レイと初めて会ったあの日から、今日までずっと変わらなかった。わざと関わらないようにしてきた、とも言い換えることができる。




 他人と。

 いや――レイ以外の人間と。


 それがより正しい表現だ。




(そ、そうでした――!)


「レ――レイ様は何処です!?」

「ま、待って! 落ち着いてよ、メイベル!」


 立つこともまともにできない状態のメイベルだったが、自分に与えられた使命を今一度思い出し――ほんの一瞬のことだったとは言え、忘却していた自分を罵倒ばとうしながら――よろけ、あちこちにぶつかっては周りの家具や調度品を巻き込みつつ、キャンディアの家を出て行こうとする。高価な物がなかったのはせめてもの救いだろう。床に落ちたところで壊れるようなヤワな物は何一つない。しかし、メイベルはそれすら目に入っていない様子だった。


「く……っ!」


 身体の自由が利かないだけではないのだ。


 通常時より視界が――狭い。

 感覚よりも気力だけで進んでいる状態である。


「!?」


 そのうち、頭一つ小さな柔らかい物に行く手を阻まれ、メイベルは苛立いらだちをこらえようともせずそれに両腕を回して抱きかかえ、引き寄せ、押し潰そうと残る力を振り絞った。


「ま……待って……行っちゃ……駄目……だって」


 それがくぐもった声で必死に訴えてきたが、今のメイベルには耳に入らない。

 理解ができなかった。


 自分に課せられた使命の達成を妨げる物は、ただのノイズに過ぎない。






 もっと――もっと、力を――。






「お願……い……ぐっ……あたしの……話を……」


 徐々に声が掠れ、小さくなっていく。

 そのことにメイベルは安堵する。






 これでいい。

 これで先に進め――。






「――っ!?」


 そこでようやっと気付いた。


 即座に腕の力を緩め、恐る恐る腕の中にいる者の顔を見つめ、目をらす。徐々に焦点が合い始め、そこにいた者と目が合った瞬間、メイベルは愕然としてしまった。


 それでも、それは笑いかけてきた。


「良……かった。気付いて……くれたのね……?」

「わ……私は……何という……ことを……!」






 それは――ブリルだった。


 そして今、危うく殺しかけたのは自分自身なのだ。






「わ……私は……私は………………」


 己の手を見つめる。赤く血に染まり、歓喜に打ち震える両手を――いや、それはただの幻影にすぎない。混乱したメイベルの視界の中で、現実と幻影がぐにゃりと入り混じり、おぞましい狂気に満ちた光景がフラッシュバックする。


(ああ、また私は――!)


 初めてメイベルのポーカーフェースが崩れ、今にも泣き出しそうに歪んだ――気がした。


「ブリル……私は取り返しのつかないことを……」

「ちょっと……!」


 ブリルは苦しそうに微笑んでみせたが、そこにはさまざまな感情と想いが詰められていた。


 苦痛――非難――そして、歓喜。


「勝手に殺さないでくれる? 前にも言ったでしょ、あたしってば、案外丈夫なんだから! それでもね……もう二度とやらないでよ? あと……やっとメイベルが、ブリル、って呼んでくれたわ!」


 にひー。


 長身のメイドの腕の中から見上げるようにして笑いかけたが、メイベルはそっぽを向いてしまった。


「……呼んでません」

「嘘。呼んだわよ? もう聞いちゃったもん」

「……良い魔法医を知っています」

「じゃあ、今度紹介して頂戴、メ・イ・ベ・ル」

「いやはやまったく――」


 さすがに降参だ。

 ブリルの諦めの悪さと執拗に付きまとう脱力感には。



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