第二話 捕らわれのブリル
「う、うーん……」
何だか酷いことが起きたような気がしたんだけど。
何だっけ?
そんなことをぼんやりと考えながら、ブリルはあたりの騒々しい物音に迷惑そうに渋い表情を浮かべ、立ち上がろうとして――できなかった。
あ、あれ?
何であたし、ぐるぐる巻きに縛られちゃって、転がされてるの!?
その横倒しになった視界の中に、乱杭歯を剝き出しにした禿た男の顔が遠慮なしに割り込んできた。
「あー。ひっく。目ぇ醒めたか、嬢ひゃん」
「あ……う、うん」
きっと本人は、最上級の優しさを込めた微笑みを浮かべているつもりなのだろう。その上、些か呂律が回っていない気もするが、そのどちらも今は口に出すべきじゃなさそうだ。
「え……えっと」
徐々に思い出してきた。
途端、ブリルの胃のあたりが、きゅっ、と冷たくなる。
「……ね? これ……ほどいてくんない?」
「いいや。駄目ら」
禿た男は、耳の上あたりにだけ辛うじて残ったごわついた髪をした頭を振って、とろん、とした赤い目でブリルを睨み付けた。
「そのままにしとかれえと、お前、暴れるからな。ほれ、ここ。お前のお痛なすべすべあんよのせいれ、歯が一本欠けちまったらねえか」
禿た男が大きく口を開けてみせると、またもや目に沁みるほどの悪臭がブリルの顔にまともに叩きつけられ、途端に嗅覚が馬鹿になる。
きっと、生まれてこの方、歯磨きなんてしたことないんだわ――大体、どれが欠けた歯なのかもさっぱり分からない酷い有様である。
「ち、ちょっとっ! これ、ほどいてってばっ!」
――ああ、もう!
意識したら駄目だと分かっていたのに、一度そう思ってしまったら込み上げてくる衝動に耐えられそうにない。
「あ、あのね……あたし、さっきからトイレに行きたくって――!」
「何ら? それでさっきからもじもじしてんのか」
「う、うっさいっ! だ、だから早くこれ――!」
しかし男はほどくどころか、しきりに擦り合わされているブリルの剥き出しの太腿を凝視して、さざ波のように震えている肌をことさら嬉しそうに目を細めて眺めている。
「嬢ひゃん、あんよだけは良いモン持ってるよなあ。胸の方は随分物足りれえけどよぉ――」
「うぉいっ! 今、何つった、この禿っ!」
思わず声を荒げ――すぐに後悔する羽目に。
「――って場合じゃなかったっ! この体勢で……ぬおおお!……叫ぶと、も、漏れちゃうっ……!」
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいっ!
ブリルが頬を真っ赤に染めて必死に耐えていると、禿た男は、ごくり、と盛大な音と共に唾を呑み下してから小さく呟いた。
「俺……見たことねえんらよなあ……」
「な………………何がよ?」
「嬢ひゃんみてえなのが……目の前でお漏らしするところよ。何らか………………堪んねえなあ……」
そう言って、口腔に収まりきらなくなって顎先まで伝い溢れ出てきた涎を手の甲で拭いながら、そろり、そろり、と無言でブリルの身体に触れんばかりに近づいてくる。
「い……いや……っ! 止めて……お願いっ!!」
さっきまでの酔いも醒め、目の焦点も定まっている。それだけに、ただの冗談や興味本位でしている行動とはもう思えなかった。心なしか、男の下穿きの前当てのあたりがこんもりと、大きく前へとせり出しているようにも見える。いくら初心なブリルにだって、あれが何だかくらいは――分かった。
「う、嘘……嫌よ嫌っ! 触らないで――っ!」
ブリルは必死で男から距離を置こうとするものの、両手両足を縛られて冷えた土床の上に転がされている状態では思うように動けない。
「……すべすべだなぁ」
茹でたソーセージのように丸々とした男の脂ぎった指がさらに近づき、ついにブリルの脚に触れた。
「――!?」
ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞっ!
感覚を倍加させる魔法をかけられたかのように、その触れられた一点から瞬時に全身くまなく隅々まで黒く淀んだ感情が走り抜け、おこりのようにブリルの身体が震え始める。
これは――嫌悪。そして拒絶。
あまりに心の動揺が激しく、身体までもが無意識に反応してしまったせいで、危うくブリルの膀胱は決壊しかけたのだが、そんなことすら脳内から消し飛ぶくらいの衝撃を受けていた。
(やだ……やだよう……!)
(こんな……奴にっ……!)
じわ、と涙が溢れて視界が歪む。
(たす……けて……)
(誰か……助けて……っ!!)
その時、何故か脳裏に浮かび上がったのは、窮地に陥ったブリルを救い出さんと颯爽と現れる顔のない英雄のシルエットなどではなく、あの銀灰色の髪をした少年・レイの純粋で優しい微笑みだった。
刹那――。
「ぎゃあああああ! 腕が……! おでの腕が!」
「で、でめ、なんらああああッ!? んごふっ!」
突如、野太い怒声と悲鳴が轟いた。
遠くから、徐々に近くに。
風を斬り、肉を打つ音が響く。
「は――!?」
さすがにブリルの目の前の男も我に返ったらしい。
「糞ッ! いいどごで邪魔しやがって! 来い!」
「は――放してよ! 痛い! 痛いから!」
禿た男は怒りに身を任せ、むんず、とブリルの身体を小脇に抱えると声と音の聴こえる方へと歩き出した。いまさらになってブリルが知ったことだったが、今までいたのはそよ風でも崩れそうな小屋の中だったらしい。この男たちの手製の住まいだろう。
「う――」
陽の光も差し込まない部屋の中から薄曇りの外に出ると、暗闇に慣れかけていた目が不平を漏らす。
「てめえ……何者だ……!?」
そう唸るように言った男の足元で、放り投げられ、割れてしまった陶製の酒器の欠片が、ぱき、と乾いた音を立てた。
やがて、目が慣れてくるとそこには――。
「……」
いきり立ち、それぞれ思い思いの武器を構えた荒くれ者たちが油断なく取り囲む輪の中心に、一人の男が立っていた。
黒衣の剣銃遣い――ノーマン・ガナー。
「う、嘘……! どうして……!?」
まさか本当に、誰かが助けに来てくれるだなんてブリルは夢にも思ってもいなかったのだ。そうあればいい――確かに神にも縋る思いで必死に願っていたことだったが、現実にそうなるのとは話が違う。
「レ――レイ君は!?」
残念ながら少年の姿は見当たらない。
気のせいか、黒衣の剣銃遣いが呆れたように力なく首を振るのが見えた気もしたが、確かめようと二度見する前に禿た男が予告もなくブリルの身体から手を放してしまったせいで受け身も取れないまま落ち、息が詰まる。
(ぐ――! 漏れちゃう……でしょおおおおお!)
ぎりぎりセーフだ。
ついでに言えば、今の落下で手足を縛る縄が少し緩んだようだ。芋虫よろしくもぞもぞと身を捩り蠢きながらこれから事を構えるつもりらしい禿た男の足元から大急ぎで避難すると、一刻も早く束縛から逃れるためブリルは独り奮闘を始める。
「てめえ……」
禿た男は倒れ伏した仲間たちを見回してから、腹立たし気に酒臭い息を吐き出して吼え散らかした。
「俺たちがここいらを根城にして暴れ回っでる街道盗賊団だと知っでで喧嘩売ってるんらろうなあ!? ぁあ? どうなんら!?」
「……」
しかし、ブリルは知っている。
「だんまり決め込んでるんらねえ! てめえ、一体何者だ! 名乗りやがれ糞っだれ!」
「……」
あの黒衣の剣銃遣いは答えないと。
そうしたくてもできない、そうなのだ。
「無駄よ無駄。無駄だって」
もぞもぞ。
「彼、喋れないんだ、って言ってたもの。彼の名は、ノーマン・ガナー――凄腕の剣銃遣いよ」
「おいおいおい。何で嬢ちゃんがそんなこと――」
いまだ地面に転がされたままのブリルの一言に驚いて、中腰になって耳を傾けていた男だったが、
「……ははーん。てめえ、この嬢ちゃんのイロか? 取り戻しに来たって訳か!? そうはいかねえ!」
「んな――っ!?」
勘違いも甚だしい。
だが、そう思ってくれていた方がブリルには都合が良かった。小屋の入口に立てかけてあった身の丈ほどもある大斧を引っ掴み、軽々と担ぎ上げた禿た男が一歩踏み出すのを文字通り尻目に、さらにその足元から遠ざかろうと、ひょこり、ひょこり、と尻を突き出しては引っ込め芋虫のごとく進む。
(うひぃ……すーすーする……漏れ……ちゃう!)
後ろからみたらお気に入りのレースをあしらった白いパンツは剥き出しの丸見えだろう。でも、ブリル自身はもちろんこの場にいる誰しも、もうそんなことは気にも留めていなかった。
じゃり。
じゃり。
禿た男が空いた左手で合図を送ると、他の男たちがそれに応じるように武器を構え直してノーマンの周囲を取り囲んだ。どうやらこの男がリーダーということらしい。やはりここでもノーマンは腰に下げた剣銃には一切手を触れようともせず、低く腰を落としてゆっくりと大きく両手を広げただけだ。
――ぱき。
誰かの足元で、陶器の欠片が割れる音がした。
それが合図となった。
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